3 / 47ページ

世界はハイ・ポテンシャルズが競争している。日本のぬるま湯に浸かっている場合ではない

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年6月14日公開)

政治経済学術院教授
早稲田大学トランスナショナルHRM研究所所長
白木 三秀

1951年滋賀県生まれ。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業後、同大学院経済学研究科博士後期課程修了。博士(経済学)。国士舘大学政経学部助教授・教授等を経て、1999年4月より早稲田大学政治経済学部教授。2005年より同大学政治経済学術院教授。専門は、社会政策、人的資源管理論。

ハイ・ポテンシャルズ

学生時代のお話をお聞かせください。また、現在の研究を始めたきっかけは何ですか。

学生時代は海外に行きました。1974年だから今から38年前ですね、大学を休学してヨーロッパで約9ヶ月生活していました。当時の日本は学園紛争の時代で、自分が何をすればいいのか分かりませんでした。だから海外に行って自分が通用するか試そう、視野を広めようと考えたことがきっかけです。いざロンドンに着くと、ちょうどオイルショックの直後で、ストライキが発生していました。電気さえ点いてなくて。でも何が起きているのか分からなかったんですよ。その時に、自分がいかに知識不足かを思い知りました。留学中に芽生えた問題意識から、帰国後は大学院で「日本企業の労働」について研究しようと考えました。当時は、日系企業が海外に積極投資していたため、労働・人材分野の研究をするには海外でも調査をする必要がありました。そのため、東南アジアなどに研究調査に行くようになり、現在の研究分野につながっています。

グローバルに事業を展開する日系企業の特徴は何でしょうか。

ビジネスの形態によって異なるので、一概にこうだとは言えないと思いますが、欧米系のグローバル企業と比べると大きな特徴があります。簡単に言うと、日系企業には第三国籍人がいないのです。例えば、ある日系企業がインドネシアに投資したとします。現地支社には、日本人とインドネシア人しかいません。多国籍企業とは言えませんね。二国籍企業です。アメリカ人やシンガポール人といった第三国籍人は入っていません。欧米の多国籍企業であれば、第三国籍人はたくさんいます。日系企業には、本社の方針が外資系のそれと異なるためにできないんです。

なぜ欧米系の企業には第三国籍人が存在するのですか。

以前研究の一環で米企業の本社を十数社回り、グローバル人事部門の責任者から直接話を聞いた経験から言うと、欧米系多国籍企業は、全社員の中からエリート集団「ハイ・ポテンシャルズ」というものを入社後に識別しているためです。例えば、某多国籍企業では、世界中に700~800の子会社を持ち、総社員数は25万人を超えます。そこでは、世界中の子会社の中から、入社後数年が経過した30歳前後の社員5万人の中で、特に優秀な人材を「ハイ・ポテンシャルズ」として選別します。倍率は100倍以上です。そうして選別された人材には、(1)部門変更、(2)職能変更、(3)海外勤務という3つの特別な職務を与えるのです。(1)は医療部門から金融部門へというようにビジネスを変え、(2)は営業から経理へというように役割を変え、(3)は国を変えるのです。日本で採用された場合、何年間かタイに派遣するというようにね。だから、第三国籍人が存在するのです。

なぜ日系企業にはそれができないのでしょう?

日系企業は、日本人のみを競争させて日本人のみを出世させるシステムを採用しているからです。これからはそれを改善していこうという企業も多いですが。海外支社の現地採用スタッフで、どんなに優秀な人がいても子会社でキャリアを終えています。これまで日系企業は、「ハイ・ポテンシャルズ」を選別するシステムを持っていませんでした。世界の多国籍企業のように、世界中の子会社の新入社員が全員同期という意識がないんですね。世界を見回すと、このシステムで出世したのはカルロス・ゴーン氏がいますよね。彼はフランスで教育を受けたそうですが、就職したのはブラジルの子会社です。フランスの自動車会社・ルノーは、そこでどんどん頭角を現すゴーン氏を見逃しませんでした。その彼が今は日産自動車の社長です。

インド人に知られていない日系企業

日系企業は外国人をうまく使いこなせていないのでしょうか。

私が過去に研究した、日本で採用されて海外支社に派遣された日本人に対しての、現地における評価を分析した結果を見ると、使いこなせていないと言えるでしょうね。例えば、タイに赴任した日本人に対しての、その部下に当たる現地人スタッフの評価は一様に低いです。つまり、現地人スタッフの方が赴任した本社の日本人よりもレベルが高いということです。これは大問題ですよ。先程のハイ・ポテンシャルズの話は、就職活動で企業の人事担当者が話すこととは違うと思います。「グローバル人材」を考える時に、そのハイ・ポテンシャルズを採れるだろうか、育てられるかどうかが重要です。日系企業はまず、日本の本社の人材のレベルを上げなくてはいけません。そうしなければ、日本で留学生を採用したり、海外でレベルの高い現地スタッフを採用しても、今より難しい状況になっていくでしょう。「グローバル人材」として日本や海外で外国人を採用するのはいいことです。でも問題は、採用した外国人を使いこなせるかどうかです。

海外の学生から日本と日系企業がどのように評価されているか教えてください。

私が早稲田大学留学センター所長を務めていた当時(2006~2010年)、中国からの留学生は毎年1,500人程度来ていましたが、インドからの留学生はなんと6人だけでした。そこで、インドに早稲田への留学生を募集しに行ったんです。その時に原因がわかりました。言語(日本の大学教育は日本語オンリーだと思われている)や、奨学金(入学後しか申し込めない)の問題はありますが、それ以上に大きいのは、インド人学生は日系企業に魅力を感じていないということです。インド人にとって日系企業がとても魅力的で、ぜひ就職したいと思うならば、日本語を勉強してでも日本の大学で学びたい、と考えるはずなんですよ。彼らは、日系企業をまず知らないし、さらに日系企業の中では出世が不可能だと思っています。インドだけではなく、海外の優秀な学生たちはみんな日系企業の本社では外国人が出世できない環境にあることを理解しています。そこで現在、日系企業も評価制度を変えようと必死です。これが変わったら日本人の学生にとっては大変なことになりますよ。大学卒業の段階で、世界の学生と対等に勝負できる人材になっていなければならないのですから。

井の中の蛙になるな!

今、学生がすべきことは何ですか。

世界レベルを意識しながら勉強することです。日系企業の海外支社に赴任する日本人社員のパフォーマンスを調査すると、なるべく若いうちに海外経験を積んだ人の方が高いことがわかります。若いうちに日本の弱いところに気づき、考えることが大切です。世界レベルを知らないと、日本はこのままで大丈夫と考えて努力しないで終わってしまいます。今のままで世界でも通用すると勘違いしてしまう。視野を広げれば何をすべきかはおのずとわかります。世界レベルの人材に追いつくためには、例えば語学だって滅茶苦茶に勉強する必要があるのです。日本人として、どれだけハイ・ポテンシャルズになれるかですよ。大相撲を見てください。今や横綱や大関は外国人ばかりですよね。しかし、もしモンゴルやヨーロッパから外国人力士が来ていなかったら、日本人でもっとレベルの低い力士でも横綱や大関になれてしまうということです。すごくレベルの低い世界で横綱だ、大関だって威張ることになるんですよ。企業も同じです。世界から人材を選んでくるか、日本の中の狭い範囲の同僚だけで競争するかです。世界レベルを意識するとはそういうことです。

