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夢を叶えるためにはまず自分を知ること。目標に向かって突き進むハングリー精神を持とう

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年4月14日公開)

在日本米国大使館政治部一等書記官
アンドリュー・ハク・オウ

1973年、韓国ソウルで生まれる。ケニアのナイロビにて高等教育を修了後、外交官を目指し、ジョージタウン大学に進学。卒業後、日本政府および日本の教育機関にて4年間勤務。ハワイ大学および東西センターで韓国における日本の植民地支配を研究し、01年に修士号を取得。早稲田大学(93-94年)およびソウル大学(00年)でも学び、日本語および韓国語を話す。01年に米国国務省に入省。在ジャマイカ大使館、在香港領事館、本省の朝鮮部(韓国担当)に勤務後、在京大使館へ。ベーカー・加藤国際交流プログラムの米国側代表として、09年の夏まで日本の外務省で政務に就いた後、現職。

「交渉」、「政治」、そして「さまざまな文化」。3つの要素を含む職業は外交官だった
学生時代からさまざまな文化に接してきたと思いますが、どのような学生でしたか。

学生時代は勉強に集中していました。父の仕事の関係で高校はアフリカのケニアだったんですよ。小さな学校で全学年あわせても200人くらいしかいませんでした。ケニアはすごく自由で美しい国です。とにかく自然がきれいなところでしたね。だから自然の中で生きる一人の人間としての意識が非常に強くなった気がして、人間的に成長した時期でもありましたし、物事を考える視野が広くなりました。アメリカに行ってからも、自分は他のアメリカ人とは違うなと気づくことが多々ありました。ケニアではあまり競争が激しくなかったので、ワシントンD.C.のジョージタウン大学に入学したときは、周りの友達がみんな頭がよくてびっくりしました。これは頑張らないといけないなあと思いましたね。ジョージタウン大学を選んだ理由は、国際政治と外交に強いというのを知っていたからです。アメリカでは成績がよくないと就職できないので、とにかく一生懸命勉強しました。とても充実していて、悔いのない学生生活だったと思います。

外交官になりたいと思ったのはいつ頃でしたか。

高校3年生のときです。やはりアフリカにいたときの影響が大きかったと思いますね。ケニアのナイロビの学校では、いろいろな国の学生が集まっていたのですごく国際的でした。他の文化の人と交流するのはおもしろいなと思い始めたときでもありましたね。模擬国連に関連する授業があって、それもすごく刺激的で、交渉したり国際的な課題に取り組んだりするのもおもしろいと思いました。海外に住むことや旅行することも個人的に好きだったので、交渉と政治、様々な文化、これら全ての要素が入っている職業は何だろうと考えていたら、外交官かなと思いました。国籍はアメリカですが、韓国で生まれ育ったことも大きな要因だと思います。普通の韓国人とも違いますし、普通のアメリカ人とも違いますので、生まれたときから文化が混ざったようなアイデンティティーでした。これは一生自分に影響してくると思いますね。

外交官になるためにどのような勉強をされていましたか。

高校生の時は外交官がどのような仕事をしているのか全然知らなかったですね。でもなんとなく国際政治や国際法、歴史、外国語は大事で、将来必要だと思っていました。そして実際、大学卒業後、大学院で歴史を勉強しました。東アジア専門の外交官になりたいと思っていましたので。そのために日本と韓国、中国の歴史と政治を全部勉強しましたね。ジョージタウン大学にいた時も早稲田大学に留学した時も、東アジア関連の勉強が中心でした。むしろそのコースがあるからジョージタウン大学を選んだのだと思います。僕は目標を設定するのが好きということもありますが、小さな目標を一つひとつ達成し、大きな目標をつかむということは、外交官になることに限らず、夢をつかむためには大事なことだと思います。

多岐にわたる外交官の業務

日本に駐在する前はどのようなお仕事をされていましたか。

ジャマイカと香港に駐在していたころは、領事部で仕事をしていました。アメリカ国務省では、入省後新人のうちに領事の仕事をしないといけないんですね。領事部の主な仕事は、ビザの発行やアメリカ国外にいるアメリカ国民のお手伝いです。例えばジャマイカにいたときは、毎月刑務所に行って服役中のアメリカ人の面倒を見ました。しっかり栄養を取れているのか確認し、リクエストがあったら対応するといった仕事でした。香港のときは、親族がいない遺体の引き取りをやったこともあります。これらの仕事は、その後の外交官業務を行ううえで非常に重要な経験となりました。アメリカ国外にいるアメリカ国民を守ること、これは外交官や国務省在外大使館がやらなければならない仕事の基本だと思います。自分の中で、こうした意識が芽生えたことが大きなポイントです。専門は政治なので、このような仕事は二度としないと思いますが、外交官として、こうした意識を忘れてはいけないと思います。僕は外交官の仕事をとても誇りに思っています。

東アジア専門の外交官、特に日本で働きたいと思った理由は何ですか。

父が日本で生まれ育ったので、よく夏休みに日本に遊びに来る機会がありました。それで大学に入学してからは東アジアのことを勉強したいと考えて、父のルーツから日本に辿りついたわけです。日本のことは好きですし、若い時からなんとなく日本の文化の方が自分に合っていると思っていました。それまでは歌を聴いたりテレビを見たりして日本語を耳にすることもあったのですが、大学1年生が終わった後の夏休みから本格的に日本語を勉強し始めました。日本語のクラスを履修したとき、一回目の授業から楽しくて仕方がなかったのです。そういうこともあって、日本に行こうと決め、早稲田大学に一年間留学しました。外交官になってからも日本に駐在したいと考えていたんですよ。それで、実際に来ることができたのだから、僕と日本の間には縁があるんだと思います。

一等書記官というのは具体的にどのような仕事をするのですか。

一等書記官の仕事は大使館によって異なっていて、私の同僚の中には日米安全保障を担当している人もいればアジア地域を担当している人もいます。私が所属する政治部の一等書記官の仕事は、端的に言えば、現場(日本)でさまざまな情報を収集し、それを本国の政策決定者に報告することです。具体的には、日本の外務省の自分と同レベルの官僚との打合せや、日本の国会議員との会話などから、日本政府が本音の部分で何を考えているのかを把握し、それをアメリカ政府に向けて正しくレポートします。

特に印象に残っている仕事は何でしょうか。

日本に来て3年半になりますが、学生のときに名前を聞いたことがある人物やニュースに出てくる人物に実際に会うことができるのは刺激になります。世界の方向性を決めていくような人物ばかりですからね。以前、ワシントンD.C.にあるアメリカ法務省で仕事をしていたとき、ちょうど韓国のパク・チョンヒ元大統領のご息女で、大統領候補でもあるパク・クネ議員がアメリカを訪問していて、ライス国務長官(当時)と対面しました。その時僕の上司は都合が悪くて行けなかったので、代わりに僕がその会議に出ることになったのです。歴史の本に出てくるような人物が目の前にいたので、業務上ノートを取らなければならないのに、ずっと聴き入ってしまいましたね。現在、日本人の方々と交渉するときも、政策や日々の問題に何か進展があると、すごくモチベーションが上がります。例えば、日本の国会議員にアメリカの政策に関する新しい情報を提供することができたときや、僕が彼らからアメリカ政府や日米関係全体にとって有意義な情報を得ることができたときなどです。しかし、僕が最もやりがいを感じるのは、オフィスの外で日本人と信頼関係を構築して、お互いの国について学ぶときです。僕にとっては、それが本当の外交なのかもしれませんね。

いつまでもチャレンジ精神を忘れないでいたい

これからお仕事の中でチャレンジしたいことは何ですか。

この仕事の一番おもしろいところは、仕事が終わらないということです。毎日必ずやることがあります。例えばジャマイカでビザを発行していた時ですが、休日にサーフィンをしに田舎に行くときがありました。アメリカの外交官の車はナンバーですぐに分かりますので、その時にいろいろな批判の声を浴びたというような経験をしました。彼らの頭の中のアメリカのイメージを変えないといけないと思いましたし、アメリカの代表としてそういう責任をもつのが我々なんですね。だから今毎日日米関係に関わることができることにとてもやりがいを感じています。夢としては、大きく環境を変えたいと思っています。僕は韓国と日本の二つの国と特別な関係があるので、この二つの国とアメリカとの関係がより良くなるように貢献したいですね。それぞれが異なる分野でお互いに助けることができると思うんです。

外交官としてのお仕事の上で、毎日欠かさずにやっていることはありますか。

外交官に限らないかと思いますが、いかに情報を得るかが一番大事です。情報が自分のところに入ってくるのは「得」です。誰よりも早く自分が情報を得るとことができると、それは「有利」になります。そして自分だけが知っている情報があれば、「立場が上がる」ことになります。だから、自分でも無意識のうちにさまざまなところから情報を取り入れようとしていますね。ニュースでも電話でもそうですし、人と話をしていても実は情報を得ようとしているのかもしれませんね。今は日本とアメリカの情報に集中していますが、在韓国アメリカ大使館が出すレポートや電報を読むこともあります。それと、次は中国に駐在することが決まっていますので、中国の情報も入手しようとしています。とにかく僕は欲張りで、全部を知りたいんです。また、外交には政治だけではなく、あらゆる分野が含まれていますので、さまざまな分野の知識を得るために日々活動しています。これは外交官以外の仕事にも共通して言える、どの分野でもエキスパートになるための要素だと思いますよ。

ものごとがうまくいかないときは、どのように立ち直るのですか。

高校の時に夢見ていた外交官になるということが遠のいたような時期もありました。そのときは、日本に住んでいたので、仲のよい日本人の友達に相談して、すごく助けられたのを覚えています。みんな同じような年齢で、みんなそれぞれ夢を持っていたので、話をすることでとても気が楽になりましたね。スランプに陥ったときは、自分はまだまだ未熟な存在だ、ということをまず素直に認めることですよね。自分を過度に責めないほうがいいです。それから友達と話したり、スポーツや趣味に没頭したりしながら、我慢して待つことですよね。僕の場合は、1カ月くらいすると、やらなければならないことが自然に見えてきましたね。最初の一歩は小さくてもかまいません。一歩踏み出すことで物事も、そして自分も変わっていけます。学生のみなさんも将来を不安に感じることが多いでしょう。そんなときは仲間と話し、目の前の一歩から踏み出してみてください。

アンドリューさんのように、夢を掴み取るためには何が大事だと思いますか。

一番大事なのはやはりself-awareness(自己認識)だと思います。自分がどういう人で、何をしたいのか、朝起きるときに何が一番自分をウキウキさせるのか、こういう意識ですよね。それが分からないと幸せにならないし、夢も叶えられないと思います。それが分かるようになる時期は人それぞれですが、分からないうちはいろいろな経験をして、探そうとする努力が重要です。それから大事なのは、失敗しても次のチャレンジに進むことだと思います。僕は一時期政治家になろうかなと思っていました。その仕事の実態がよく分からなかったので、大学2年の夏休みを利用してインターンシップをしたんですね。しかし、やってみるとこれは向いてないと思いました。行動を起こしたから、次のステップが見えたのです。目標を作って、それに向けて行動を起こしてみる、そしてそれに向けて努力をするということが大事ですね。夢を叶えるために何が必要なのかを考えて、毎日少しでも努力をすることですね。本当に実現したいのなら失敗してもトライしてみることだと思います。

最後に学生に向けてメッセージをお願いします。

若いうちにいろいろなチャレンジをしてほしいですね。とにかく思いついたことをやってみることです。将来何をやりたいか分からなかったら、海外に行ってみたり、日本のどこか行ったことがない場所に行ったりするのもいいと思います。どこからインスピレーションが来るか分かりませんからね。僕は日本の田舎に行くのが大好きで、いろいろなヒントが待っている気がします。日本の中にもいろいろな素晴らしいものがあるということを忘れないでほしいですね。もちろん海外に行くのもいい経験になります。特に海外に行くと自分の国について分かるようになりますし、自分のこともよく分かるようになります。刺激を受けて、自分の強さと弱点が見えてきますよ。学生のみなさんは表に出さなくてもハングリー精神を持っているはずですから、自分の小さな輪の中だけではなく、もっと広い世界が待っていますので、それを見てほしいですね。

 

編集後記

どこまでもポジティブで、前向きなアンドリューさんからはたくさんのパワーをいただき、私も頑張ろうという気持ちになりました。今度は中国に行くか ら近々中国語の勉強を始めると、新しい環境でのお仕事をとても楽しみにしているそうです。外交官というとなんとなく華やかなイメージがありますが、具体的 にどのような仕事をしているのか正直知りませんでした。今回のインタビューを通じて、外交官としての使命や思いというものを伺うことができ、大変感銘を受 けました。常に夢や目標を持ち続けることは簡単のようで難しいことだと思いますが、大事なのはそれに向かって少しずつ努力するということをしっかりと心に 留めておきたいと思いました。

陸 欣(国際教養学部4年)

 

途上国で直面した貧困という課題。経済からアプローチしてその解決に日々取り組む

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年3月19日公開)

 国際通貨基金(IMF)アジア太平洋地域事務所(OAP) 所長

石井 詳悟

1981年にIMFに着任後、タイ駐在上級代表をはじめ、マレーシア、シンガポール及びベトナムのIMF代表団を率いたほか、アジア太平洋局ならびに政策企画審査局(現戦略政策審査局) や金融為替局 (現 金融資本市場局)の要職を歴任した。また、1989年から92年までは日本輸出入銀行(現 国際協力銀行)で参事役を務めた。南山大学経済学部、 同大学院修士課程を経て、オレゴン大学で博士号を取得。

初めて直面した貧困の世界

海外に興味を持ち始めたのはいつですか。またどのような学生生活を送っていましたか。

私が通っていた南山大学で、外国人留学生との交流活動を盛んに行っていたことがきっかけです。私が学生だった当時、出身地の名古屋で大学を卒業したら、そのまま名古屋の企業に勤める、というコースが一般的でした。しかし、私の場合は大学で留学生と交流する機会が増えるにつれ、海外への興味が増していきました。学部生時代に海外留学をしたかったのですが、当時は1ドル=365円の時代で留学は大変難しかったのです。経済学で学位を取得した後も研究を継続するために、大学院に入学しました。当時、経済発展に関する研究は、アメリカやイギリスが進んでいたため、大学院で使用するテキストは英語の原著を和訳したものがほとんどでした。翻訳版テキストを使って勉強するうちに、なぜ自分は日本で勉強しているんだという疑問を持つようになりました。そして、最先端の研究が行われているアメリカで勉強したいという希望が次第に強くなっていきました。幸いなことに、奨学金を受けてアメリカで学べることになりましたが、1年間という短い期間でした。アメリカでの勉学を続けたいと思い、留学期間が終了に近づくころ、奨学金を提供してくれる機関を探して、その先も留学を続けることができたのです。

IMFに就職した経緯について教えてください。

大学院生だった当時は、正直国際金融機関にはあまり興味がなかったです。ただビザの取得が非常に難しい時代でしたので、金銭的な理由以外でも留学後にアメリカに残るのは困難でした。そのときに、IMFや世界銀行のような国際機関にはビザの問題がないということを知りました。つまり、合格さえすればそこで勤務できるのです。そうした理由から国際機関に興味を持ちました。それでは、どうしてIMFを選んだのかと言うと、1980年代初頭のIMFは今とは異なり、経済研究と実務に関する仕事がほぼ半分ずつくらいあったからです。IMFには国際経済と金融分野の研究者がたくさんいましたし、IMFから多くの論文が提出され、最先端の研究が行われていたのです。私は研究と実務の両方に関心があったため、その希望が叶うと思いました。実際入ってみると、ラテン地域に債務危機が発生しました。その後も多くの途上国が国際収支問題を抱えるようになり、IMFの仕事がだんだんと融資に関係した実務に移行していきました。

国際金融機関で実際に働くようになって、石井さんご自身に何か変化はありましたか。

世界には貧困に苦しむ多くの人々が存在するということを認識したことです。実務として、私が最初に担当したのはバングラデシュでした。各国からの援助や国際機関からの融資を頼りにしている非常に貧しい国です。現地に出張し、バングラデシュの政策担当者と協議したとき、初めは大学院での研究とはまったく異なる世界であると感じました。IMFでは加盟国への経済調査団を通常ミッションと呼んでいます。ミッションは5~6人のエコノミストで構成され、当該国の政策担当者と議論を繰り返し、課題を分析し政策提言を行います。それまでは日本とアメリカの経済だけを研究していたので、貧困に対する知識はほとんどありませんでした。バングラデシュは当時洪水の影響で食糧危機が深刻でした。餓死者も多い現場に突然出張したわけです。非常にショックでしたね。自分は日本に生まれてよかったと気づくと同時に、貧困にあえぐ人々を可能な限り救いたいという思いが募りました。それには、ただお金を渡すということだけではいけません。経済面の政策提言を行うことで、当該国が少ない資源で経済成長を遂げられるようにしなければなりません。バングラデシュに赴任した後は、世界中に貧しい人々がいることを常に意識するようになりました。

人々の生活に影響を与える仕事だから責任も大きい

バングラデシュ勤務の後はどのようなキャリアを歩まれましたか。

その後は中国、ネパール、ベトナムを担当したのですが、大体同じような仕事内容です。1997年にタイを中心にアジア危機が起きましたね。その際タイの危機対応にあたるチームの一員に加わりました。調整プログラムを作るなどして、本当に夜寝る暇もないほど働きました。そのあとバンコクに2年間ほど駐在員として勤務しました。実際に政策担当者と協議し、政策提言することが実は各国に大きな影響を与えるんですね。特にIMFの融資を受ける国はIMFの条件を実行しない融資が実施されないので、交渉を経て政策提言を受けます。政策提言はその国の人々の生活に大きな影響を与えますので、我々はその責任を自覚しながら行わないといけません。振り返ってみたときにそれが常に正しかったというわけにはいきませんが、その場ではできる限りの努力をし、適切な政策を提言していくことが必要です。それがやはり一番やりがいがあるところであり、大学では経験できないことですね。非常に大きな責任が伴う仕事です。

政策提言というのはどのようなプロセスで行われるのですか。

ミッションチームはだいたい5,6人で、財政、金融、国際収支、実態経済などの分野をそれぞれ担当し、Mission Chiefがチームの仕事を統括します。調整プログラムを作るときですと、まずお互いに連携を取りながら、現地に行く前にできる限りの情報を集めて分析をします。そしてどのような問題・課題があるのかを洗い出し、それに対してどのような政策が必要なのかをチーム内で議論し、それらをまとめたものを持って現地に向かいます。現地では政府機関や銀行、民間それぞれから意見を聞き、具体的にどのような政策が適切なのかをさらに議論したうえで、調整プログラムを交渉します。調整プログラムの内容はPress Statementとしてウェブ上に公表されます。

英語のライティング力とディベート力を磨いた留学時代

グローバルに活躍するためにはどのような能力が必要だとお考えですか。

まずは英語力。特に書くことが大事です。それからディベートができるということですね。日本人は授業でも質問しませんし、こういう質問をするとまずいのではないかと恐れるんですね。一方で私がアメリカの大学で教えていたときは、学生から質問がたくさん来ましたし、彼らはまったく恥じません。自分がわからなかったら質問すればいいんですよ。その傾向は国際会議でも出てきます。日本人を含めアジアの人はなかなか質問しません。会議で発言しないと、国際的な舞台では何も考えがないと見なされてしまいます。ディベートは、日本語でも練習することを勧めます。学生なら授業中に質問をすることが第一ですね。英語で話す機会を作るのも大切です。英語の新聞や雑誌を読むこともお薦めします。今はケーブルテレビで英語のチャンネルも見られますので、ニュースをできるだけ英語で聞いて理解するというようなアプローチが必要だと思います。私は大学院の留学時代は、TAをしていましたが、当時は授業料が無料になったばかりでなく、学生とのやり取りで自然に英語の練習になりましたのでお薦めします。

スピーチする石井さん

世界を舞台に活躍したい学生に向けて最後にメッセージをお願いします。

グローバルに活躍するためには、異なる文化、社会制度の中で育った人たちと対話ができるということが一番大事だと思いますね。当然その中に英語力が出てきますし、外交技術も大事です。自分が思っていることを言うと同時に、相手が言っていることを理解することも重要ですね。あとは常に世界に目を向けて、優れている点を見出して、学んでいくというのがグローバルな人だと思います。学生にとってはやはり世界を歩いてみることだと思うんですよ。実際に自分で世界を見てもらいたいですね。

 

国際通貨基金(IMF)アジア太平洋地域事務所(OAP)のホームページ
http://www.imf.org/external/oap/jpn/indexj.htm

編集後記

今回のインタビューを通じて、一口に国際金融機関と言っても、IMFではエコノミスト以外に、半数が様々な分野の専門職や一般職の職員であると知り、IMFを目指す人には多くの可能性が開かれていると感じました。しかし、日本人スタッフをはじめ、アジアのスタッフはまだまだ少ないのが現状です。石井さんも、国際機関に興味をもつ若者が減ってきていると感じているそうで、IMFに興味がある学生の力になりたいともおっしゃっていました。進路選択に限ったことではありませんが、難しそうだからと最初から諦めるのではなく、自分にできることからやっていくことが大事だと思いました。「人の何倍も努力すればなんとかなる」という石井さんの言葉がとても心に残りました。

陸 欣(国際教養学部4年)

世界のトップ人材のレベルははるかに高い。だからこそ世界と闘っていくためには、野心と向上心を持とう

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年3月5日公開)

フォースバレー・コンシェルジュ株式会社代表取締役
柴崎洋平

1975年生まれ。上智大学 外国語学部 英語学科卒業。大学卒業後は、ソニー(株)、ソニー・コンピュータエンタテインメントに勤務。2007年9月に円満退社し、同年11月、フォースバレー・コンシェルジュ株式会社を設立、代表取締役に就任。

常に新しいこと、わくわくできることをやるのが面白い

どのような学生時代を送られていましたか。海外を意識し始めたきっかけは何ですか。

大学時代は、午後の3時から夜遅くまでアメリカンフットボールばかりやっていました。昼間もあまり授業に出ないで、留学生との交流サークルを立ち上げまし た。国際的なイメージを抱いて上智大学に入ったのですが、当時はキャンパス内にほとんど日本人しかいなかったんですよ。市ヶ谷キャンパスには留学生はたく さんいたのですが、彼らともっと交流しないとこの大学に入った意味がないぞと思って、行ったり来たりで毎日留学生とランチを食べて過ごしていました。アメ フトの練習にオフがあると、留学生と一緒に旅行にも行きましたね。いつ頃から海外を意識し始めたのかと言いますと、幼少時代はイギリスで過ごしたんです ね。その時代があったからでしょうね。自分の中で将来は世界を舞台に活躍したいなという思いは小さい頃からなんとなくありました。年齢が上がるにつれてその気持ちが大きくなり、大学もそのイメージで選びました。就職のときも日本でグローバルな企業と言ったときに、僕の中ではソニーしか思いつかなかったんで すね。世界で活躍したいという夢を持ってソニーに入りました。

今はどのようなお仕事をされていますか。

僕たちがやっているのは、日本を代表するグローバルカンパニーが、全世界から優秀な人材を新卒で採用するというビジネスのサポートをすることです。例えば、就職活動のイベントを開いたりキャリアカウンセリングをしたりしています。というのは、ソニーにいた時代に一番感じていたのは、世界の人材レベルの高 さだったんです。エンジニアリングは日本も強いのですが、経営企画やマーケットなどの分野のプロフェッショナリズムのレベルの高さというのは、毎回完敗で すよね。とにかくすごい人をたくさん見たので、こういう人たちを日本のグローバル企業の本社に集めたいと思いました。世界のグローバルスタンダードと日本 の働き方は真逆なので、求職中の外国人学生には徹底して伝えています。今世界30カ国以上700大学と連携が取れていて、リサーチをしながら世界中のネッ トワークを作っています。人材業界はもともとドメスティックな産業でしたが、全世界をシェアに入れればまったく違うマーケットになると思いました。これは やっていてわくわくするし、国際交流にもなるので、インパクトのある新しいビジネスモデルだと思っています。今は外国人に特化するのをやめて、世界の優秀層を扱う会社というのを目指しています。

外国人の方と仕事をする上で心がけていることはありますか。

まず一つは日本人だろうが外国人だろうが、まったく同じ扱いをするということです。そして、あまりにも日本的になってもいけないので、なるべくグローバル スタンダードにマッチした形に持っていく、というこの二つですね。外国人に気を遣いすぎた待遇をしてしまうと逆に日本人社員のほうに失礼になってしまうと いうこともありますよね。会社には本当にいろんな人がいますからね。会社の設立当初もアルバイトスタッフとして留学生を雇いました。ビジネスを立ち上げる ために知能を貸してほしいと呼び掛けたらすごい数が集まったんですよ。外国人のためのビジネスをやるんだったら、外国人が周りにいて、彼らの意見を常に聞 いて、外国人と一緒に考える外国人向けのビジネスというのを僕は意識していました。

日本の新卒は世界一ゆるい。新卒の学生もまだまだ未熟

日本人学生が内向きだと言われていますが、それについてはどのようにお考えですか。

日本人学生全体を見たら、内向き志向がやや上がっているかもしれません。でも僕が付き合っている日本を代表するような企業に入る学生たちにそのような傾向 はまったく感じません。僕が毎日接している日本を背負うような学生にその内向き志向というのが強まっているともまったく思っていません。全員がグローバル になる必要はないですから、世界に飛び出していくトップ層に関しては、そのような意識は全然生まれていないと思いますね。そして、内向き志向だと言われて いるのは学生のせいではなく、日本の企業、社会の責任だと思うんです。日本の古い企業体制や制度が逆に日本の学生に悪影響を与えていると僕は思っていま す。一括採用をなくしたら、留学する人も増えますよね。そして、海外のようにインターンシップを経験してお互いがマッチングすると採用されるという直結型の採用ができたら、日本でも1dayばかりではなく長期のインターンシップが増えますよね。日本学生の内向きよりも日本のプレゼンスの低下のほうがはるか に悪影響だと思っています。