グローバル人材を目指す学生にメッセージをお願いします。

井の中の蛙になるな!ということですね。自分は英語が上手いから海外でも通用すると思っていても、もっと能力のある人間は世界中にたくさんいるんです。若いうちに1年間くらい海外留学すると、それを肌で感じることができます。発展途上国でも優秀な人間は、常に世界レベルを意識して勉強していますから日本人とは全然違いますよ。だから世界に出てみることは非常に大切です。自分の能力、そして日本の能力を相対的に評価することができるようになりますね。そういうことを知らないで大企業に入社すると大変です。文系学生は特に名の知れた企業に入っただけで、なんとなく世界で通用しそうだと勘違いするんですよ。実際は全く通用しません。逆に技術はあるのに語学ができないために、世界で通用していないのが理工系学生です。日本人エンジニアは、語学が圧倒的に弱いです。企業の中でも大問題になっています。英語で論文を発表する技術者は少数派で、企業内のエンジニアは基本的に全く英語ができません。例えば、日本の某大企業はインド人エンジニアを雇用していますが、日本人エンジニアは彼らの話す内容や、仕様書の英語が理解できないそうです。そこで、シンガポールの子会社で翻訳してもらうそうですよ。残念な話ですね。インド人と一緒に働ければもっとイノベーションが起こるだろうに。英語ができないためにその機会が奪われています。日本人エンジニアの英語力が上がれば、日本の国力はもっと伸びますよ。理工系のグローバル人材育成こそが大きな課題です。問題点が英語力であることはわかりきっています。少し勉強すれば1年でかなりできるようになるでしょう。英語ができない日本人はもう通用しません。世界で通用するためには何をするのかを考えることです。そのためにも。いつまでもぬるま湯にいないで世界を意識しなさい、ということですね。

 

編集後記

衝撃的でした。私が、当初質問しようと考えていた事柄が次々と打ち砕かれていくような展開のインタビュー。これが現在の、そして世界の現実なのか と。白木教授のお話の途中あまりのショックに目の前が霞んできたくらいです。私は今就職活動中ですが、このお話を聞いてから就職活動に対する考えがガラリ と変わりました。このことを知ってどう感じてどう動くかです。確かに状況は厳しいかもしれません。でも、本当に世界と勝負したいなら、本気の競争をしてい かなければならない。ぬるま湯から出て、目を覚まさなければ。競争相手は、今自分の周りにいる人々ではなく世界中にいるのだから。

相原 亮(基幹理工研究科1年)

マルチな専門性を獲得すること。誰もがもう一度話したいと思うアイデア人材を目指せ

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年5月18日公開)

世界銀行東京事務所 駐日特別代表
谷口 和繁

1977年、東京大学法学部卒業。81年、米国スタンフォード大学ビジネス・スクール、MBA取得。29年間の財務省勤務を経て、2008年3月より世界銀行駐日特別代表。国際金融では、開発金融政策、外国為替市場に携わったほか、ウルグアイ・ラウンド、日米構造協議にも参加。IMFに審議役として4年間出向。国際交渉や知的支援などの目的で50カ国以上を訪問した経験を持つ。

 日本人は英会話が苦手? 違う、リーディングとライティングだって通用しない

学生時代は将来のキャリアについてどのようなイメージを持っていましたか。

将来この仕事に就きたいという具体的なイメージはありませんでしたが、世界で通用する人材になりたいということは常々思っていました。大きな仕事をして、それによって世の中をよくしたいと思っていましたね。世の中が変わっていくプロセスの中で、貢献したいというイメージを持っていました。大学卒業後、そんな風にダイナミックに社会に貢献できる舞台と信じて当時の大蔵省に入省しました。財政や金融に対してはある意味、社会を変えることのできる道具として興味を持っていましたが、本来の目的としては大きな社会の仕組みづくりとか、新しいことをやってみたいと漠然と考えていましたね。

世界で通用する人材になりたいと思ったきっかけは何ですか。

学生時代は、受験英語でもそれなりに通用すると思っていた時期もありましたが、英語のラジオ・ニュース・チャンネルも聞き取れなかったんです。まして会話はできません。これでは世界で通用しないと思いました。法学部でしたので、法律の勉強もがんばってはいましたが、それに加えて一生懸命英語の勉強にも取り組みました。夜間の英会話学校に毎日3時間通っていた時期もあります。しかし、実際は、英会話だけでなく、リーディングもライティングもできないことがわかりました。日本人は英語の読み書きはできても話せないとよく言いますが、そうではないんです。読むことも書くことも業務をこなせるレベルではないんですよ。しかし、ライティングは訓練すればスピーキングよりも早く上達します。私の場合、書く力はアメリカのビジネス・スクールに留学していたときに鍛えられました。そのとき現地学生も受けることができる学生向けのライティングのプログラムを受けました。現地の学生よりも書くのに時間はかかってしまいますが、相手にわかりやすく論理的に書くことを念頭において書く訓練を続けましたら、最後はネイティブよりもよい点数が取れました。

来る仕事は拒まず、の精神でどんな仕事にも前向きに立ち向かう

お仕事をする上で大切にしていることはありますか。

来る仕事は拒まず、という自分のポリシーを大切にしています。なぜかというと、どんな仕事を受けたとしても、後々さまざまな場所で必ず役に立つからです。財務省で始めて課長補佐となったときに世界銀行の担当でしたが、その最初の仕事が世界銀行総裁の報酬を審査することでした。世界に一つしかないポストの報酬を審査するというスキルが、後の仕事に役立つのか、と疑問に感じたこともありました。ところが、次の仕事がたまたま銀行局で日本銀行総裁の報酬を審査する仕事だったのです。またも世界に一つしかないポストです。前回の経験が役に立ちましたが、前にもっとやっておけば良かったとも思いました。これは、自分の経歴を振り返って気づいたことですが、一生懸命にやった仕事、自分が真剣に携わった仕事は必ず人生のある部分で繋がります。与えられた仕事に対して、つまらないなぁとか、自分にとって何のメリットがあるのかなぁとか、そのように思うときは必ずきます。でも、不思議なことに、一生懸命にやっておくと必ず後々自分の役に立つんですよね。

国際的な場で交渉をされるときはどのようなことを心がけていますか。

交渉するときは、最後はイエスかノーの話になってきますが、そのときに反対する人たちがどうして反対するのか、何に困っているのか、ということをよく理解することが大事だと思います。話し合っても必ずしも本当に不満な点を教えてくれるわけではないので、相手のバックグラウンド、つまり国なら歴史や政治、経済を勉強する必要があります。そして、反対している人たちが受け入れられやすい論理を一緒に作り上げて行くんですね。最終的な段階に来ると、お互いにこれをやると得をする、これは損をするというようなことがゼロ・サムのように見えてきます。そういうときに、実は相手にとってマイナスではなく、どのような利点があるのかを説明して納得してもらうことが大事です。交渉している同士というのは面白くて、お互いが何を考えているのかわかるわけですよ。だから交渉が長い場合は、交渉している人同士は仲良くなるのですが、お互いの立場があるために、なかなかうまく交渉がまとまらないときがあります。そういう場合は、どのような論理が相手の後で妥協を妨げている勢力を和らげ、説得できるかを考え、相手が納得しやすい論理を作っていきます。

目指すべきは、幅広い専門性を持つオールラウンダー

将来グローバルに活躍するためには何が大事だとお考えですか。

世界的に活躍している人を見ると、相手を感動させられる何かを持っていることです。グローバル人材として、どういう人を目指すかというと、重要なのは、何か課題を抱えている人が相談したいと思う人、壁にぶつかっているときに何らかのアイデアやインスピレーション、示唆を与えることのできる人材だと思います。アイデア人材、とでも言いましょうか。そのような人材を目指すうえで、少なくとも自分の専門についてはより深く勉強するのが当たり前です。さらにさまざまな人と会い、その考え方から多くを学ぶことや現場に出向くことが大切です。そういう機会を貪欲に探していって、自分の引き出しをどんどん増やしていけるとおもしろいですよね。自分が憧れる存在、将来同じように国際的に働きたいと思える人を見つけることも大事だと思います。そういう人がいると勉強の励みにもなりますよね。                                                               講演する谷口さん

専門性を磨く上で大切なことは何ですか。

国際的な社会は一種のプロ野球のような組織。プロ野球でも単に運動神経がよいから採るというわけにはいきませんよね。チームの戦略をもって選手を採用しているはずなので、ピッチャーが欲しいチームに足の速い外野手が応募してもチームのニーズにマッチしません。ですが、足の速い外野手は必ずどこかで必要です。そういう意味で、「私はこういうことができます」、「私が貢献できることはこれです」というものを一つ持っていると活躍できる舞台はどこかに必ずあります。だから、自分の専門性を狭めて追求していくというやり方もありますが、世の中は変わりますので、ファーストもできるしセカンドもできるというように、少し応用力を持った方が本当はよいと思います。一つひとつ自分の専門性を作ったうえで、それを広げていく必要があります。なぜなら自分一人では仕事はできないんですよ。一人で完結するという仕事はありえません。世界銀行の場合も大きなプランを作るためには、他のセクターの専門家と話ができること、相手の専門も理解できることがとても重要なのです。