柴崎さんには今の大学生はどのように映っていますか。

これに関して言えるのはまず日本人学生と世界の学生との比較ですね。世界中の学生を見てきた中で、日本は圧倒的に競争がゆるいです。これは勉強に限らずあ らゆることにおいてです。要するに日本の新卒というのは世界一ゆるいんですよ。日本の就職活動が社会問題になっていますが、内定率の低さは世界一ゆるいで す。国中をあげて新卒採用をやる国は日本以外ないですよ。例えば韓国の新卒は転職組とも闘うので、学生が勝てるわけがないですよね。日本は一括採用がある から実際はものすごく楽だし、長期採用の文化なので、採る数もものすごく多い。しかし、グローバルスタンダードは正反対で、海外だとトップ層の新卒が最初 に入った会社にいるのは平均で3年間なんです。海外でトップ企業に入るためには能力が問われるので、みんな専攻がかなり就職に直結するし、インターンシッ プも半年から1年は必ずやっています。彼らはビジネスの世界で自分がどう活躍できるかとか将来のビジョンとか全部がはっきりしています。日本でそういうこ とを考えている人は皆無に近いですよね。常にプレッシャー下に置かれながら一社会人になるための鍛錬がされている海外のトップ人材と勝負していくのは大変 です。だからいろんな面で日本の大学4年生というのは世界の中で未熟な部分が多いですね。

大学時代の過ごし方によって将来に対する意識が変わる

将来世界と闘っていくために、学生時代にやっておくべきことは何だと思いますか。

僕がいつも言っているのは、アジアのトップスクールへの留学です。アメリカに留学に行く人はまだ多いと思いますが、語学留学プラスアルファというのが多い ですよね。もちろん欧米の学生と交流することも素晴らしいことですが、ビジネスのマーケットはこれから完全にアジアだし、アジアの人材と触れるというのは ビジネスの中ではものすごく価値があります。僕はそういう観点でお勧めしています。トップスクールだとやはりそれなりの人材がいて、その国のリーダーにな る人がいるので、国によって強い産業の大学や大学院に行くのは面白いと思います。あとは月並みですが、学生時代に発展途上国を旅してみることですね。最後 にもう一つは、企業での就業経験ですね。夏休み1カ月くらいを利用して企業の長期インターンシップに挑戦して、自分のビジネスセンスを早いうちに確認して おくということは大事な作業だと思います。そうすると将来の自分のキャリアと残りの大学生活をすごくリンクさせて活動できるんです。課外活動を通して意識 が変わってくるはずです。そして、やはり大学や企業がそういう環境を与えないといけないとは思いますね。

柴崎さんにとっての「世界に通用する高度人材」とは何ですか。

世界のトップを目指す人だと思っています。トップというのはいろんな意味がありますが、とにかく高みを目指すということですね。こういう人材がこれから求 められると思います。トップに行くという思いとその思いの強さ、これが一番大事だと思います。どんなに優秀でも心が弱い人は上には行けないですからね。心 が強い人は努力をするので、必ず上に行きます。僕が今まで出会った中で、優秀だなと思った学生は例外なく強い野心を持っているんですよね。「僕はこんな感 じでいいんです」という人は一人もいない。彼らは、こうやって自分の国を、世界を変えたい、というような大きな野心や想いがあります。そして、言語だけが できる人がグローバル人材ではないですよね。英語ができるというのはもちろん必須にはなりますが、言語ができることとグローバル人材とは別です。やはり大 事なのは想いで、骨太で気持が強い人が評価されます。

フォースバレー・コンシェルジュ株式会社
http://www.4th-valley.com/

編集後記

例年より少し遅れて今年度の就職活動も本格的にスタートしました。就職活動の時期になって初めて働くことについて考える学生が多い中、社会との繋が りを意識し、自分のキャリアを常に考えながら学生時代を過ごしてほしいという柴崎さんのメッセージが心に残りました。目的を持って長期のインターンシップを経験することももちろんそうですが、学生のうちに社会人と触れる機会を増やしたり、行動範囲を広げたりすることで、社会の仕組みを知るきっかけにもなる のではないでしょうか。今回のインタビューを通して、日本と海外との就職活動のあり方の違いだけでなく、学生の就職に対する意識の違いを実感し、身が引き締まる思いがしました。

陸 欣(国際教養学部4年)

今の日本人パスポートは天から降ってきたわけじゃない。未来の日本人へのリスペクトを賭けて戦え

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年2月23日公開)

英フィナンシャルタイムズ中国語版コラムニスト、香港フェニックステレビコメンテーター

加藤 嘉一

1984年静岡県生まれ。2003年高校卒業後単身 で北京大学留学。同大学国際関係学院大学     修士課程修了。英フィナンシャルタイムズ中国語版コラ ムニスト、北京大学研究員、香港フェニックステレビコメンテーター。年間300以上の取材を受け、200本以上のコラムを書く。最新書「いま中国人は何を 考えているのか」、「北朝鮮スーパーエリート達から日本人への伝言」。

大事なことは一分間ですべて伝えろ

加藤さんの名刺(名前のみ表記)の真意はなんですか。

加藤嘉一だから加藤嘉一と書いてあります。グローバルで活躍するために名前は必要条件というよりも十分条件です。日本では、どうしても肩書きや会社で人を 決めてしまいますよね。例えば、部長や課長というだけでこの人はすごい、すごくないと決めてしまう。でも、海外ではそれは全く通用しませんよ。僕は一昨日 シンガポールで開催されたある会議に出席してきました。その際もこの名刺を使用しましたが、肩書きは全く関係ありませんでした。名刺よりも眼力だなと感じ ましたね(笑) ただ一方で、名前は非常に大事です。名前は両親からもらったものだから、それを大事にするのは人として当たり前。きっちり名前で勝負する というのは最大の親孝行だと思います。

                                                                 加藤さんの名刺

 

名刺以外に、自己紹介の場で心がけていることがあれば教えて下さい。

例えば、一昨日の話です。僕は、そこで会った方と、今シンガポールでこういうことをして、なぜ来て、何に悩んでいて、だから君とこういうコミュニケーショ ンが取りたいんだと言って、握手するんです。それがすべてです。これを、1分間で常にプレゼンテーションできるようにしておけば、グローバルで戦えますよ。逆に日本の方だと永田町でも霞が関でもいいけど、名刺だけ渡して帰る。これは資源の無駄じゃないですか。日本の学校に提案したいのは、自分についての 1分間プレゼンです。まず小学1年生で日本語で、高校1年生では英語で、社会人からは中国語がベストだけれども第2外国語でそれをやれるようにトレーニン グするんです。内容は、成長するにつれて常にアップデートしていきます。ぜひ公立でも私立でも学校でホームルームの時間でやったらいいと思いますね。

加藤さんはいつごろからグローバルを意識していらしたのですか。

グローバルという言葉を知ったのはここ10年くらいだと思いますけど、幼いころから世界はずっと意識していました。5歳くらいの頃から、趣味は地図を見る ことだったんです。スリランカの首都の名前はなんでこんなに長いんだろうとか、なんでフランスにはいろんな人種の人がいるんだろうとか。そういったことを イメージしながら地球儀を回していました。地図を見始めたのは自然にというより一種の反抗心。生まれた地域がとても保守的な所だったので、なぜ自分が起こ したアクションに対して、他人は潰しにかかるんだろうか、と常に閉塞感を感じていました。それを確かめるためには、物事を客観化する、相対化するしかあり ません。まず、日本のほかの都市に行ってみる。それでも分かりません。日本は均一化した社会ですからね。このとき、既に海外に行きたかったのですけど、人 間1つの事をやるには3つ必要なものがあります。意思と能力、そして条件です。この3つが揃わないと難しいです。結局、意思と能力はあったと思いますが、 なかなか条件が揃わなくて海外に出るのが18歳になってしまいました。

ピンチはチャンス。物売りのおばさんとの語学レッスン

中国語はどのように勉強しましたか。

北京大学で勉強していた当時、SARSの流行で授業が全部休校になったんです。在北京日本大使館が、日本人に対して強制帰国勧告を出していました。当然僕 は帰らなかったけど、周りに日本人がいなくなったわけですよ。でも、ピンチはチャンス。なんとかして周りの人々とコミュニケーションをとって中国語を学ぼ うと考えました。具体的には北京大学の西門で物売りをするおばさんと仲良くなったんです。だから、そのおばさんが僕の中国語の先生ですよ。最初はまずおば さんからアイスを買って握手をすることから始めました。それからは、おばさんの所にとにかく毎日通いました。1日8時間くらいひたすら会話するんです。話 のネタを探すのに大変でしたよ。その時の1日のスケジュールは、まず4時半に起きて、辞書ひいて勉強してラジオ聞いてランニング行って、帰ってきたら簡単 に朝食。朝8時くらいにはおばさんの所に行って夕方4時とかまでずっと会話していました。話をしているといろんな人が会話に入ってくるんです。おばさんの ネットワークってすごいんですよ。

現地の方と交流するなかで、中国語以外に学んだことがあれば教えて下さい。

僕が思うに中国人は、ネットワーキングとインテリジェンスに長けています。どこの国にでもチャイナ・タウンを形成してしまうのですから。日本人にこれがで きますか?できないじゃないですか。海外で日本人だけで仲良く一緒に行動することと、コミュニティを形成したうえで他国の経済に参加することは全く異なり ますよ。また中国人社会は相互不信の社会です。彼らは他人と接するとき、常に疑ってかかります。日本ほど性善説な社会はないですよ。他人を疑うこと、批判 的に物事を見ること。このクリティカル・シンキングが大事です。僕は、中国人は全体的に、何をするときも上手にカーブを投げる、という印象を持っていま す。ユーモア・センスも実はあるんですよね。ただ礼儀正しくしているだけでは生産的でないと分かりました。中国語はもちろん、物売りのおばさんからは様々なことを学ぶことができました。日本人みたいに簡単に他人を信じてはいけないんですよ。自分なりに情報へのアプローチの方法を持つことは重要です。情報を鵜呑みにしていてはだめです。僕の場合は2つの国境を越えて新聞が同じことを言っていたら初めて信用できると思います。正しい見方、正しい情報にどうやっ てアプローチするか自分なりに構築しなくてはなりません。日常の中で自分で鍛えていく必要があります。これは新聞記者になるにしても、学者になるにして も、ビジネスマンになるにしても非常に大事なことですよね。

どのようにして人的ネットワークを構築することができたのですか。

通訳の仕事がきっかけです。最初は、翻訳が一番知的で良いバイトだと思って必死に勉強しました。HSKという試験を受けてスコアがよかったので、中国に着 いて3ヶ月後には翻訳を始めました。1年後には逐次通訳、そのまた半年後には同時通訳をすることができるようになりました。そのときに僕は、単なる通訳で 終わらせずに様々なところに入って行きました。例えば、僕が中国の大物政治家と知り合ったのは人民大会堂という日本でいう国会にあたる場所です。そこでの 会議に通訳として参加したんですね。まずは、きっちり通訳の仕事をこなします。そして、休憩のときに政治リーダー達の様子を窺いながら、トイレであえてぶ つかったり、椅子にかかっていたスーツの上着を落としたりしてね。「あっ大丈夫ですか。落ちましたよ」って拾ってあげるんです。すると「ありがとう。君は優しいな」となります。そうやって会話の機会を自ら作っていました。クリエイティブにアクティブに人的ネットワークを拡大していきましたよ。

海外に出るのはローリスク・ハイリターン、さらにローコスト

海外で生活することで、どのようなことを感じましたか。

日本に対しての愛国心が芽生えたこと、それから現地の人々から見たら自分が日本代表であるということですね。中国で様々な国の人々と語ることで、自分が日本人であるという意識は自ずと高まりました。自分は幼いころから日本が嫌いでした。でも中国の人から日本を誤解されたり、批判されると悔しかった。日本が嫌いだったはずなのに悔しかったんです。これは健全な愛国心だと思います。また、自分は加藤嘉一個人としての意見を言っただけのつもりであっても、外国人にとってはそれが日本人全体の意見になってしまいます。これは非常に責任を伴うことです。だから、まずは何より日本の国際社会における立ち位置や歴史をしっかり勉強することが大事ですね。国際社会で日本人としての意見を聞かれても、何も答えられない。それはとても恥ずかしいことですよ。

学生にメッセージをお願いします。

自分達がいかに恵まれているか知ることです。他国の学生と比べて自分達にはこれだけ情報が開かれていて、これだけどこにでも行ける環境にある。日本のパス ポートを持っていれば、実際どこにでも行けるわけですよ。そのうえ今は円高です。今海外に出なかったらいつ出るんですか。一方、中国の学生は、人民元は切 り上がっていないし、どこに行くにもビザが必要です。北京でアメリカのビザを取るためには、米国大使館の前で500メートルも並ばなければなりません。彼 らは、そうまでしても行きたいと思うんです。でも僕は、ただ漠然と海外に出ろと言うつもりはないです。就活をするか、大学院に進学するか、留学するかな ど、学生の皆さんも迷っているはずです。そんな人に僕からのアドバイスです。まずは選択肢を広げましょう。そしてどの選択肢が一番いいか決定するための視野を広げましょう。何か新しいことをしたいと思うのは、現状に不満を抱いているからです。それを違った視点、場所を変えて自分って何だろう、自分って何が したいんだろうと考える事は非常に大切です。しかも学生のうちに海外に出るのはローリスク・ハイリターン。さらに今はローコストです。迷っていて新しい視 点が欲しい。そんな時は留学でも海外旅行でも行く。自分を非日常に連れていくことです。そもそも、今日本人が海外に行きやすいのは、先人が汗水たらして必死にやってきたから。だから今のパスポートがあるんです。天から降ってきたものではないんですよ。日本のパスポートが今後どうなっていくかは、我々一人ひ とりの日本人にかかっています。自分の海外での振る舞いが今後のパスポートにつながって、未来の日本人が国際社会でどれだけリスペクトされるかにつながる という意識が大切です。そうすれば緊張感が生まれるでしょう。緊張感が生まれたら人は真剣になるんです。

               2010年、「中国時代騎士賞」受賞インタビュー

 

編集後記

インタビュー中、ほとばしる情熱で答えて下さった加藤さん。圧倒されました。一言一言に今までの経験からくる重みを感じました。ものすごく辛く、も のすごく苦しい時があったと思います。でもそれに歯を食いしばって耐え、見えてきたものだからこそ聞く人の心に入ってくる説得力があるのではないでしょう か。「パスポートは天から降ってきたものではない」という言葉が特に強く心に残りました。私達は、海外旅行しようかなと考えたり、留学するかどうかを悩んだりしますが、選択肢があること自体に感謝しなければと感じました。次の世代のためにも、先人が切り拓いてくれた道のその先をさらに切り拓かねばと思いま す。

相原 亮(基幹理工学研究科1年)

人生は計画通りに進まない。目の前にある事象に正面から取り組むだけ

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年2月16日公開)

早稲田大学講師・慧洋海運独立取締役(前住友商事理事・台湾住友商事会社社長)
岩永 康久

1945年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、69年住友商事株式会社 鋼材貿易部入社。アメリカ、台湾駐在を経て、2000年から2007年まで台湾住友商事会社社長を務める。2007年9月には、台湾経済・貿易発展に寄与 したとして台湾政府・経済奨章を受章。2008年住友商事退職後 から現職。

まとまった時間がある今しかできないことを!