どのような日本人学生が世界銀行に就職することを望みますか。

日本という立場から途上国を見てチャリティーに近い発想を持つ人よりも、むしろ成長を遂げている途上国の人々と協力することでチャンスを広げていける人がいいですね。現在、成長しているのは先進国ではなく途上国です。日本で生活していたら、入り口として貧しい人を助けてあげたいという気持ちで国際機関に入ってくるのは理解できます。しかし、パートナーだという意識を持って、この世界に飛び込んでほしいです。途上国での持続的成長チャンスは世界の持続的成長のチャンスです。支援することで世界中がよくなるという発想ですね。情けは人のためならず、と言いますが、相手だけでなく自分のためでもある、ということです。国際援助というのは、結局世界中のためになるし、自分のためになるんです。マルチな専門性で、問題の解決に対して幅広い視点から考えられる、そういう専門家を期待しています。

学生に向けてメッセージをお願いします

たとえその瞬間はつまらない仕事だと思っても一生懸命やっておくことです。スティーブ・ジョブズが言っている有名なセリフで、「ドット(点)を繋げ」というのがあります。点というのは自分がしてきたいろいろなことで、それを繋いでいくということです。前にやった仕事の価値があとから出てきて、それが後になって分かるというような意味です。やる前にそのことが将来どのドットに繋がるかあらかじめわかっているわけではありません。しかし、そのドットをしっかりやれば、あのときのドットが今の自分がやっているこのドットと繋がって、新しい大きい仕事ができるということになります。一個一個のドットを大事にして、一生懸命にやればあとから太く繋がるんですよ。一生懸命やらないと、ドットが消えかかって、いつまでも網にはならずにドットが一個しかない状態のままです。そういう意味では、自分があまりやりたくないことにこそ、チャンスは広がっているのかもしれませんね。

編集後記

一生懸命やったことは必ずどこかで繋がる。学生の立場から見て、これは勉強にも言えることだと思いました。何の役に立つかわからないと思って勉強し ていたことが、あとになってふとしたことから、やっておいてよかったと思えた経験をしたことがある人も多いのではないでしょうか。そして、谷口さんが伝え たかったのは、目の前のことを一つひとつ一生懸命やることが大事だということだと思います。私も「自分にはこれができる!」と胸を張って言えるように、将 来太く繋がるようなドットを増やしていきたいです。

陸 欣(国際教養学部4年)

 

人生は一本道じゃなくていい。体力・ネットワーキング能力・コミュニケーション能力を培って国際舞台へ

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年5月18日公開)

国連環境計画(UNEP) ナイロビ事務所
大賀 敏子

東京都生まれ。1983年一橋大学卒、環境庁に勤務後、国連環境計画(UNEP)の環境計画官(ナイロビ)、JICA専門家・タンザニア政府環境政策アドバイザー、ESCAP環境管理専門家(バンコク)を経て1999年より再びUNEPナイロビ勤務(事務局長室管理理事会渉外官・職員組合副委員長)。著書に『心にしみるケニア』(岩波新書)があるほか、季刊『ニューエネルギー』(都市エネルギー協会)など雑誌記事への寄稿多数。ソフトバンク新書から『日本人の知らない環境問題―「地球にやさしい」では世界は救えない』本年5月15日刊行予定。

国連とは、コミュニケーションとネゴシエーションとロビイングを合わせた塊

国連での仕事内容を教えてください。

UNEPは、環境に関する世界各国の活動の総合的な調整をし、また新たな問題に対しての国際的な協力を推進しています。私の仕事は、UNEPで決議されたことを実行するために世界中の環境大臣と話し合い、調整をすること。また、UNEP内に常駐している各国の代表ともやり取りをしています。言わば、「国家間の調整窓口」ですね。よく国連を世界政府のようなものだと勘違いしている人がいますが、国連というのは「場」なんです。意見の調整の場を提供しているだけに過ぎません。世界中の人が集まり、何かを決め、きちんとその方向に持っていくために、各国間の調整役として国連職員というのはいるのです。

国連職員になるまでの道のりを教えてください。

大学を卒業して環境庁に入省しました。国際機関で働きたいなと思いながらも、どうやったらそういうところで働けるのかわからなかったので、とりあえず国家公務員になったわけです。5年半環境庁で働いた後、JPO(Junior Professional Officer)派遣制度で UNEPへ行きました。JPOとは、自国の若手職員を国際機関に送り込むために、外務省が費用を負担して、世界にある国連の部署へ2、3年派遣する制度で す。UNEPへの派遣期間が終了した後、環境庁の席は残したまま、今度はJICAの仕事でタンザニアとタイへ行きました。その後直接UNEPからオファー が来た際、ケニアはとても住みやすくて気に入っていたこともあり、環境庁を退職し、国連の正規職員として戻ろうと決意しました。                                                              UNEPでの大賀さん

国連で働いていて難しいことは何ですか?

国連に入る時に、どこの国にも偏らない、中立の立場を取って行動することを誓わなければなりません。しかし、それって実際は非常に難しいことなんです。国連職員の役目は各国の調整をすることと言いましたが、政府間の調整は、表舞台でのみ行われるわけではない。例えば、A国が自分の政策をUNEPにさせたいとなると、まずはUNEP事務局職員に取り入って、中からもその政策が通るように動く。このようにコミュニケーションとネゴシエーションとロビイングを合わせた塊が、国連なんです。ちなみに、日本は政策を通したい時も、日本人らしい生真面目さでやることが多いですよ。

価値観が異なる人と出くわして大変な時には「こういう人もいるんだ」と思えばいい

オランダ人や日本人にとってのスラムと、ケニア人にとってのスラム

国連で働く動機として、「世界の貧困を撲滅したい」だとか「世界の福祉の向上を願って・・・」というのは一般的によく聞かれる優等生的な答えですよね。私自身も、小さな貢献しかできないかもしれないけど、世界のために働きたいという想いでやっています。しかし、ケニア人の同僚に国連勤務の志望動機を聞くと、「お金のためさ!」と堂々と答える人がいる。もうびっくりしました。去年、うちのオフィスにオランダ人のインターンが来て、インターンシップの最後に「スラムへ行って、貧困の中でもたくましく生活している人をこの目で見たいから連れていってくれ」と言ったんです。私は、すごくいいことだと思いましたよ。もちろん、スラムやそこに住んでいる人は見せ物ではない。それでもオランダや日本に住んでいると、貧困というものがやはりよくわからないですからね。すると、ケニア人の同僚は「とんでもない!あんなところはわざわざ行くような場所じゃない!」って言う。彼らケニア人エリート達は、スラムに住むような人達は別世界の人間だと思っているんです。そのオランダ人や、日本人の私とは感覚が全く違う。同僚のみんながみんな、「よい世界にするために働きたい!」と思っているわけではない。国際的な場で働くこととは、価値観や考え方が違う人がたくさんいるということ。それでもそういう時は「ああ、こういう人もいるんだな」って思えばいいんです。

感情を押さえて冷静に判断、分析する訓練を

みんながお互いに友好な関係を保とうと思っているわけではない。自分の主張を通そうという時に、ガーっと闘いを挑むかのようにアプローチをしてくる人もいる。例えば、各国に流さないといけない文書をA国に頼まれて流したところ、「なに間違ったことやっているんだ?!」とB国からお怒りの電話を受けました。ガーガー怒鳴って、罵倒するわけですね。それで、お互いのやり取りを遡ると、最初にB国がA国に情報を送った時点でB国に誤りがあった。そうやって自分の意見を通す時に、怒鳴り散らし、まくし立ててくる人って世の中にはいるんですよ。人間ですから怒鳴られると腹が立つ。それでも、抑えて、聴いて、相手が本当に言いたいことは何だろうとシンプルに考えるんです。その時は、「要するにまた直せばいいんでしょ?」となりました。咄嗟に反応せずに、分析してから行動に移す。これは訓練です。

日本人の強み

先ほどのような人がいるかと思いきや、本当に真面目な人もいます。日本人はまさにその例です。国連っていうのは、専門知識が豊富な人たちが大勢いるから、会議の度に15cmほどの分厚い資料を配布する。それを読んでこない国の代表もいっぱいいるのに、日本の出席者は隅々まで読んできます。意識しなくても、持ち合わせている日本人の真面目さはグローバルな場でも信頼を得る大きな強みだと思っています。

                                                              赤道直下のケニア

人生は一本道じゃなくていい

グローバル人材に必要な資質とは何だとお考えですか?

三つあります。一つ目は、ずばり体力です。グローバルに働くということは、時には時差との勝負です。私のボスなんて、1年の3分の2は海外出張ですよ。そして、1年の半分は機中泊です。12時間の時差があるようなところへ飛んでいって、飛行機を降りたらお迎えの車が待っていて、すぐ会場へ連れて行かれて、疲れた顔もせずにそこでスピーチをしたり、各国のお偉方と必要な事柄を話し合ったりして、結論をまとめる。まあ、それは事務局長クラスの話ですが。
次にネットワーキング能力。フォーマルとインフォーマルの両方で友達を作れることは大切です。ネットワークって何かというと、ずっと親しげである必要もないし、愛し合っている必要もないですが(笑)、必要な時に頼んだら情報をくれるなど、そういう関係を作れることですね。
そして、最後にコミュニケーション能力です。自分を的確にわかりやすく表現できること。日本人にとって、英語はハンディー。私も最初は全然わからなかったです。しかし、国連の仕事で使う英語の単語は、そんなに多くない。だから、練習さえすればすぐ慣れます。過度に心配する必要はない。もっと言えば、日本人は英語がだめだと思っている人がいっぱいいますけど、世界には英語がだめな人はもっといっぱいいるんです。コミュニケーション能力というのは話すことだけではない。相手の話を聴くことも入ります。怒鳴り込んでくる人の話も静かに聴き、お金のために国連で働くと言う人の話も聴く。そういうことができる人っていうのは、どこでも通用すると思います。

最後に、国際機関で働きたいと思っている学生にメッセージをお願いします。

人生は一本道じゃなくていい。UNEPを見渡してみても、それぞれ色々好きなことをして国連に流れついた人、NGOなどで活動してきた人、30歳や40歳まで民間企業に勤め、自分の人生これでいいのかな?と思い、国連へ来た人など実に様々です。だから、最初から国連っていう考えをする必要はないと思います。大学の時には、自分の興味があることをする。例えば、外国に行くスタディツアーなどが提供されているのなら、ぜひ利用するべき。見聞が広められるでしょう。今の時代の日本の学生はすごく恵まれています。このようなWebマガジンを通して、海外で働いている人からアドバイスを得ることもできる。学生時代にスタディツアーと言って海外へ簡単に行くこともできる。私の時代にはそういうのはありませんでした。ですので、学生のみなさんには与えられた機会をぜひ自らつかみ取って、見聞を広め、知識を深め、自分の世界を大きく、豊かにしてほしいです。人生は一本道じゃなくていいから。

編集後記

途上国の生活向上や、世界各地の紛争や環境問題の解決に取り組む、まさにワールドワイドな組織である国連に憧れを抱くことも私はしばしばあります。 しかし組織がとても大きいので、各団体でそれぞれのスタッフがどういった思いでどういう仕事をしているのだろうと思っていました。今回はそれに合わせ、お 仕事の裏話も聞くことができ、とても勉強になりました。海外の第一線で今現在活躍されている大賀さんだからこそ、日本人の特徴と強みを客観的に見ることが できるのではないでしょうか。また、自分の価値観とは全く異なる人でさえも受け入れる力を持つことが、グローバルに活躍する人の素質にもつながるし、自分 の人生も豊かにしていくものだなと思いました。

斉藤 愛里(教育学部4年)

 

夢を叶えるためにはまず自分を知ること。目標に向かって突き進むハングリー精神を持とう

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年4月14日公開)

在日本米国大使館政治部一等書記官
アンドリュー・ハク・オウ

1973年、韓国ソウルで生まれる。ケニアのナイロビにて高等教育を修了後、外交官を目指し、ジョージタウン大学に進学。卒業後、日本政府および日本の教育機関にて4年間勤務。ハワイ大学および東西センターで韓国における日本の植民地支配を研究し、01年に修士号を取得。早稲田大学(93-94年)およびソウル大学(00年)でも学び、日本語および韓国語を話す。01年に米国国務省に入省。在ジャマイカ大使館、在香港領事館、本省の朝鮮部(韓国担当)に勤務後、在京大使館へ。ベーカー・加藤国際交流プログラムの米国側代表として、09年の夏まで日本の外務省で政務に就いた後、現職。

「交渉」、「政治」、そして「さまざまな文化」。3つの要素を含む職業は外交官だった
学生時代からさまざまな文化に接してきたと思いますが、どのような学生でしたか。

学生時代は勉強に集中していました。父の仕事の関係で高校はアフリカのケニアだったんですよ。小さな学校で全学年あわせても200人くらいしかいませんでした。ケニアはすごく自由で美しい国です。とにかく自然がきれいなところでしたね。だから自然の中で生きる一人の人間としての意識が非常に強くなった気がして、人間的に成長した時期でもありましたし、物事を考える視野が広くなりました。アメリカに行ってからも、自分は他のアメリカ人とは違うなと気づくことが多々ありました。ケニアではあまり競争が激しくなかったので、ワシントンD.C.のジョージタウン大学に入学したときは、周りの友達がみんな頭がよくてびっくりしました。これは頑張らないといけないなあと思いましたね。ジョージタウン大学を選んだ理由は、国際政治と外交に強いというのを知っていたからです。アメリカでは成績がよくないと就職できないので、とにかく一生懸命勉強しました。とても充実していて、悔いのない学生生活だったと思います。

外交官になりたいと思ったのはいつ頃でしたか。

高校3年生のときです。やはりアフリカにいたときの影響が大きかったと思いますね。ケニアのナイロビの学校では、いろいろな国の学生が集まっていたのですごく国際的でした。他の文化の人と交流するのはおもしろいなと思い始めたときでもありましたね。模擬国連に関連する授業があって、それもすごく刺激的で、交渉したり国際的な課題に取り組んだりするのもおもしろいと思いました。海外に住むことや旅行することも個人的に好きだったので、交渉と政治、様々な文化、これら全ての要素が入っている職業は何だろうと考えていたら、外交官かなと思いました。国籍はアメリカですが、韓国で生まれ育ったことも大きな要因だと思います。普通の韓国人とも違いますし、普通のアメリカ人とも違いますので、生まれたときから文化が混ざったようなアイデンティティーでした。これは一生自分に影響してくると思いますね。

外交官になるためにどのような勉強をされていましたか。

高校生の時は外交官がどのような仕事をしているのか全然知らなかったですね。でもなんとなく国際政治や国際法、歴史、外国語は大事で、将来必要だと思っていました。そして実際、大学卒業後、大学院で歴史を勉強しました。東アジア専門の外交官になりたいと思っていましたので。そのために日本と韓国、中国の歴史と政治を全部勉強しましたね。ジョージタウン大学にいた時も早稲田大学に留学した時も、東アジア関連の勉強が中心でした。むしろそのコースがあるからジョージタウン大学を選んだのだと思います。僕は目標を設定するのが好きということもありますが、小さな目標を一つひとつ達成し、大きな目標をつかむということは、外交官になることに限らず、夢をつかむためには大事なことだと思います。

多岐にわたる外交官の業務

日本に駐在する前はどのようなお仕事をされていましたか。

ジャマイカと香港に駐在していたころは、領事部で仕事をしていました。アメリカ国務省では、入省後新人のうちに領事の仕事をしないといけないんですね。領事部の主な仕事は、ビザの発行やアメリカ国外にいるアメリカ国民のお手伝いです。例えばジャマイカにいたときは、毎月刑務所に行って服役中のアメリカ人の面倒を見ました。しっかり栄養を取れているのか確認し、リクエストがあったら対応するといった仕事でした。香港のときは、親族がいない遺体の引き取りをやったこともあります。これらの仕事は、その後の外交官業務を行ううえで非常に重要な経験となりました。アメリカ国外にいるアメリカ国民を守ること、これは外交官や国務省在外大使館がやらなければならない仕事の基本だと思います。自分の中で、こうした意識が芽生えたことが大きなポイントです。専門は政治なので、このような仕事は二度としないと思いますが、外交官として、こうした意識を忘れてはいけないと思います。僕は外交官の仕事をとても誇りに思っています。