学生時代はどのようなことをしていましたか。

勉強以外にもいろいろなことにチャレンジしました。社会に出たら朝から晩まで仕事をしなければならないため、時間があり余っている学生時代を有効に活用し ようと考えていましたね。具体的に例を挙げると、大学生の頃に日本国内はほとんど周りました。海外に行くお金がなかったので、それでは国内で何ができるだ ろうかと考えた結果です。たとえば、北海道を一人、野宿同然で自転車で一周した後、青森-秋田-新潟-東京間2,300kmを50日かけて自転車で走り続 けました。他にも、九州に帰省する途中にテントを持ち歩き、中国・四国地方に寄ったこともあったし、北陸地方まで足を延ばしたこともありました。

先生にとっての学生時代というのは、どのような時代でしたか。

まとまった時間があるときにしかできないことを経験できた時代ですね。正直に言って勉強はあまりしませんでした。しかし、貧乏旅行などで培われた経験や精神力は、住友商事に入社してからも私の大きな力となりました。また、学生時代は友人とよく遊びました。友達との繋がりというのは社会に出てからも非常に大切です。大学で出会った友人とは卒業後何十年経過した現在でも食事に行ったり、お酒を飲んだりするものですよ。学生の皆さんも今の友人関係を大切にしてほしいですね。もしも私が学生時代に勉強しかしていなかったら、自転車旅行の時間や、友人と馬鹿な遊びをして過ごす時間は持てなかったでしょうね。そのよう な学生時代の経験は、今の学生たちのように就職活動のノウハウを勉強することよりも、私にとってはず~と重要なことでした。

どこの国の人も自分の人生が大事で、精一杯生きている

総合商社・住友商事を就職先として志望した理由を教えてください。

私の学生時代は日本も外貨がなく、海外への渡航は簡単でない時代でした。貨物船に乗って皿洗いしながら米国に渡り、自転車でアメリカ大陸横断をやろうと計 画しましたが、VISAが下りませんでした。自分のお金で海外へいけないのであれば、会社のお金で行くしかないなと、それなら総合商社が一番ではないか、 と考えたのです。当時は学校推薦を取れば、あとは役員面接と身体検査だけで内定が出る時代で、運よく住友商事に決まりました。当時総合商社を目指す人の志望理由なんて考え抜いた高尚なものではなく、寧ろ単純なものでした。海外に飛躍したい、海外へ派遣される会社に行きたい。まあ、そのような事でした。入社 してからは楽しい事も失望した事も紆余曲折がありましたが、今振り返ってみると、私の夢はほぼ叶ったと言えるでしょう。アメリカや台湾の駐在を含めて、合 計48ヶ国へ出張し、やりがいのある仕事をすることができたのですから。

アメリカ駐在時代に印象に残っている仕事は何ですか。

 鉄道の高級レールの輸出ビジネスを、着想から利益が出るところまで作り上げたことですね。30歳を過ぎて、鉄鋼係長としてアメリカに駐在していた私は、ね じ輸出の担当をしていました。しかし、当時円高が原因で日本製品の競争力は低下しており、取引していた会社も倒産してしまうほどでした。業績不振で帰国辞令が出かねない!今思うと、会社生活で一番苦しんだ時期でしたよ。債権回収には頭を痛めたし、利益が出るような新しいビジネスを如何にしたら作れるかと 日々苦悶していました。しかし名案は浮かびませんでした。苦悩する中である時ふと、「扱い商品の中に電車のレールをつなぐ部品(ボルトナット)も含まれて いるけど、なぜレールは輸出していないのか」、と疑問に思ったのです。そして、レールの輸出ビジネスを始めようと考えました。しかし、当時の日米間では貿易摩擦が大問題でした。ただでさえ日本製品の輸出が増加し、アメリカが日本に対して不満を持っていた時代です。これ以上輸出を増やせるはずがありませんで した。従い、何処の商社も米国向けレールは扱っていなかったのです。そこで考えついたのが、高級レールの輸出ビジネスです。高級レールというのは、鉄道路線の急カーブに使われるものです。電車に乗っていると急カーブで“キッキッキー”という軋み音が聞こえますよね。これはレールと車輪がお互いの鉄を削り 合っている音です。アメリカでは一編成で機関車が3両、100両の車輛が一度に1万トン以上を運びますから更に過酷な条件です。従い、激しい圧力にも耐え られる高級なものでなければなりません。高級レールを高価格で、過酷な使用条件の場所のみに少量輸出するのであれば、貿易摩擦も生じません。理論としては 完璧ですよね。あとは、保守的な米国鉄道会社、日本の鉄鋼会社の人を説得することに腐心しました。しかし、いろいろな方々の協力を得て、何とか成功させる 事が出来ました。このビジネスの功績で、後に社長表彰をいただく事ができました。

              このようなカーブに高級レールが使用されている

 

アメリカで、考え方の違いを感じたことはありましたか。

私がアメリカ人の考え方を全然理解できていなかったことが原因で、アメリカ人と何度も喧嘩しました。当時の日本が急速な経済発展を遂げていたこともあり、 日本人としてのビジネスの方法を過信していたように思います。私は、チャンスがあれば、全力投球で積極的な攻めの営業をしていました(今思うとtoo pushyだった!)。しかし、一緒に働いていたアメリカ人は、別の考え方を持っていました。彼は、押し過ぎるのではなく、周囲をじわりじわりと固めつつ、「万有引力でリンゴがぽとりと落ちる」ように、後は時期がくるまで待つという考え方を持っていたのです。彼とは率直に議論をしながら、私は多くを学び ました。その後、ビジネスの進め方が変わり、大いに役立ちました。

台湾住友商事社長としての経験から、多くの現地スタッフを動かす際に気を付ける点は何だと思いますか。

私は日本人を過度に優遇しないように気を付けていました。当時、日本企業は国際化が遅れていました。その最大の理由が言語です。日本人の中には英語が苦手 な人が多く、台湾にある会社であっても日本語主体のシステムになってしまったのです。当然社内では日本語が堪能な日本人が有利になります。しかし、これで は台湾人の現地スタッフが不満を持ってしまいますよね。私は常々「人生はそれぞれの個人にとって一番大切なもの」と思っています。日本で生まれたから、台湾で生まれたから、という理由で差別がでたら、不満が生まれますよね。やる気もなくなり、会社の業績だって上がらないでしょう。そのため、絶対に台湾人現地スタッフを差別しないように心がけていました。むしろ意識的に日本人派遣員よりも台湾人スタッフの考え方を尊重し、フェアな処遇になるよう考えていまし た。

間違いは素直に謝ることが信頼につながる

今の学生は内向きだと思いますか。

日本の学生全体が内向き志向になっていると思います。その理由は、豊かな社会で育ったことと、少子化の2点であると思います。今の学生は、豊かな社会で親 に大事に育てられたので、苦労の経験が昔の学生と比べると圧倒的に少ないです。また、少子化であるために、親や親戚の愛情を独り占めにして成長してきまし た。その結果、ハングリー精神が足りない、わがままで打たれ弱い学生が増えたのだと思います。このハングリー精神の欠如から、全体として今の学生は、内向きになりがちであると思います。ただし私は、他大学の学生と比べ、早大生は比較的にバイタリティがあると思います。私の講義をとる学生には外向き志向の人 が多く、機会があれば海外に飛躍しようと考える学生が多くいます。もちろん全体として見て、我々の時代の早大生と比べれば、まだまだ内向きですがね。

なぜ外向きになる必要があるのでしょう。

時代が変化しているからです。これまでの日本は、世界第2位の経済大国でした。日本でやっていれば世界と戦えたのです。しかし、これからは日本の市場は縮小していく一方です。世界に目を転じて、市場を拡大していかないと、企業は生き残れません。早稲田の学生たちには、そういう外向きの志向を持ってほしいと 思っています。世界に出ていくと、考え方・価値観が異なりますから、日本で美徳のように語られる以心伝心など通じません。意見は堂々とはっきり言うことが 求められます。また日本人としてのアイデンティティ・価値観を持って議論してほしいものです。良く歴史問題などの議論も出ますから、歴史も良く理解してお いてほしいですね。そして激しい議論を恐れない事です。口論になる事を恐れて自分の意見を引っ込めれば、真の理解は生まれません。相手の立場を尊重して、 誠意を持って当たれば、率直な議論を通じてこそ真の相互理解が生れるものです。

これから社会に出る学生へメッセージをお願いします。

間違いは「素直に謝る」ことが信頼につながる、ということです。例えば、私が住友商事に勤めていたころ、見積もりの計算ミスで何十億円という赤字が出かね ない失敗をしたことがあります。悩みましたが、かかる事は隠さず即報告すべきと思い、当時の課長に打ち明けました。すると、そのときの課長が「間違いは誰 にでもある。二度と間違えなければいい。よく話してくれた」と逆にほめてくれたのです。取引先には即訪問し、正直に自分のミスを説明して謝罪しました。付 き合いの長い取引先であったため、最終的には理解を得ることができました。みんないい格好はいくらでもします。しかし、間違いを認めることは、誰にでもできることではありません。過ちを素直に認める心をもってほしいですね。もう一点、「苦労は買ってでもする」べきであり、「正面から向き合いなさい」、とい うことも伝えたいですね。人生は山あり谷ありです。調子がいいときがあれば、次には落ち込む時がきます。このときに、困難から逃げずに正面から向き合うこ とが肝要です。若いときに苦労した経験がある人は、将来仕事で辛いことに出くわしても、必ず突破口を見いだせると思います。最後に、あまり就職・勉強だけに執着しないでほしい、ということです。私も今になってもっと勉強しておけばよかったと思う事もあります。しかし社会に出たら朝から晩まで仕事・また関連 の勉強をしなくてはなりません。むしろ、学生時代の貴重な4年間でしかできないことをしてほしい、と思いますね。

編集後記

インタビューの中で、何度も先生が協調なさったのは、「学生時代には、まとまった時間がないとできない経験をした方が良い」ということでした。岩永 先生が、アメリカで「ボルトからレールの輸出へ」という案を思いつくことができたのも、学生時代のさまざまな経験で積み上げた引き出しの多さゆえではない かと思います。私自身、残された1年間の学生生活で、今しかできないことに全力を注いでいき、「経験の蓄積」を増やしていけたら、と思っています。

飯沼亜季(国際教養学部3年)

大切なのは言葉より“迎える心”。外国人を特別だと思わず、そのままの自分で接することが大切だ

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年2月6日公開)

澤の屋旅館館主
澤 功

1937年新潟県生まれ。60年大学卒業後、東京相互銀行に入行。64年旅館澤の屋の一人娘と結婚。翌年銀行を退職し、澤の屋の経営者となる。82 年外国人受け入れを始め、98年まで外国人客受け入れ旅館の全国組織「ジャパニーズ・イン・グループ」会長を務める。2003年には観光カリスマ(下町の 外国人もてなしカリスマ)に認定。現在、社団法人日本観光旅館連盟会長補佐。

「お客様ゼロ」からスタートした、外国人のお客様の受け入れ

澤の屋旅館について教えてください。

台東区の谷中で、家族で経営している旅館です。義母が1949年に開業しました。私が澤の屋旅館の一人娘である家内と結婚した1964年当時は、修学旅行 の生徒さんで賑わっていました。しかし、私が経営者になった頃から、あっという間にお客様が減っていきました。その理由はいくつかありますが、修学旅行の 生徒さんが大手ホテルに泊まるようになったことが一番の理由です。また、生徒さんの次に多かったビジネスパーソンのお客様も、駅前に増えたビジネスホテル へと移っていきました。澤の屋旅館は家族旅館として喜ばれていたのですが、日本人の生活スタイルが変化したことで、家族的な対応よりも一人ひとりにベッド とお風呂、トイレがついているホテルの方が好まれるようになってきたのです。

外国人のお客様を受け入れるようになったきっかけは何でしたか?