東アジア専門の外交官、特に日本で働きたいと思った理由は何ですか。

父が日本で生まれ育ったので、よく夏休みに日本に遊びに来る機会がありました。それで大学に入学してからは東アジアのことを勉強したいと考えて、父のルーツから日本に辿りついたわけです。日本のことは好きですし、若い時からなんとなく日本の文化の方が自分に合っていると思っていました。それまでは歌を聴いたりテレビを見たりして日本語を耳にすることもあったのですが、大学1年生が終わった後の夏休みから本格的に日本語を勉強し始めました。日本語のクラスを履修したとき、一回目の授業から楽しくて仕方がなかったのです。そういうこともあって、日本に行こうと決め、早稲田大学に一年間留学しました。外交官になってからも日本に駐在したいと考えていたんですよ。それで、実際に来ることができたのだから、僕と日本の間には縁があるんだと思います。

一等書記官というのは具体的にどのような仕事をするのですか。

一等書記官の仕事は大使館によって異なっていて、私の同僚の中には日米安全保障を担当している人もいればアジア地域を担当している人もいます。私が所属する政治部の一等書記官の仕事は、端的に言えば、現場(日本)でさまざまな情報を収集し、それを本国の政策決定者に報告することです。具体的には、日本の外務省の自分と同レベルの官僚との打合せや、日本の国会議員との会話などから、日本政府が本音の部分で何を考えているのかを把握し、それをアメリカ政府に向けて正しくレポートします。

特に印象に残っている仕事は何でしょうか。

日本に来て3年半になりますが、学生のときに名前を聞いたことがある人物やニュースに出てくる人物に実際に会うことができるのは刺激になります。世界の方向性を決めていくような人物ばかりですからね。以前、ワシントンD.C.にあるアメリカ法務省で仕事をしていたとき、ちょうど韓国のパク・チョンヒ元大統領のご息女で、大統領候補でもあるパク・クネ議員がアメリカを訪問していて、ライス国務長官(当時)と対面しました。その時僕の上司は都合が悪くて行けなかったので、代わりに僕がその会議に出ることになったのです。歴史の本に出てくるような人物が目の前にいたので、業務上ノートを取らなければならないのに、ずっと聴き入ってしまいましたね。現在、日本人の方々と交渉するときも、政策や日々の問題に何か進展があると、すごくモチベーションが上がります。例えば、日本の国会議員にアメリカの政策に関する新しい情報を提供することができたときや、僕が彼らからアメリカ政府や日米関係全体にとって有意義な情報を得ることができたときなどです。しかし、僕が最もやりがいを感じるのは、オフィスの外で日本人と信頼関係を構築して、お互いの国について学ぶときです。僕にとっては、それが本当の外交なのかもしれませんね。

いつまでもチャレンジ精神を忘れないでいたい

これからお仕事の中でチャレンジしたいことは何ですか。

この仕事の一番おもしろいところは、仕事が終わらないということです。毎日必ずやることがあります。例えばジャマイカでビザを発行していた時ですが、休日にサーフィンをしに田舎に行くときがありました。アメリカの外交官の車はナンバーですぐに分かりますので、その時にいろいろな批判の声を浴びたというような経験をしました。彼らの頭の中のアメリカのイメージを変えないといけないと思いましたし、アメリカの代表としてそういう責任をもつのが我々なんですね。だから今毎日日米関係に関わることができることにとてもやりがいを感じています。夢としては、大きく環境を変えたいと思っています。僕は韓国と日本の二つの国と特別な関係があるので、この二つの国とアメリカとの関係がより良くなるように貢献したいですね。それぞれが異なる分野でお互いに助けることができると思うんです。

外交官としてのお仕事の上で、毎日欠かさずにやっていることはありますか。

外交官に限らないかと思いますが、いかに情報を得るかが一番大事です。情報が自分のところに入ってくるのは「得」です。誰よりも早く自分が情報を得るとことができると、それは「有利」になります。そして自分だけが知っている情報があれば、「立場が上がる」ことになります。だから、自分でも無意識のうちにさまざまなところから情報を取り入れようとしていますね。ニュースでも電話でもそうですし、人と話をしていても実は情報を得ようとしているのかもしれませんね。今は日本とアメリカの情報に集中していますが、在韓国アメリカ大使館が出すレポートや電報を読むこともあります。それと、次は中国に駐在することが決まっていますので、中国の情報も入手しようとしています。とにかく僕は欲張りで、全部を知りたいんです。また、外交には政治だけではなく、あらゆる分野が含まれていますので、さまざまな分野の知識を得るために日々活動しています。これは外交官以外の仕事にも共通して言える、どの分野でもエキスパートになるための要素だと思いますよ。

ものごとがうまくいかないときは、どのように立ち直るのですか。

高校の時に夢見ていた外交官になるということが遠のいたような時期もありました。そのときは、日本に住んでいたので、仲のよい日本人の友達に相談して、すごく助けられたのを覚えています。みんな同じような年齢で、みんなそれぞれ夢を持っていたので、話をすることでとても気が楽になりましたね。スランプに陥ったときは、自分はまだまだ未熟な存在だ、ということをまず素直に認めることですよね。自分を過度に責めないほうがいいです。それから友達と話したり、スポーツや趣味に没頭したりしながら、我慢して待つことですよね。僕の場合は、1カ月くらいすると、やらなければならないことが自然に見えてきましたね。最初の一歩は小さくてもかまいません。一歩踏み出すことで物事も、そして自分も変わっていけます。学生のみなさんも将来を不安に感じることが多いでしょう。そんなときは仲間と話し、目の前の一歩から踏み出してみてください。

アンドリューさんのように、夢を掴み取るためには何が大事だと思いますか。

一番大事なのはやはりself-awareness(自己認識)だと思います。自分がどういう人で、何をしたいのか、朝起きるときに何が一番自分をウキウキさせるのか、こういう意識ですよね。それが分からないと幸せにならないし、夢も叶えられないと思います。それが分かるようになる時期は人それぞれですが、分からないうちはいろいろな経験をして、探そうとする努力が重要です。それから大事なのは、失敗しても次のチャレンジに進むことだと思います。僕は一時期政治家になろうかなと思っていました。その仕事の実態がよく分からなかったので、大学2年の夏休みを利用してインターンシップをしたんですね。しかし、やってみるとこれは向いてないと思いました。行動を起こしたから、次のステップが見えたのです。目標を作って、それに向けて行動を起こしてみる、そしてそれに向けて努力をするということが大事ですね。夢を叶えるために何が必要なのかを考えて、毎日少しでも努力をすることですね。本当に実現したいのなら失敗してもトライしてみることだと思います。

最後に学生に向けてメッセージをお願いします。

若いうちにいろいろなチャレンジをしてほしいですね。とにかく思いついたことをやってみることです。将来何をやりたいか分からなかったら、海外に行ってみたり、日本のどこか行ったことがない場所に行ったりするのもいいと思います。どこからインスピレーションが来るか分かりませんからね。僕は日本の田舎に行くのが大好きで、いろいろなヒントが待っている気がします。日本の中にもいろいろな素晴らしいものがあるということを忘れないでほしいですね。もちろん海外に行くのもいい経験になります。特に海外に行くと自分の国について分かるようになりますし、自分のこともよく分かるようになります。刺激を受けて、自分の強さと弱点が見えてきますよ。学生のみなさんは表に出さなくてもハングリー精神を持っているはずですから、自分の小さな輪の中だけではなく、もっと広い世界が待っていますので、それを見てほしいですね。

 

編集後記

どこまでもポジティブで、前向きなアンドリューさんからはたくさんのパワーをいただき、私も頑張ろうという気持ちになりました。今度は中国に行くか ら近々中国語の勉強を始めると、新しい環境でのお仕事をとても楽しみにしているそうです。外交官というとなんとなく華やかなイメージがありますが、具体的 にどのような仕事をしているのか正直知りませんでした。今回のインタビューを通じて、外交官としての使命や思いというものを伺うことができ、大変感銘を受 けました。常に夢や目標を持ち続けることは簡単のようで難しいことだと思いますが、大事なのはそれに向かって少しずつ努力するということをしっかりと心に 留めておきたいと思いました。