お客様が減ってきた頃、新宿の矢島旅館さんから「日本人のお客様が来ないなら、外国のお客様を受け入れなさい」と勧められたことです。矢島旅館さんでは、 以前から外国人の受け入れを始めていたのですよ。でも、一年間は踏み切ることができませんでした。外国人のお客様を受け入れるということは、世界中からお 客様が来るということです。フロントで様々な国の人たちから外国語で話しかけられたらどうしようと思い、言葉ができないのに「外国人の方、どうぞいらっ しゃい」とは言えませんでした。日本人のお客様が泊まってくれない全室和室のお風呂もついていない旅館に、外国人のお客様が泊まってくれるわけがないと 思っていたのです。そうこうしているうちに、1982年の夏にとうとう3日間連続で宿泊客がゼロというときがありました。「このままでは潰れてしまう」と 危機感が高まり、矢島旅館さんを見学させてもらうことにしました。すると、驚いたことに設備はほとんどうちと一緒だったんです。矢島さんが簡単な英語で話 している様子を見て、うちの旅館でもできるんじゃないかと思いました。それで、外国人のお客様の受け入れを始めました。

どのようなご苦労があって、外国人のお客様を増やすことができたのですか?

矢島旅館が全国の小さな旅館に呼びかけて、外国人のお客様を受け入れる旅館の組織「ジャパニーズ・イン・グループ」を作っていました。毎年、パンフレット を年2回7万部ずつ作製して、世界1,000ヶ所に送っていたのです。澤の屋旅館が受け入れを始めた年の外国人のお客様は230人でしたが、そのグループ に入れてもらったことで翌年には3,000人になりました。当時は、インターネットもない時代でしたから、そのパンフレットに載ることが唯一の広報手段で した。この中に、澤の屋旅館の情報やイラスト付きで紹介する日本式旅館の利用法、FAXでの予約フォームを掲載することによって、外国人に澤の屋旅館の知 名度が徐々に浸透していきました。そうして来てくれたお客様を夢中で受け入れていたら、1984年にはお客様が4,000人を超え、客室の稼働率も平均 90%を超えました。年々お客様が増えていき、毎日ほぼ満員の状態となったのです。

外国人だからと言って特別なことはしなくていい。日本人と同じように接することが大切だ。

外国人のお客様を受け入れるために、どのような工夫をされてきましたか?

澤の屋旅館では、谷中の町と一緒になって外国人のお客様の受け入れを進めてきました。うちの旅館では、朝食しか出していません。それ以外は、外国人のお客 様は街に出て行き、町の人のお世話になっています。長期間滞在してくれるお客様に対して、うちだけで毎日違う食事を作って、様々なサービスを提供し続ける のは難しいことですが、町の中には食事や買い物ができる場所がたくさんあります。たとえ3ヶ月間泊まるお客様がいらしても、町と一緒に受け入れれば、より 多くのサービスを提供できるのです。外国人のお客様は、日本人が当たり前だと見過ごしている普通の日常的な活動に興味を持っています。そういう経験をする には、日本の生活が残っていて、文化や歴史に触れ合うことができるこの町が最適だと思っています。外国人のお客様が街に買い物に行き、町の人といい思い出 ができれば、その町が好きになって、日本が好きになって、澤の屋旅館のリピーターになってくれるんじゃないかという想いがあって、谷中の町全体で一丸と なって受け入れ続けています。谷中の町があって、谷中の人がいるから、澤の屋旅館が成り立っているのだと思っています。

外国人のお客様が町に出るために、どのような工夫をされているのでしょうか?

澤の屋旅館は家族旅館ですから、旅館の中だけではそんなに交流はできません。そのため、町の人と交流できる機会を紹介して、どんどん町中に出ていってもら うようにしています。私の仕事の一つは、外国人のお客様と町の人との交流の橋渡しをすることだと思っています。たとえば、近くで盆踊りをやると聞いた時 は、町会の人に頼んで、踊りの輪に入れてもらい、また、夏祭りでは、神輿をかつぐ体験をさせてもらいます。餅つきや桜見物に行くこともあり、谷中では様々 な体験ができます。他には、日・英両言語の谷中エリア・マップを作って、お客様に渡しています。豪華な宿や美味しい料理のことは忘れてしまいますが、その国の人との触れ合いや、ちょっと親切にされたことは旅の思い出として後々まで残ります。世界遺産を見ることもいいですが、町の人との良い思い出を作れた ら、その人を通してその町や国が好きになって、旅館にもまた来てくれます。町ぐるみで交流することがとても大切なんです。

外国人のお客様を受け入れるために、澤の屋旅館が方針を転換したことはありますか?

設備や言葉などは何も変えずに受け入れてきました。世界中のすべての人が喜んでくれる宿はないと思っています。ですから、外国人のお客様を増やそうと思っ て新しい設備をこしらえるのではなく、今現在日本にあるものをなくさないことが大切です。お客様は、旅の目的に合わせて宿を選んでいます。旅が目的で、宿 は手段なのです。あるリピーターのお客様は「いつ来ても家族でやっていて、顔が見えるから澤の屋旅館が好きだ」と言ってくれますが、すべての外国人旅行者 にとって家族経営で小さな旅館が適しているわけではないわけです。仕事のときはホテルに行く。温泉に入って美味しい和食を食べたいときは、観光旅館に行 く。ゴールドカードを持っている富裕層のお客様も澤の屋旅館に泊まってくれますが、それは旅の目的に合わせて選んでくれるからです。だから、いくらお客様 が増えても、設備を拡張したり、チェーン店にすることはしませんでした。また、言葉についても、外国のお客様と話すときに私は単語しか話していません。で も、お客様は「うん、うん」と聞いてくれます。澤の屋旅館でコミュニケーションができなかったというクレームは一つもないのです。言葉は流暢に話せない し、部屋にお風呂もついていないけれど、「良い旅館だよ」と言ってもらえて、たくさんのサンキュー・レターをいただいています。

大切なのは言葉ではない、「ありのままの日本」を伝えること。

今後は、どのような宿にしていきたいですか?

今後は、長く滞在してくださるお客様を増やしていきたいです。そして、外国人のお客様を受け入れる宿が増えるためのお手伝いをするのが、私の仕事だと思っ ています。30年前の私は、設備が整っていて、世界中の言葉を話せないと、外国のお客様は受け入れられないと思い込んでいました。でも、世界中の人に合う 旅館なんて存在するはずないじゃないですか。だから、「日本の旅館はこういうところですから、どうぞ」という考えで受け入れた方が楽だということを、外国 人のお客様を受け入れていない他の旅館にも伝えていきたいです。

どのような想いがあって、ご自身の経験を伝えているのですか?

日本は、国を挙げて訪日外国人旅行者を3,000万人にしようという目標を掲げています。5年先か10年先になるかわかりませんが、訪日外国人旅行者が 2,500万人にまで達すると、延べ宿泊者の5人に1人が外国人になるそうです。ですから、宿泊施設を経営する人が外国人の好き嫌いを言っていられる時代 ではなくなります。2008年に総務省が実施した意識調査では、日本の宿泊施設の38%が外国人客を受け入れていませんでした。この外国人の宿泊がなかっ た施設の72%が、「これからも受け入れたくない」と回答しています。言葉がわからない、設備がない、トラブルが嫌だという理由です。言葉がわからない、 設備がないというのは30年前の澤の屋旅館と同じです。「言葉ができるようになったら」、「外国人向けの設備ができたら」と言っていたら、100年経って も受け入れられません。旅館は旅館のままで、日本人のお客様と同じように受け入れればいいのです。日本に来る外国人も、自分を特別に扱ってもらおうと考え ているわけではありません。だから、今のままで大丈夫ですよと言い続けていきます。もっと多くの宿が外国人のお客様を受け入れるようになれば、宿も潤っ て、町も賑やかになるんじゃないかと思っています。私の経験を伝えることで、宿泊施設の経営者だけでなく、学生の皆さんにも「澤さんができるんだから、 やってみよう」と思っていただけたら嬉しいです。日本人も外国人も関係ありません。ありのままで接すればそれでいいんです。

最近の学生は「内向き」だと言われています。外国人と交流したいけれどその一歩を踏み出せない学生に、メッセージをお願いします。

言葉ができるに越したことはないと思いますが、先ほども申し上げたように、世界中の言葉など誰も覚えられません。ですから、多少英語が苦手でも気にせず に、「迎える心」を大切にして外国人と交流してみてください。私も、外国人のお客様を受け入れる前は、最も言葉が障害になると思っていました。しかし、い ざ受け入れてみると、言葉が一番障害にならなかったんです。最初は、息子が中学校で使っていた英語の教科書を見て、使えそうな文章を暗記しましたが、その 英語でお客様に話しかけても全然通じませんでした。でも、単語だけ言ったら通じたんです。もし、どうしても通じないときでも、紙と鉛筆さえあれば、どうかできちゃうんですね。それから、言葉が堪能になるよりも「よくいらっしゃいました」と迎える心を持つ方がもっと大切だと思うようになりました。ですから、 言葉ができないからだめだと思っている学生のみなさんも、言葉よりも「迎える心」を大切にして、身近な外国人に積極的に話しかけてみてください。

旅館 澤の屋HP
http://www.sawanoya.com

普段の澤さんのご様子

                旅館を営むご家族全員と(玄関前にて)

                外国人のお客さんとお話しされている澤さん

                諏訪神社のお祭りで町内神輿に参加中

編集後記

昨今の日本では、グローバル人材の要件として、語学力や異文化対応能力が必須だと言われています。「言葉ができないとグローバルに活躍できない」と諦めて きた読者の方もいらっしゃるのではないでしょうか。私自身も外国人と交流する際には、まず言葉の心配をしていました。しかし、このインタビューを通して学 んだのは、何か特別な準備をするよりも、相手を迎える心真心を持って、ありのままの自分と日本の姿を伝えていくことが大切だということです。たとえ接する 相手が外国人であっても、「人と人との触れ合い」に必要なことは共通しているはずなのです。言葉や習慣の違いを認めた上で、肩肘張らずに自然体で会話を楽 しめるようになることが、真の「グローバル人材」への第一歩となるかもしれません。

西辻 明日香(商学研究科1年)

好奇心を持って大きな夢を描け。追い続ければ道は必ず開ける

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年2月1日公開)

駐日パラグアイ共和国特命全権大使
豊歳 直之

1936年生まれ。58年早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業。同年大阪商船株式会社入社。60年アルゼンチンブエノスアイレスS. Tsuji SA勤務。69年パラグアイに移住。2009年までToyotoshi S.A.会長などを歴任。同年10月駐日パラグアイ共和国特命全権大使就任。

なんとかして海外に行きたいと模索していた学生時代

どのような学生時代を送られましたか。

私は早稲田大学に入って、一生懸命“優”を取ることだけに専念していた普通の学生だったんですよ。当時の日本はまだまだ裕福ではなかった時代ですからね。 私も9人兄弟でしたから、お小遣い稼ぎに家庭教師や土木などのアルバイトをやりました。そのうちに、漠然と卒業後に何をやりたいかということを気にするよ うになりました。そんななか、外国に行って何かしたいという大きな夢はずっと持っていました。私が子供だったときに日本が戦争で負けて、アメリカの進駐軍 の兵隊を見て、特にアメリカのような裕福な国に行きたいと思っていました。しかし、アメリカに行くにはビザが必要で、今のように簡単には取れません。それ でも何か方法はないかと思って模索していました。そうこうしているうちに、海外に出たいという学生が何人か集まって、海外移住研究会というサークルを作っ たんです。それぞれいかに海外に行くかをいつも語り合いました。今でもOBで集まって会合を開いていますよ。

南米に興味を持たれたきっかけは何ですか。

あるとき新宿の紀伊国屋書店へ立ち読みをしに行ったところ、『世界地理体系』という本がずらっと並んでいたんですね。そこから南米の国々を知りました。初 めて見る国ばかりで、アメリカよりは南米のほうが行けるチャンスがあると思い、当時高かったその本を買って帰りました。パラパラと見ていたらアルゼンチン が目に入りました。アルゼンチンには技術移民としてあるいは呼び寄せの形で保証人がいれば行くことが可能ということを知って、これなら行くチャンスがある かもしれないと思ったんです。一応英語は一生懸命勉強していましたよ。当時進駐軍は民間のところに家を借りて住んでいたのですが、近くにたまたま2軒あり ました。そこで知り合った同世代の子供といつも英会話の練習をして、将来に役立てたいと思っていました。

ずっと夢見続けていた南米への渡航を実現

南米に渡航された経緯について教えてください。

港に移民船を何度か見に行ったことがあり、そのとき印象に残った大阪商船(現商船三井)を卒業後に受験しました。大阪商船に入れば南米に行けるチャンスが あると思ってどうしても入りたかったのです。無事試験に合格し、私は南米方面の船員としての海上勤務を希望していましたが、配属されたのがニューヨーク行 きの船で、しかも船のオペレーション等の陸上勤務でした。すごく落胆したのを覚えています。その後本社勤務になって東京に来ました。当時は自由競争ではな く、海運同盟の中で運賃を決めていましたが、それをいくらにするかなどを決める会議に出席していました。しかし、私は早く日本を抜け出したいとばかり考え ていました。ちょうど海外日系人大会というのがあって、そこにアルゼンチンから来た人がいないかを探したところ、それがいたんですよ。アルゼンチンで雑貨 の輸入をしている日系の会社でした。それで呼んでくださいと2年間ずっと頼み続けましたら、そこの社長が日本に来たときになんとか私を呼び寄せてくれて、 移民として話が成立しました。アルゼンチンに移住する私の夢が実現したわけです。

パラグアイのどのようなところに一番惹かれましたか。

パラグアイに入ったときは、今までと全然違う国だと感じました。話すスペイン語も少し違いましたし、人も違うんですよね。質素で親切で、最初に行ったアル ゼンチンよりもずっと貧乏な国だけれども、人柄が良くてすっかり気に入りました。南米に行った後は、いろいろな商売を持ち込みました。ウルグアイでおも ちゃを売り歩きましたし、チリにも行きました。電車やバス、馬車を乗り継ぎながら、アルゼンチンでも国境まで商品を売り歩きましたね。そのあとにパラグア イでホンダの商品の販売しないかと誘いを受けました。アルゼンチンは国産品の保護のために頻繁に輸入制限をしていたのに対し、パラグアイは何でも輸入が自 由だったというところにも惹かれました。貿易が私の取り柄でしたので、生きていくためには輸出入が自由な国がいいと思って決心してパラグアイに船で渡りま した。

単身で最初にアルゼンチンに行かれたとき、言葉には困りませんでしたか。

南米に渡るまでスペイン語は全く勉強していませんでした。そこで、船で読もうと思って『スペイン語4週間』という本を持ち込みました。ところが、船にいろ いろな船客が乗ってきて、彼らと一緒にパナマやヴェネズエラなどいろいろなところで船を降りて観光をすることになりました。それが楽しくて楽しくて、その 本は結局1ページも開きませんでした。だから着いたのはいいですが、スペイン語はしゃべれないんですよね。やはり商売にはならないので、とにかくスペイン 語を聞いて、話している内容を想像していました。そうするとだんだんと話していることが想像から実際に分かるようになりましたね。負けず嫌いな性分で、その国の人に負けるようなスペイン語を話したり書いたりしてはいけないと当時から思っていました。

日パ両国の懸け橋としてこれからも奮闘し続ける

パラグアイ国籍の取得と、異国での大使就任に迷いはありましたか。

好奇心からやってみようという気持ちはあったけれども、やはり未知の世界で、しかも大使というのは国を代表する仕事だから迷いました。一番迷ったのはやは り日本国籍を離脱しなければならないということでしたね。感情的には非常に悩みました。しかし、私がこのようにやってこられたのは、南米、特にパラグアイ辺りが規制された社会ではなかったからなんですよね。まだまだこれから作っていく国なんです。日本だったら私が今やっていることはできなかっただろうし、 アメリカに行ってもできなかったのではないかと思います。私が好きなようにやってこられたのは、やはりまだまだ自分で頭を使ったり労働力を提供したりし て、一生懸命やればなんとかなるという世界がだったからではないかと思います。すごくお世話になった国でしたし、何度も要請を受けたということもあり、ひとつの恩返しと考え、大使の就任を引き受けました。

今後はどのようなところに注力していきたいですか。

両国の間に立つのは難しい立場で、困ることもあります。しかし、日本国籍を離脱したからといって、100%パラグアイというわけにはいかないんですよね。 やはり日本と、そして新しく私の国になったパラグアイが混在しているわけです。まずは将来のパラグアイの指導者になるような優秀な人間が必要だと思ってい ます。だから、学術的に優秀で、道徳心をもった生徒を育てたいと思って、日本パラグアイ学院を創設しました。つまり、パラグアイで私が昔受けたような、学 校と先生に全てを任せるという教育方針をそこで今やっています。また、震災後は、パラグアイで作った非遺伝子組換の大豆を被災地に配布してきました。これ を最初に言い出したのがパラグアイの日系人の農家で、これは私たちからの日本への思いです。

                     非遺伝子組換の大豆

編集後記

好奇心の塊だから、今大使をやっているのも好奇心からだと笑って話す豊歳さん。南米での数多くの出会いを楽しそうに話されている姿が印象的で、パラ グアイへの熱い想いが何度も何度も感じられました。著書『パラグアイにかけた夢―豊歳直之・わが人生』を読みましたが、夢に向かって強い意志を持って臨み続ければ必ず成功が訪れるということを豊歳さんはご自身の経験を踏まえて教えてくれました。これから社会に出ても、自分の道は自分で切り開くんだという前向きな心構えを大事にしていきたいと思いました。

陸 欣(国際教養学部4年)

登るべき高い山を持って、必死になって登っていけ。夢や目標を本気で目指すと、人は強くなれる

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年1月27日公開)

中国杭州緑城足球倶楽部監督
サッカー日本代表前監督           岡田 武史

1956年大阪府生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。97年日本代表監督就任。フランス大会で日本を初のW杯出場へ。99-01年コンサドーレ札 幌、03-06年横浜F・マリノスの監督を歴任。07年から再び日本代表監督、10年W杯南アフリカ大会でベスト16。現在は中国のサッカー・スーパーリーグ杭州緑城監督。日本サッカー協会理事(環境担当)、Okada Institute Japan代表理事、富良野自然塾理事。

 

日本人であることに誇りを持って、どんどん厳しい世界に出て行け!

サッカー日本代表の監督を二度務められましたが、どのようなことを大切にしていましたか?

世界との力の差を冷静に把握することかな。日本は、1998年のフランスのワールドカップ(以下、W杯)に初めて出たんだけれど、その当時の対戦相手はほとんどがテレビで観ている選手、つまり憧れの存在で、試合が終わったらサインをもらいに行きそうな感じだったね。要は同じ土俵で戦っていなくて、100 メートル競走で言うと5メートルくらい後ろからスタートしているような感覚があった。W杯ってどんなもんかもわからないし。ところが、その後U18や U20とかいろんな世代が国際試合を経験していくにつれて、みんなが経験を積んで、2010年の南アフリカ大会のときは、ほぼ同じスタートラインからス タートできたと思うね。まだちょっと後ろだったけれど。日本人として劣っている部分は必ずある。でも、優れている部分もあるわけよ。それをきちっと分析して、把握する必要がある。例えば、ジャマイカのボルト(陸上競技短距離選手)っているじゃん。パワーで考えたら、日本人がどれだけ鍛えても勝てないよ。こ れは差があるなとわかる。でも、「あー、外国人の方がやっぱりすごいなー」とかじゃなくて、何が問題なのかをきちっと把握し、「持久力では十分対等に戦え るな」とか勝てる方法を考えないといけない。だから、W杯とか世界で戦うときに一番気をつけているのは、力の差を冷静にしっかり把握すること。「弱気じゃ 駄目だ!」とかいう気持ちの問題ではなくて、しっかり分析して、その中でどう戦うか考えることが大事。相手がすごいからといって気後れしていては、はなか らだめ。逆に、煽られて「絶対勝ちます、絶対勝ちます」って精神論だけでもだめ。そういうことに気をつけていたね。

世界を舞台に戦う際に必要なことは何ですか?

海外に行くときに、自分たちを卑下して、自分の国、自分に対して誇りを持っていないと必ず馬鹿にされる。俺もドイツに一年住んでいたけれど、差別は必ずあると思う。でもそんなの関係なくて、日本人としてのアイデンティティに誇りを持つことが大事。今は、「日本人はすごい」って煽るような風潮もあるんだけれ ど、それもやっぱり違う。自分たちに素晴らしいところがあると同時に、相手にも素晴らしいところがあるっていうことを認められる度量がないといけない。代表チームは、日本に対する誇りを持っていないと戦えないんですよ。下手に勘ぐると変なナショナリズムになってしまうけれど、本当のナショナリズムっていう のは自分に愛する故郷があるように、相手にも愛する故郷があることを認める、ということ。自分たちだけじゃないんだよね。俺たち、南アフリカ大会でパラグ アイにPKで負けたんだけれど、パラグアイの選手たちは勝った瞬間みんな大喜びしていた。その中で、一人だけホセ・サンタクルスという選手が日本人選手の ところにスーッと来て、肩を抱いて握手していった。素晴らしいなぁと思った。こいつは、「日本は負けたけれども、日本人も同じように国を愛して戦ったんだ」ということがわかっていたんだよね。そういう度量というか、幅を持っていることが大切だと思う。

日本人であることに誇りを持つようになったきっかけは何でしたか?

俺は中学を卒業したら高校に行かないで、海外でプレーすると言って親を困らせた。全然上手くなかったんだけれどね。でも、いつか努力したら、ヨーロッパのプロのやつらに追いつくってずーっと思っていたんだよね。ところが、34歳のときにバイエルン・ミュンヘンというドイツのチームと戦ったときに「俺がこれからどれだけ努力したとしても、こいつらには追いつかない」って感じた。その瞬間、自分の選手人生に終止符を打ち、後進の指導に当たろうと決意した。それ以来、日本代表チームが世界で戦うときに、どうしたらこいつらに勝てるのかっていうことをずっと考えてきた。そういう意味では、だいぶ前から日本人の良さ を見なければという感覚があったのかもしれない。サッカーだけじゃないんだけれど、日本人の社会はある程度コンプレックスの社会。サッカーの世界で言う と、ヨーロッパや南米の誰々がこう言っているって必ず言う。俺が記者会見をしても、「世界で戦うにはこうじゃないんですか?」って聞かれる。「何で?」っ て聞き返すと、「ヨーロッパの誰々がこう言っています」って。俺は「そんなに日本人はだめかい?」ってずっと思っていた。日本人には日本人の良いところ、 外国人には外国人の良いところがある。でも、日本人は、自分たちの良いところを見ないようにしている。オシム(サッカー日本代表元監督)の後に、日本代表の監督を引き受けたのは、そんな悔しさがあったからなんだ。

自分の責任でリスクを冒せないやつは世界なんかで勝てない

世界で活躍できる選手には、どのような共通点があると思いますか?

今まで多くの選手たちを見てきて思うのは、成功する選手は物事をポジティブに考えるということかな。表現が難しいけれど、ある程度いい加減なやつ。この前日本代表のマネージャーに電話したら、たまたま近くで練習していた長友(佑都選手)に代わってくれて、いろんな話をしていたら最後に、「岡田さん、今日は わざわざ僕のために電話をありがとうございました!」って(笑)。あいつが海外で活躍できるのも、このくらいの図太いポジティブさがあるからだと思うよ。 あとは、自分で判断できるかどうか。これは個人だけじゃなくて、チームとして世界で勝つためにも重要。なでしこの佐々木則夫(監督)も言っているけれど、 監督に言われたことをこなしているだけのチームじゃ勝てない。でも、日本の選手は保証を欲しがる。「ミスしていいからシュートを打て」「捕られていいか ら、勝負しろ」って。それなら誰でもできる。世界で勝つためには、自分の責任でリスクを背負って、判断する勇気を持たないとだめだ。だから、俺は監督とし て原則的な指示は出すけれど、それ以上は言わない。監督の言う通りにしか動けないなんて、そんなの選手じゃない。それで何が面白いんだ?自分の責任でリス クを冒していくことが、スポーツの最高の楽しみ。だから、自分で判断できるということが、世界に出て行くのに大切だよね。

国内外でプレーする選手の間には、どのような違いがあるのでしょうか?

選手に違いがあるというか、Jリーグのレベルがまだ低いからしょうがないんだよね。人間ってやっぱり弱いから、追い込まれないとできない。やらなくて済む ことはやらない。世界のレベルを想定してプレーしなければならないと頭ではわかっていても、実行に移せないよね。だから、手っ取り早く上手くなりたいな ら、海外の厳しい環境に出ていった方がいい。Jリーグのレベルを上げるには時間がかかるから。海外の選手は意識が違うよ。日本だとレフェリーがすぐファー ルをとるから、選手も簡単に倒れるけれど、海外はファールをとらないからね。長谷部(誠選手)なんかは、ほんと倒れなくなった。海外のチームに外国人枠で獲られるってことは、現地の選手より上手くないといけない。だから、いろんなプレッシャーがある中でやっている。プレッシャーっていうのは重力と一緒で、 重力がなくなると筋肉も骨もだめになる。宇宙飛行士は、宇宙に行くと骨がすかすか、筋肉がブヨブヨになって、地球に戻ってくると立てなくなる。それと一緒 で、人間は重力がかかっていないとどんどんだめになっていく。選手の意識についてもそういうことだと思う。

外国人にも尊敬される「何か」を持っている人がグローバルに活躍できる

「グローバルに活躍する人」にどのようなイメージを持っていますか?