陸 欣(国際教養学部4年)

 

途上国で直面した貧困という課題。経済からアプローチしてその解決に日々取り組む

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年3月19日公開)

 国際通貨基金(IMF)アジア太平洋地域事務所(OAP) 所長

石井 詳悟

1981年にIMFに着任後、タイ駐在上級代表をはじめ、マレーシア、シンガポール及びベトナムのIMF代表団を率いたほか、アジア太平洋局ならびに政策企画審査局(現戦略政策審査局) や金融為替局 (現 金融資本市場局)の要職を歴任した。また、1989年から92年までは日本輸出入銀行(現 国際協力銀行)で参事役を務めた。南山大学経済学部、 同大学院修士課程を経て、オレゴン大学で博士号を取得。

初めて直面した貧困の世界

海外に興味を持ち始めたのはいつですか。またどのような学生生活を送っていましたか。

私が通っていた南山大学で、外国人留学生との交流活動を盛んに行っていたことがきっかけです。私が学生だった当時、出身地の名古屋で大学を卒業したら、そのまま名古屋の企業に勤める、というコースが一般的でした。しかし、私の場合は大学で留学生と交流する機会が増えるにつれ、海外への興味が増していきました。学部生時代に海外留学をしたかったのですが、当時は1ドル=365円の時代で留学は大変難しかったのです。経済学で学位を取得した後も研究を継続するために、大学院に入学しました。当時、経済発展に関する研究は、アメリカやイギリスが進んでいたため、大学院で使用するテキストは英語の原著を和訳したものがほとんどでした。翻訳版テキストを使って勉強するうちに、なぜ自分は日本で勉強しているんだという疑問を持つようになりました。そして、最先端の研究が行われているアメリカで勉強したいという希望が次第に強くなっていきました。幸いなことに、奨学金を受けてアメリカで学べることになりましたが、1年間という短い期間でした。アメリカでの勉学を続けたいと思い、留学期間が終了に近づくころ、奨学金を提供してくれる機関を探して、その先も留学を続けることができたのです。

IMFに就職した経緯について教えてください。

大学院生だった当時は、正直国際金融機関にはあまり興味がなかったです。ただビザの取得が非常に難しい時代でしたので、金銭的な理由以外でも留学後にアメリカに残るのは困難でした。そのときに、IMFや世界銀行のような国際機関にはビザの問題がないということを知りました。つまり、合格さえすればそこで勤務できるのです。そうした理由から国際機関に興味を持ちました。それでは、どうしてIMFを選んだのかと言うと、1980年代初頭のIMFは今とは異なり、経済研究と実務に関する仕事がほぼ半分ずつくらいあったからです。IMFには国際経済と金融分野の研究者がたくさんいましたし、IMFから多くの論文が提出され、最先端の研究が行われていたのです。私は研究と実務の両方に関心があったため、その希望が叶うと思いました。実際入ってみると、ラテン地域に債務危機が発生しました。その後も多くの途上国が国際収支問題を抱えるようになり、IMFの仕事がだんだんと融資に関係した実務に移行していきました。

国際金融機関で実際に働くようになって、石井さんご自身に何か変化はありましたか。

世界には貧困に苦しむ多くの人々が存在するということを認識したことです。実務として、私が最初に担当したのはバングラデシュでした。各国からの援助や国際機関からの融資を頼りにしている非常に貧しい国です。現地に出張し、バングラデシュの政策担当者と協議したとき、初めは大学院での研究とはまったく異なる世界であると感じました。IMFでは加盟国への経済調査団を通常ミッションと呼んでいます。ミッションは5~6人のエコノミストで構成され、当該国の政策担当者と議論を繰り返し、課題を分析し政策提言を行います。それまでは日本とアメリカの経済だけを研究していたので、貧困に対する知識はほとんどありませんでした。バングラデシュは当時洪水の影響で食糧危機が深刻でした。餓死者も多い現場に突然出張したわけです。非常にショックでしたね。自分は日本に生まれてよかったと気づくと同時に、貧困にあえぐ人々を可能な限り救いたいという思いが募りました。それには、ただお金を渡すということだけではいけません。経済面の政策提言を行うことで、当該国が少ない資源で経済成長を遂げられるようにしなければなりません。バングラデシュに赴任した後は、世界中に貧しい人々がいることを常に意識するようになりました。

人々の生活に影響を与える仕事だから責任も大きい

バングラデシュ勤務の後はどのようなキャリアを歩まれましたか。

その後は中国、ネパール、ベトナムを担当したのですが、大体同じような仕事内容です。1997年にタイを中心にアジア危機が起きましたね。その際タイの危機対応にあたるチームの一員に加わりました。調整プログラムを作るなどして、本当に夜寝る暇もないほど働きました。そのあとバンコクに2年間ほど駐在員として勤務しました。実際に政策担当者と協議し、政策提言することが実は各国に大きな影響を与えるんですね。特にIMFの融資を受ける国はIMFの条件を実行しない融資が実施されないので、交渉を経て政策提言を受けます。政策提言はその国の人々の生活に大きな影響を与えますので、我々はその責任を自覚しながら行わないといけません。振り返ってみたときにそれが常に正しかったというわけにはいきませんが、その場ではできる限りの努力をし、適切な政策を提言していくことが必要です。それがやはり一番やりがいがあるところであり、大学では経験できないことですね。非常に大きな責任が伴う仕事です。

政策提言というのはどのようなプロセスで行われるのですか。

ミッションチームはだいたい5,6人で、財政、金融、国際収支、実態経済などの分野をそれぞれ担当し、Mission Chiefがチームの仕事を統括します。調整プログラムを作るときですと、まずお互いに連携を取りながら、現地に行く前にできる限りの情報を集めて分析をします。そしてどのような問題・課題があるのかを洗い出し、それに対してどのような政策が必要なのかをチーム内で議論し、それらをまとめたものを持って現地に向かいます。現地では政府機関や銀行、民間それぞれから意見を聞き、具体的にどのような政策が適切なのかをさらに議論したうえで、調整プログラムを交渉します。調整プログラムの内容はPress Statementとしてウェブ上に公表されます。

英語のライティング力とディベート力を磨いた留学時代

グローバルに活躍するためにはどのような能力が必要だとお考えですか。

まずは英語力。特に書くことが大事です。それからディベートができるということですね。日本人は授業でも質問しませんし、こういう質問をするとまずいのではないかと恐れるんですね。一方で私がアメリカの大学で教えていたときは、学生から質問がたくさん来ましたし、彼らはまったく恥じません。自分がわからなかったら質問すればいいんですよ。その傾向は国際会議でも出てきます。日本人を含めアジアの人はなかなか質問しません。会議で発言しないと、国際的な舞台では何も考えがないと見なされてしまいます。ディベートは、日本語でも練習することを勧めます。学生なら授業中に質問をすることが第一ですね。英語で話す機会を作るのも大切です。英語の新聞や雑誌を読むこともお薦めします。今はケーブルテレビで英語のチャンネルも見られますので、ニュースをできるだけ英語で聞いて理解するというようなアプローチが必要だと思います。私は大学院の留学時代は、TAをしていましたが、当時は授業料が無料になったばかりでなく、学生とのやり取りで自然に英語の練習になりましたのでお薦めします。

スピーチする石井さん

世界を舞台に活躍したい学生に向けて最後にメッセージをお願いします。

グローバルに活躍するためには、異なる文化、社会制度の中で育った人たちと対話ができるということが一番大事だと思いますね。当然その中に英語力が出てきますし、外交技術も大事です。自分が思っていることを言うと同時に、相手が言っていることを理解することも重要ですね。あとは常に世界に目を向けて、優れている点を見出して、学んでいくというのがグローバルな人だと思います。学生にとってはやはり世界を歩いてみることだと思うんですよ。実際に自分で世界を見てもらいたいですね。

 

国際通貨基金(IMF)アジア太平洋地域事務所(OAP)のホームページ
http://www.imf.org/external/oap/jpn/indexj.htm