俺の友人でも、グローバルに活躍している人はたくさんいるよ。指揮者の佐渡裕さんは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団なんかで指揮している。「こいつ すごいなぁ。グローバルだなぁ」って思うわな。その一方で、和太鼓の第一人者の林英哲さんは、和太鼓だけれど世界ですごく認められていて、日本での評価よ りも海外の評価の方が高い。そうやって見ると、グローバルに活躍しているのは「外国人にも尊敬される何かを持っている人たち」だな、僕のイメージではね。 この前も建築家の隈研吾さんと対談したけれど、隈さんは日本にいるより海外にいる方が長い。隈さんの事務所に行くと半分以上が外国人の学生で、みんな隈さ んのところで勉強したいってやって来る。要するに、外国人の目から見ても尊敬されるところを持っている人だな。

グローバルに活躍するためには、どのようなことが必要だと思いますか?

やっぱり熱中しているものを持っていて、何か一つのことを一生懸命やっていることかなぁ。結果的にそれが秀でればすごいと思う。リーダーには語学力や決断力、洞察力が大事だってよく言われるけれど、一番大事なのは登るべき山を持って、必死になって登っている姿を見せること。要は、人は聖人君子についていく んじゃない。志の高い山、夢に向かって登っている人を見て、「この人についていこう」って思うんだよね。例えば、坂本竜馬は良いリーダーになろうなんて 思っていない。「この国を何とかしなきゃ」と思っていたら、みんながついてきたわけ。だから、自分の目的を持つことが大事なんじゃないかな。

「遺伝子にスイッチを入れる」経験を自ら作って強くなれ!

若い世代が「内向きだ」と言われていますが、そのように感じることはありますか?

同じように感じるよ。でも、さっき言ったようにやらなくて済んだらやらないんだ。俺だってそうだ。だから、若いやつのせいじゃない。そういう社会を作った のは誰だ?我々だろって。我々が便利、快適、安全が素晴らしいと思って作った豊かな社会が、実は何もしなくて済んでしまう社会だった。「よーし、ここで頑 張らなきゃ」って頑張らなくても、引きこもっていても生きていけるようになった。だから、環境を与えてあげなければならない。それで、昔やっていたボーイ スカウトで自然を乗り越えた達成感を思い出して、野外体験活動を始めた。(2011年)夏に、2泊3日で大学生と神奈川県の丹沢に行ったんだけれど、何もないところに寝かせてね。トイレを自分で掘らせて、飯も釜で作らせて、ヤマビルに血吸われながら過ごして、沢を登らせるんだけれど、みんなほんとによく頑張った。やればみんなできるんだ。だから、ある意味かわいそうなんだよね。僕らの世代も豊かだったけれど、それなりに自然と苦労をしてきた。でも、今の世代は高いレベルで暮らしていける。ぼけっとしていたら、そういう環境がないからチャレンジしなくても済む。だから、自分で山を作ってチャレンジしなければならない。若い世代が弱いというのは事実だと思っている。でも、問題は彼らにあるんじゃなくて、環境にあると思っているよね。

若い世代に経験してほしいことはありますか?

「遺伝子にスイッチを入れる」経験が大事だと思うね。生きていくだけで素晴らしい、その通りなんだよ。でも、何か目標や夢を持ってチャレンジするようにな ると強くなる。俺は、これを「遺伝子にスイッチを入れる」って言っている。人間はみんな強い遺伝子を持っているけれど、のほほんとした暮らしをしていると スイッチが入らないんだよ。今はスイッチを入れるチャンスがないなと感じる。もう一つは、限度を知ることが大切。今の社会、人間は傲慢になっている。科学技術で何でも解決できる、何とかなると思っている。人間が限度を知らなくなったのは、自然に接しなくなったからだ。山の中に一人で入ったとき、絶対に自然 にはかなわない大きな力があることがわかる。だから、自然と接して達成感を味わうとともに、限度があるってことを知ってほしいね。あとは、学生だから勉強 はした方がいいよ。でも、勉強するっていうのは先人が経験したことを読むことで、「二次情報」なわけよ。それを学ぶのはすごく大切だけれど、一番大事なの は「一次情報」、つまり自分が経験すること。勉強してきたことを、どこかで一次情報の体感とマッチさせる。そのために、いろんなことを体験することが大切 だと思うよ。

2011年9月神奈川県丹沢プロジェクトの様子

                      神奈川県の丹沢にて

                 直前の大雨で水量の増した沢を登る

              参加学生と環境や経済についてディスカッション

 

編集後記

「海外への憧れ」を抱くことは、自分の視野を広げ、モチベーションを高めるきっかけになります。その一方で、「日本はだめだ」と漠然とした劣等感を 抱くのではなく、自国と自分に誇りを持つことが大切だと痛感しました。それは、国内と海外を比べる場合だけでなく、自分と他人の比較の際にも同じことが言 えると思います。まず現状を把握し、それから課題を解決するための方法を冷静に考えていくべきだと学びました。自らチャレンジする機会を作り、高い「山」 を目指して登っていきたいです。

   西辻 明日香(商学研究科1年)

文系・理系の垣根を越えて、自分と違う考えをもつ人にたくさん触れてほしい

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年1月23日公開)

東京工業大学
グローバルリーダー教育院長
佐藤 勲

1958年東京都出身。81年東京工業大学工学部卒。83年東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了。84年同研究科博士課程退学。同年から東京工業大学助手、助教授を経て、2000年から教授。専攻は熱工学。2011年にグローバリーダー教育院長に就任。

科学技術で社会を方向づけ、けん引していく人材を作りたい

グローバルリーダー教育院のしくみについて教えてください。

理工系を中心とする大学だからこそ科学技術に立脚する社会をリードする人材を養成したいということで、グローバルリーダー教育院を設置しました。今は9名の学生が所属しています。ドクターコースなので専門知識は絶対に身につけないといけません。それに加えて専門領域以外のところも繋げて見られるような俯瞰力を身につけ、国や文化を超えた基礎知識があり、さらにリーダーとして合意形成ができ、それを形にできる行動力をもって社会をけん引できる人材の育成を目指しています。グローバルリーダー教育院には、主専門の教育体系と並行して“道場”というものが設置されています。科学技術系と人文社会系の二つの道場が あり、道場主と呼ばれる先生のもとで学生が自分自身でいろいろな活動をします。課外活動としてインターンシップに似た活動も行っています。実際に会社が求 めているプロジェクトを3カ月から半年ほどかけて実施するという経験を修了までに必ず行います。

佐藤さんがお考えになるグローバルリーダーとは何ですか。

まず定義をしないといけませんが、グローバルリーダー人材とは「国際社会をこれからどうやって方向づけていこうか」ということを考える人だと思います。こ こではそういう人を養成したいです。どうやって方向づけるかは、企業の中にいても、政治家であっても、学問の世界からでも何でもいいと思うんですね。その 領域の中で自分の国の文化だけではなく、他の国にも影響を及ぼせるようなリーダーシップが発揮できる人を育みたいですね。幅は広いですが、共通しているこ とは、いろいろな文化を理解した上で、自分の文化の強みをアピールし、両方を組み合わせて強みを作り上げて、さらにそれを説明でき、形にできる人材だと思 います。

社会をけん引していくような人材というのはどのような能力が求められると思いますか。

まずはやっぱり気概ですよね。社会をリードしていきたいと自分が考えているということです。それがあると、社会をリードしようとして他の人とコミュニケー ションを取らないといけないので、その能力が自然と身についてきます。いろいろな国籍や文化を持つ人たちとコミュニケーションをしていく上で共通の言語を ツールとして使う必要があるので、英語に限らず、語学も勉強しないといけません。実はこのグローバル教育院コースの中には語学科目がありません。それは自分が必要だと思ったら自分自身で学んでくださいということです。当然、そのための機会は豊富に用意しますが、自分が必要とするものを習得できるように計画する、そういう意識を持たないと当然リーダーにはなれないですよね。

理工系だからこそ横に繋げる力をもってほしい

理工系の学生のグローバル人材育成において、特に注力されていることは何ですか。

道場の特徴は、国籍問わずいろいろな学生を混ぜましょうというのが一つ、もう一つはいろいろな専門をもった学生を混ぜましょうということです。社会をリー ドするとなると、様々な背景や考え方を持つ人を束ねないといけません。そうすると様々な分野の知識が必要になってきますので、社会や文化、経済から科学技術に至るまでの幅広い分野について、少なくとも話が通じるくらいの知識を身につけなければなりません。それから一番大切なのは人脈ですよね。全てを一人ではできないので、いろいろな分野の人たちと協力していかなければなりません。東工大の学生は自分の専門分野を深くやるのは得意ですが、他の人と協調するこ とがあまり得意ではありません。だからこそ横に繋げるようなしくみを作りたいと思いました。理工系の学生は、自分が考えていることが本当に真理かどうかというのを追求します。それが学問の目的ということもあって、自分の判断は自分でする世界です。つまり先鋭化してしまうのですね。だから自分の専門領域に加 えて横にも繋げる力を身につけてほしいです。

グローバルリーダー教育院の設置に当たっての佐藤さんの思いを教えてください。

別の側面として、グローバルに活躍できるリーダー人材を養成するために考えたしくみがグローバルリーダー教育院です。東工大では6人に1人が外国人留学生 です。しかし、留学生との交流はどうしても研究室の中に限られてしまいます。だからこのようにミックスアップするしくみを作らないと、なかなかグローバル な視点は身に付かないと思います。専門分野についても同じです。そのミックアップする一つのきっかけになればいいかなと思いますね。これからはもっと もっと交流が増えていくと思います。グローバルリーダー教育院は5年間のコースです。道場で所定の単位を修得しても学生は道場に在籍しています。だから下級生の指導にも当たることになるので、文化なり専門なりをもっとミックスできるのではないかと思います。

道場の様子

理工系と人文系に分かれても両方学ぶ姿勢が重要

グローバルリーダー人材の育成において最も大事なことは何だとお考えですか。

他の地域や国の文化を理解すると同時に、自分の国の文化に誇りをもつことだと思います。学生にもそういう意識をもつように言っています。自分の文化という のはあまり意識しないし、自分の中で整理しないので、なかなかうまく言えませんよね。だからそれを意識するようにするのは結構難しいと思いますね。また、 理工系の学生に関しては、やはり自分の専門領域に閉じこもらないようにすることが最も大事だと思います。カリキュラムでは社会との連携を重要視しています ので、インターンシップの他に、国際機関や企業で働く人たちに来ていただいて、学生に話をしてからディスカッションを行います。社会とのつながりの意識を まずもってもらうことが大事ですね。

大学生のうちにやっておくべきことは何だと思いますか。

他の国の文化に触れることでしょうね。この国はこんな感じなのかとか、この食べ物は食べられないなとか、そういうことを経験することだと思いますね。やっ ぱり自分と違う考え方をもつ人との交流を経験することが大切だと思いますよ。それは国際的でなくても国内でもいいし、違う分野でもいいと思います。なぜ自 分と違う考え方をするのかというのを自分の中で噛み砕いて理解する。その後にどのようにコミュニケーションをするかを考える、そういう経験をできるだけ多 くすることだと思います。いろんな人とたくさん触れ合うことですね。

最後にメッセージをお願いします。

今は理工系とか人文系とか、そういう垣根がない社会なのかもしれません。だからお互いに相手の分野の基礎素養を理解しているといいかもしれませんね。共同作業をするにはやはり話が通じないといけません。そういう意味で、高校のときに文系と理系に分かれるのは、本当は良くないと思っています。数学にしろ、歴史にしろ、人が生きていくための基盤ですから、やはりそれなりの基礎はお互いがもっていた方がいいと思います。だから分野に限らず、何でも興味があれば今のうちにできるだけたくさんチャレンジしておくことを勧めます。

講義中の佐藤さん

編集後記

グループワークの授業のことを“道場”と呼ぶなどとても斬新でユニークな教育体制をもつグローバルリーダー教育院。佐藤先生にお話を伺った中で、そ こに所属する学生は幅広いカリキュラムの中で、自分で考え、自分で動くことを強く求められている印象を受けました。専門分野を追求しながらも幅広い教養知 識を身につけるということは、博士課程の学生だけでなく、私たち大学生にとってもすごく大事なことだと感じました。早稲田大学にも副専攻を履修できる仕組 みがありますが、学部や学年関係なく同じ授業で議論を交わしたのはとても良い経験になったのを思い出し、まだ受講したことがない人や4月に入学してくる1 年生にはぜひお勧めしたいです。

陸 欣(国際教養学部4年)

グローバルに活躍できるのは”英語使い”ではない。”話すことがある人”である

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年1月17日公開)

早稲田大学客員教授
高野 孝子

新潟県生まれ。エジンバラ大学Ph.D。(特活)エコプラス代表理事、早稲田大学客員教授、立教大学特任教授。90年代初めから「人と自然と異文 化」をテーマに、地球規模の環境・野外教育プロジェクトの企画運営に取り組む。「地域に根ざした教育」の重要性を掲げ、「TAPPO南魚沼やまとくらしの 学校」事業を実施中。龍村仁監督の環境ドキュメンタリー「地球交響曲第7番」に出演。

「こう生きねばならぬ」ということはないと気づいた学生時代

学生時代のどのような経験が今の活動につながっていますか。

大学は当然行くものだと思っていたので進学したけれど、自分の意思で選んだわけでもないのに大学まで来たことに気づかされたのが、大学3年から4年にかけ て行ったアメリカ留学でした。親がちゃんと環境を整えてくれたからここまで来られたのですごく幸運だったけれど、中学を出て、自分は職人になるという道も あったはず。でも、それを問うことさえもなく、中学を出たら高校、高校を出たら大学と来てしまったことにハッとしました。たぶん留学しなかったら、そのま ま普通に就職していたと思います。留学先で出会った人のうちに泊まり、他人の人生に顔をつっこみながら旅をしたことで、ものすごくいろんな生き方があっ て、「何をやって生きてもいい、その代わり自分で責任をとれば」ということがわかったのです。「こう生きねばならぬということはないんだ」ということを教 わりましたね。既成概念にとらわれていた自分に気づき、次第に自分が自由になっていきました。帰国してから、人が決めたレール、生き方にまた自分を合わせ てしまうのがこわいと思っていたころに出会ったのがオーストラリアでの「オペレーションローリー」というプロジェクトでした。青少年育成を目的に、国際遠征の日本人参加者を募集していたのです。電気もガスもトイレもない環境で、世界から集まった若者とともに3ヶ月間様々なプロジェクトに取り組んだことで、 「人は最低限これで生きていけるんだ」ということを学び、今までできなかったことができるようになりました。そのスキルを持ったことで、今までにはなかっ た選択肢が広がりました。大学院を終えて新聞社に就職しました。でも、旅先が街じゃなくて自然の中に向かい、自然の中で暮らす人に会いに行くようになりま したね。

既成概念にとらわれた生き方をしたくないと気づいたとき、私たちはどう判断すべきでしょうか。

まずは、今想像しているものが、本当に自分で考えたものなのか、思わされているものなのかを少し仕分けなければいけないと思います。時代や社会、家庭、個 人の状況によっては、それ以外の選択肢がないという場合が絶対にあります。でも、可能性があるはずなのに自分でそれを見ていないのはもったいない。自分は 本当に、自分で食べる以上のお金を稼がなくてはならない環境にあるのかどうかというあたりから、自分を見つめることですね。例えば、家族に病気の人がいる とか扶養しないといけない人がいるとか、そういう理由があるとしたら、何よりも先にそっちが大事ですけど。でも、みんなが元気で、自分がここからふっとい なくなっても、とりあえず迷惑かけないという状況にあって、「自分を試していいよ」ってみんながサポートしてくれるなら、どんどんやってみたらいい。「自分で自分に枠をはめない」っていうのが大事だと思っています。

本当の豊かさ、幸せを考える場をつくってきた25年

高野先生は「冒険家」と呼ばれていますが、冒険と旅行はどのように違うのでしょうか。

私には全部、旅行ですね。旅行っていうか旅。それが冒険的だったりするだけで、自分にとって新しいことは全部冒険で、行ったことないところにいくのは冒険 だと思います。やったことがないことをする、食べたことがないものを食べるとか大冒険だと思いませんか?「こんなの食べて大丈夫?」とか。それは旅の面白 さですし、知らない人に出会うのもそういうところに身を持っていくのは冒険です。アマゾン河をカヌーで下るとか、北極点にパラシュートで降りるとか、そう いうことは冒険活動に見えるんだけれど、私がアマゾンにいったのはそこの人に会いたいからだし、カヌーで旅するのも面白そうですよね?そうしないと会えな い人たちがいるから。だから、「冒険活動」をしたくて行ったことは今まで一度もないです。ただ、北極海の横断というのは旅っていうにはちょっと大事すぎた けれどね。「あんな旅しないでしょ」っていう感じですよね。でも、だいたい人のいるところに行くことは私にとっては旅だし、たとえ長期でも旅ですね。人が見せようと思うものに乗っかってそれしか見られないのは、若い人には残念かなって思います。若いときは何もないけれど、時間だけはある、お金はないけど時 間はあると思うのね。だから、そういうときじゃないとできない、他人が見せたいと思うものじゃない隅っこをつついてみたり、絶対会わないような人に会って みたりする方が面白いんだと思います。何かものを見に行くわけじゃなくて、やっぱり体験にいくっていうか、時間と場所そのものを体験するのが大事なんじゃ ないかな。

どのような思いがあって、環境教育の場を作ってきましたか。

小さい頃からおしゃべりだったし書くのも好きで、自分がやったことや気づいたこと、考えたことを人と共有することが好きでした。大学院修了後に新聞社に 入ったのも、大切な情報を人に知らせる仕事をしたかったからでしょうね。自分の経験から大事なんじゃないかなと思うことがあったとき、「これって大事じゃ ない?」って人に聞いてみたい、伝えてみたいのです。それと同時に、伝えることはとても大事なことだと思っています。こっちが勝手に情報を伝えても、「い らない」という人も、受け取ったとしても「ん~まぁ別に…」という人もいると思います。それはそれでいいと思っているんです。でも、差し出してみないこと には何も伝わらない。その人がまったく見たことがないものなのか、一回手にとってみて考えることがあったのかで変わってくると思っています。だから、そう いう経験ができる舞台を作っています。その経験を分かち合いたいと思った人は、今度は自分の言葉で分かち合ったり、気づいたことをもとに職業を選び直した りするでしょう。どんな職業につくにしても、人と助け合うことは大事なんだとか、人は最低限これがあれば生きていけるんだとかわかっている人が、たとえば 商社や銀行、役所で勤めることで、社会が変わってくると思うんですよね。現場の人への見方とか世界観とか。その後何をやるかは個々人の問題になりますが、 こういったところに踏み込むことが大事だと思っています。たとえば、最終的には「豊かさって何だろう」ってことや自分の可能性に気づいてほしくて、プログラムを組み立てていますね。最近は都会に住んでいると、若い子でもあまり身体を動かさないでしょ。ジムではなく、自然の中で空気を思いっきり吸い込む感じ とか、そこで身体が活性化するときに脳とか心も活性化する、みたいな経験があまりないんじゃないかなって思います。だから、そういうことの気持ちよさと か、同時に人間ってなんてちっぽけなんだということとか。それは感覚的に知らなきゃいけないことだと思うので、自然を体験できる活動はいい場所だなと思っ ています。

「本当の豊かさ、幸せとは何か」という問いが、活動の根幹にあるのですか。

20代前半の旅を通して、なんとなく自分の豊かさと幸せについては見えていました。お金は幸せを生まない、友達の大切さ、人としてどうあるべきか、人はモ ノじゃない、自分の価値をどう高めていくかが豊かさであり、人とつながれること、つながれるだけの力をもてるということ、健全な自然が周りにあるというこ と。そういうことが豊かさにつながるということですかね。何がなくても「人と自然」だと思うけれど、他の人はどうなんだろうって思っていました。私は経験 を通してそういうことに気づいていましたが、そうじゃなかったら、モノをいっぱい持って、お化粧して、ブランドがどうとかそういう話ばかりして、それで面白いから「それって本当に大事なのかな」って問い直すことさえもしなかったです。それでも、問い直すようになったのは、旅をしたからです。本当の幸せとか 豊かさを自分が知りたいというよりは、他の人たちもいろんな経験をしたら、本当に大事なものとか本当の幸せって何だろうって考えるようになるんじゃない かって思いました。その方が日本も豊かになるし、みんながそういうことを考えるようになれば世界の悩んでいる問題も少しはよくなるんじゃないかなという思いがありました。今まさにこういうことを考えることが大事じゃないかなと思います。

なぜ、今「豊かさ」や「幸せ」について考えることが大切なのでしょうか。

先進国といわれている産業国がぼろぼろになりつつあるでしょ。結局、お金っていうものの幻想の上に成り立っていた社会とその人たちが今ぼろぼろと崩れようとしています。だから、今まさに本当の豊かさって何かを問わなければならない。10年くらい前までは、先進国の人々が、それを問うことで格差を縮めていけると思っていました。先進国の豊かさは開発途上国と言われる人たちの搾取で成り立っていったわけだからね。消費者一人ひとりが「こんなにお金がなくても豊かって言えるんじゃない?」とか、豊かさに対してそういう見方ができるようになれば、世界中のギャップが少しは解消するんじゃないかと思っていました。でも、今は先進国の人々がぼろぼろと崩れようとしている中で、彼らが価値観を問い直さない限り、大きな不幸に陥ってしまうと思います。お金ではなくて「生きる」ってどういうことかとか、それに必要なものをみんなが認識しないといけない。まさにそれがこれからを決めるかなって思っています。東日本大震災のときもそうでしたが、あの中でちゃんと生きられるというのは本当にお金じゃないんですよね。そういうときに、一番底にある大事なものが見えてくるんだと思います。それは、やはり絆だと思いますし、そういうときに自分がどう行動できるかっていう強さとか知恵とか技術とか…最終的には人と人との信頼関係がないと奪い合いになってしまうんだと思います。そういう、いろんなことを考えさせられましたね。だからこそ、今がまさにそういうことを考え直すチャンスだと思いますし、私はずっと問い直すきっかけを作ってきたので、これからも続けていけたらいいなと思っています。

何も話すことがない人はグローバルに活躍できない

グローバルに活躍したい学生は、どのような経験をすべきだと思いますか。

たくさんあると思うけれど、学生のうちに地を這いずるような貧乏旅行をしておいた方がいいと思いますね。とにかく体一つで世界中を歩くこと。別に世界全部に行けという意味じゃないけれど、いろんなところにいって、暮らす人の目線で旅をするということかな。大きなホテルに泊まるのではなく、できれば民泊がいいですね。「すみません、お願いします!手伝いますから」って頑張って現地の人に頼みこんで、できるだけ暮らしの目線でものを見ながら旅をする。そこのものを食べて、生活の場所を歩いて、そこの暮らしをするってどういう意味かわかるくらいの時間をかけつつ、旅をすることですね。都市ばかりに行かなくていいので、先住民族とか農村とか、都市に行くならスラムもあわせて行くとか、いろんなところを見るっていうのが大事だと思います。たとえ全部見ることができなくても、いろんな場所の暮らしを体験できれば想像できるので、気になっている場所にいって、そこで様々な体験をして、できるだけ広い視野を持つことがすごく大事かな。

広い視野を持つために、他にはどのようなことをするといいでしょうか。

あとは、やっぱりいろんな本を読んで、「自分で判断する視点」を養うようにすることですね。これって難しい。報道の乗ってくることは、実は偏っているんで すよね。だから、一言で言うと、視野を広げるという意味で、多様な情報に接するっていうことかな。ひとつの問題に関しても、複数の立場の意見を読んだり聞 いたりするようにするとか。それってグローバルに活動するために大事ですよね。あとは、いろんな人の話を聞くことかな。とくにグローバルに活躍したい人 は、まずは日本を知らなければいけないと思うのね。だから、沖縄から北海道まで農山村とかをあちこち行ってみて、そこの人たちといろんな話をしてみる。そ して、世界の話も聞いてみる。話を聞きながら旅をすることが役に立つと思います。

なぜ「日本を知る」ことが大切なのですか。

日本のことを知らないから外に出られないという意味ではありません。私も順番が逆でした。普通の人は、たぶん自分の周りのことは当たり前だから興味がなく て、見えないところに行きたくなると思うんです。私もそうだったんだけれど、とにかく外に興味がありました。でも、外に行くとまず自分の説明をしなくちゃ いけない。「あんたは何者なの?」って聞かれるけれど、説明できない。日本のこともあれこれ聞かれるけれど、わからない。このような経験をすることで、自分がいかに自分のことを知らなかったのかということに気づきました。そうやって、日本にも興味を持つことは普通だし、私もそのパターンなのね。だから、最初から興味がなくてもいいから、そのうち日本についてとか、特に自分が生まれ育った場所とか地域とかそこを中心にしたことを調べて知る。それって、実は自分のアイデンティティにもつながるし、自分が生きていくうえで、どこで活動するにしても基盤となるものなので、大事にした方がいいと思うんです。「グロー バルに活躍する人」というのは、「英語使い」という意味ではなく、「何か話すことがある人」ということだから。その人が誰で、何ができる人なのか、何をし た人なのかだから。私がもし日本から代表する若者をシンポジウムに呼んでくれって言われたら、英語が全然できなくても、太鼓が叩ける人を出したい、もしく はごはんをちゃんとお釜で炊ける人を出したいって思うのね。その人の方が話すことがあるから。なので、自分をどこかの時点できちんと押さえるのは、グローバルに活躍するうえで大事だと思っています。

オペレーションローリーの仲間たち

1991年北極海横断途中、北極点にて

ミクロネシアヤップ島での実習授業

編集後記

私は、今年の夏、高野先生の指導のもと、環境教育活動に参加しました。山の中で「電気なし、ガスなし、トイレなし」の環境で自分の身一つで生活した とき、本当に大切なものが見えてきました。安全快適で、どれだけ恵まれた環境で育ってきたのかという事実に気づいたと同時に、自然に感謝する心を忘れてい たことにハッとしました。普段頼っていた指一本でつけられる電気やガス、そして携帯電話やインターネットは、実はそれほど大切ではないかもしれない。そし て、水道をひねると水が流れてくるまでのプロセスは、普段気にかけていなかったけれど、実は大切だったということ。自然の前では人間は本当にちっぽけなの だということを忘れ、傲慢になっている自分がいました。自然と向き合うことは、まさに自分と向き合い、価値観を問い直すことでした。今回のインタビューを 通じて、高野先生が自然教育活動を通じて、私たちに伝えたかったことがあらためてわかりました。そして、今度は世界や日本と向き合うことで、自分と向き合 おうと決意を新たにしました。世界で活躍することができる「自分」を確立しようと思います。

西辻 明日香(商学研究科1年)

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