編集後記

今回のインタビューを通じて、一口に国際金融機関と言っても、IMFではエコノミスト以外に、半数が様々な分野の専門職や一般職の職員であると知り、IMFを目指す人には多くの可能性が開かれていると感じました。しかし、日本人スタッフをはじめ、アジアのスタッフはまだまだ少ないのが現状です。石井さんも、国際機関に興味をもつ若者が減ってきていると感じているそうで、IMFに興味がある学生の力になりたいともおっしゃっていました。進路選択に限ったことではありませんが、難しそうだからと最初から諦めるのではなく、自分にできることからやっていくことが大事だと思いました。「人の何倍も努力すればなんとかなる」という石井さんの言葉がとても心に残りました。

陸 欣(国際教養学部4年)

世界のトップ人材のレベルははるかに高い。だからこそ世界と闘っていくためには、野心と向上心を持とう

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年3月5日公開)

フォースバレー・コンシェルジュ株式会社代表取締役
柴崎洋平

1975年生まれ。上智大学 外国語学部 英語学科卒業。大学卒業後は、ソニー(株)、ソニー・コンピュータエンタテインメントに勤務。2007年9月に円満退社し、同年11月、フォースバレー・コンシェルジュ株式会社を設立、代表取締役に就任。

常に新しいこと、わくわくできることをやるのが面白い

どのような学生時代を送られていましたか。海外を意識し始めたきっかけは何ですか。

大学時代は、午後の3時から夜遅くまでアメリカンフットボールばかりやっていました。昼間もあまり授業に出ないで、留学生との交流サークルを立ち上げまし た。国際的なイメージを抱いて上智大学に入ったのですが、当時はキャンパス内にほとんど日本人しかいなかったんですよ。市ヶ谷キャンパスには留学生はたく さんいたのですが、彼らともっと交流しないとこの大学に入った意味がないぞと思って、行ったり来たりで毎日留学生とランチを食べて過ごしていました。アメ フトの練習にオフがあると、留学生と一緒に旅行にも行きましたね。いつ頃から海外を意識し始めたのかと言いますと、幼少時代はイギリスで過ごしたんです ね。その時代があったからでしょうね。自分の中で将来は世界を舞台に活躍したいなという思いは小さい頃からなんとなくありました。年齢が上がるにつれてその気持ちが大きくなり、大学もそのイメージで選びました。就職のときも日本でグローバルな企業と言ったときに、僕の中ではソニーしか思いつかなかったんで すね。世界で活躍したいという夢を持ってソニーに入りました。

今はどのようなお仕事をされていますか。

僕たちがやっているのは、日本を代表するグローバルカンパニーが、全世界から優秀な人材を新卒で採用するというビジネスのサポートをすることです。例えば、就職活動のイベントを開いたりキャリアカウンセリングをしたりしています。というのは、ソニーにいた時代に一番感じていたのは、世界の人材レベルの高 さだったんです。エンジニアリングは日本も強いのですが、経営企画やマーケットなどの分野のプロフェッショナリズムのレベルの高さというのは、毎回完敗で すよね。とにかくすごい人をたくさん見たので、こういう人たちを日本のグローバル企業の本社に集めたいと思いました。世界のグローバルスタンダードと日本 の働き方は真逆なので、求職中の外国人学生には徹底して伝えています。今世界30カ国以上700大学と連携が取れていて、リサーチをしながら世界中のネッ トワークを作っています。人材業界はもともとドメスティックな産業でしたが、全世界をシェアに入れればまったく違うマーケットになると思いました。これは やっていてわくわくするし、国際交流にもなるので、インパクトのある新しいビジネスモデルだと思っています。今は外国人に特化するのをやめて、世界の優秀層を扱う会社というのを目指しています。

外国人の方と仕事をする上で心がけていることはありますか。

まず一つは日本人だろうが外国人だろうが、まったく同じ扱いをするということです。そして、あまりにも日本的になってもいけないので、なるべくグローバル スタンダードにマッチした形に持っていく、というこの二つですね。外国人に気を遣いすぎた待遇をしてしまうと逆に日本人社員のほうに失礼になってしまうと いうこともありますよね。会社には本当にいろんな人がいますからね。会社の設立当初もアルバイトスタッフとして留学生を雇いました。ビジネスを立ち上げる ために知能を貸してほしいと呼び掛けたらすごい数が集まったんですよ。外国人のためのビジネスをやるんだったら、外国人が周りにいて、彼らの意見を常に聞 いて、外国人と一緒に考える外国人向けのビジネスというのを僕は意識していました。

日本の新卒は世界一ゆるい。新卒の学生もまだまだ未熟

日本人学生が内向きだと言われていますが、それについてはどのようにお考えですか。

日本人学生全体を見たら、内向き志向がやや上がっているかもしれません。でも僕が付き合っている日本を代表するような企業に入る学生たちにそのような傾向 はまったく感じません。僕が毎日接している日本を背負うような学生にその内向き志向というのが強まっているともまったく思っていません。全員がグローバル になる必要はないですから、世界に飛び出していくトップ層に関しては、そのような意識は全然生まれていないと思いますね。そして、内向き志向だと言われて いるのは学生のせいではなく、日本の企業、社会の責任だと思うんです。日本の古い企業体制や制度が逆に日本の学生に悪影響を与えていると僕は思っていま す。一括採用をなくしたら、留学する人も増えますよね。そして、海外のようにインターンシップを経験してお互いがマッチングすると採用されるという直結型の採用ができたら、日本でも1dayばかりではなく長期のインターンシップが増えますよね。日本学生の内向きよりも日本のプレゼンスの低下のほうがはるか に悪影響だと思っています。

柴崎さんには今の大学生はどのように映っていますか。

これに関して言えるのはまず日本人学生と世界の学生との比較ですね。世界中の学生を見てきた中で、日本は圧倒的に競争がゆるいです。これは勉強に限らずあ らゆることにおいてです。要するに日本の新卒というのは世界一ゆるいんですよ。日本の就職活動が社会問題になっていますが、内定率の低さは世界一ゆるいで す。国中をあげて新卒採用をやる国は日本以外ないですよ。例えば韓国の新卒は転職組とも闘うので、学生が勝てるわけがないですよね。日本は一括採用がある から実際はものすごく楽だし、長期採用の文化なので、採る数もものすごく多い。しかし、グローバルスタンダードは正反対で、海外だとトップ層の新卒が最初 に入った会社にいるのは平均で3年間なんです。海外でトップ企業に入るためには能力が問われるので、みんな専攻がかなり就職に直結するし、インターンシッ プも半年から1年は必ずやっています。彼らはビジネスの世界で自分がどう活躍できるかとか将来のビジョンとか全部がはっきりしています。日本でそういうこ とを考えている人は皆無に近いですよね。常にプレッシャー下に置かれながら一社会人になるための鍛錬がされている海外のトップ人材と勝負していくのは大変 です。だからいろんな面で日本の大学4年生というのは世界の中で未熟な部分が多いですね。

大学時代の過ごし方によって将来に対する意識が変わる

将来世界と闘っていくために、学生時代にやっておくべきことは何だと思いますか。

僕がいつも言っているのは、アジアのトップスクールへの留学です。アメリカに留学に行く人はまだ多いと思いますが、語学留学プラスアルファというのが多い ですよね。もちろん欧米の学生と交流することも素晴らしいことですが、ビジネスのマーケットはこれから完全にアジアだし、アジアの人材と触れるというのは ビジネスの中ではものすごく価値があります。僕はそういう観点でお勧めしています。トップスクールだとやはりそれなりの人材がいて、その国のリーダーにな る人がいるので、国によって強い産業の大学や大学院に行くのは面白いと思います。あとは月並みですが、学生時代に発展途上国を旅してみることですね。最後 にもう一つは、企業での就業経験ですね。夏休み1カ月くらいを利用して企業の長期インターンシップに挑戦して、自分のビジネスセンスを早いうちに確認して おくということは大事な作業だと思います。そうすると将来の自分のキャリアと残りの大学生活をすごくリンクさせて活動できるんです。課外活動を通して意識 が変わってくるはずです。そして、やはり大学や企業がそういう環境を与えないといけないとは思いますね。

柴崎さんにとっての「世界に通用する高度人材」とは何ですか。

世界のトップを目指す人だと思っています。トップというのはいろんな意味がありますが、とにかく高みを目指すということですね。こういう人材がこれから求 められると思います。トップに行くという思いとその思いの強さ、これが一番大事だと思います。どんなに優秀でも心が弱い人は上には行けないですからね。心 が強い人は努力をするので、必ず上に行きます。僕が今まで出会った中で、優秀だなと思った学生は例外なく強い野心を持っているんですよね。「僕はこんな感 じでいいんです」という人は一人もいない。彼らは、こうやって自分の国を、世界を変えたい、というような大きな野心や想いがあります。そして、言語だけが できる人がグローバル人材ではないですよね。英語ができるというのはもちろん必須にはなりますが、言語ができることとグローバル人材とは別です。やはり大 事なのは想いで、骨太で気持が強い人が評価されます。

フォースバレー・コンシェルジュ株式会社
http://www.4th-valley.com/

編集後記

例年より少し遅れて今年度の就職活動も本格的にスタートしました。就職活動の時期になって初めて働くことについて考える学生が多い中、社会との繋が りを意識し、自分のキャリアを常に考えながら学生時代を過ごしてほしいという柴崎さんのメッセージが心に残りました。目的を持って長期のインターンシップを経験することももちろんそうですが、学生のうちに社会人と触れる機会を増やしたり、行動範囲を広げたりすることで、社会の仕組みを知るきっかけにもなる のではないでしょうか。今回のインタビューを通して、日本と海外との就職活動のあり方の違いだけでなく、学生の就職に対する意識の違いを実感し、身が引き締まる思いがしました。

陸 欣(国際教養学部4年)

今の日本人パスポートは天から降ってきたわけじゃない。未来の日本人へのリスペクトを賭けて戦え

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年2月23日公開)

英フィナンシャルタイムズ中国語版コラムニスト、香港フェニックステレビコメンテーター

加藤 嘉一

1984年静岡県生まれ。2003年高校卒業後単身 で北京大学留学。同大学国際関係学院大学     修士課程修了。英フィナンシャルタイムズ中国語版コラ ムニスト、北京大学研究員、香港フェニックステレビコメンテーター。年間300以上の取材を受け、200本以上のコラムを書く。最新書「いま中国人は何を 考えているのか」、「北朝鮮スーパーエリート達から日本人への伝言」。

大事なことは一分間ですべて伝えろ

加藤さんの名刺(名前のみ表記)の真意はなんですか。

加藤嘉一だから加藤嘉一と書いてあります。グローバルで活躍するために名前は必要条件というよりも十分条件です。日本では、どうしても肩書きや会社で人を 決めてしまいますよね。例えば、部長や課長というだけでこの人はすごい、すごくないと決めてしまう。でも、海外ではそれは全く通用しませんよ。僕は一昨日 シンガポールで開催されたある会議に出席してきました。その際もこの名刺を使用しましたが、肩書きは全く関係ありませんでした。名刺よりも眼力だなと感じ ましたね(笑) ただ一方で、名前は非常に大事です。名前は両親からもらったものだから、それを大事にするのは人として当たり前。きっちり名前で勝負する というのは最大の親孝行だと思います。

                                                                 加藤さんの名刺

 

名刺以外に、自己紹介の場で心がけていることがあれば教えて下さい。

例えば、一昨日の話です。僕は、そこで会った方と、今シンガポールでこういうことをして、なぜ来て、何に悩んでいて、だから君とこういうコミュニケーショ ンが取りたいんだと言って、握手するんです。それがすべてです。これを、1分間で常にプレゼンテーションできるようにしておけば、グローバルで戦えますよ。逆に日本の方だと永田町でも霞が関でもいいけど、名刺だけ渡して帰る。これは資源の無駄じゃないですか。日本の学校に提案したいのは、自分についての 1分間プレゼンです。まず小学1年生で日本語で、高校1年生では英語で、社会人からは中国語がベストだけれども第2外国語でそれをやれるようにトレーニン グするんです。内容は、成長するにつれて常にアップデートしていきます。ぜひ公立でも私立でも学校でホームルームの時間でやったらいいと思いますね。

加藤さんはいつごろからグローバルを意識していらしたのですか。

グローバルという言葉を知ったのはここ10年くらいだと思いますけど、幼いころから世界はずっと意識していました。5歳くらいの頃から、趣味は地図を見る ことだったんです。スリランカの首都の名前はなんでこんなに長いんだろうとか、なんでフランスにはいろんな人種の人がいるんだろうとか。そういったことを イメージしながら地球儀を回していました。地図を見始めたのは自然にというより一種の反抗心。生まれた地域がとても保守的な所だったので、なぜ自分が起こ したアクションに対して、他人は潰しにかかるんだろうか、と常に閉塞感を感じていました。それを確かめるためには、物事を客観化する、相対化するしかあり ません。まず、日本のほかの都市に行ってみる。それでも分かりません。日本は均一化した社会ですからね。このとき、既に海外に行きたかったのですけど、人 間1つの事をやるには3つ必要なものがあります。意思と能力、そして条件です。この3つが揃わないと難しいです。結局、意思と能力はあったと思いますが、 なかなか条件が揃わなくて海外に出るのが18歳になってしまいました。

ピンチはチャンス。物売りのおばさんとの語学レッスン

中国語はどのように勉強しましたか。

北京大学で勉強していた当時、SARSの流行で授業が全部休校になったんです。在北京日本大使館が、日本人に対して強制帰国勧告を出していました。当然僕 は帰らなかったけど、周りに日本人がいなくなったわけですよ。でも、ピンチはチャンス。なんとかして周りの人々とコミュニケーションをとって中国語を学ぼ うと考えました。具体的には北京大学の西門で物売りをするおばさんと仲良くなったんです。だから、そのおばさんが僕の中国語の先生ですよ。最初はまずおば さんからアイスを買って握手をすることから始めました。それからは、おばさんの所にとにかく毎日通いました。1日8時間くらいひたすら会話するんです。話 のネタを探すのに大変でしたよ。その時の1日のスケジュールは、まず4時半に起きて、辞書ひいて勉強してラジオ聞いてランニング行って、帰ってきたら簡単 に朝食。朝8時くらいにはおばさんの所に行って夕方4時とかまでずっと会話していました。話をしているといろんな人が会話に入ってくるんです。おばさんの ネットワークってすごいんですよ。

現地の方と交流するなかで、中国語以外に学んだことがあれば教えて下さい。

僕が思うに中国人は、ネットワーキングとインテリジェンスに長けています。どこの国にでもチャイナ・タウンを形成してしまうのですから。日本人にこれがで きますか?できないじゃないですか。海外で日本人だけで仲良く一緒に行動することと、コミュニティを形成したうえで他国の経済に参加することは全く異なり ますよ。また中国人社会は相互不信の社会です。彼らは他人と接するとき、常に疑ってかかります。日本ほど性善説な社会はないですよ。他人を疑うこと、批判 的に物事を見ること。このクリティカル・シンキングが大事です。僕は、中国人は全体的に、何をするときも上手にカーブを投げる、という印象を持っていま す。ユーモア・センスも実はあるんですよね。ただ礼儀正しくしているだけでは生産的でないと分かりました。中国語はもちろん、物売りのおばさんからは様々なことを学ぶことができました。日本人みたいに簡単に他人を信じてはいけないんですよ。自分なりに情報へのアプローチの方法を持つことは重要です。情報を鵜呑みにしていてはだめです。僕の場合は2つの国境を越えて新聞が同じことを言っていたら初めて信用できると思います。正しい見方、正しい情報にどうやっ てアプローチするか自分なりに構築しなくてはなりません。日常の中で自分で鍛えていく必要があります。これは新聞記者になるにしても、学者になるにして も、ビジネスマンになるにしても非常に大事なことですよね。

どのようにして人的ネットワークを構築することができたのですか。

通訳の仕事がきっかけです。最初は、翻訳が一番知的で良いバイトだと思って必死に勉強しました。HSKという試験を受けてスコアがよかったので、中国に着 いて3ヶ月後には翻訳を始めました。1年後には逐次通訳、そのまた半年後には同時通訳をすることができるようになりました。そのときに僕は、単なる通訳で 終わらせずに様々なところに入って行きました。例えば、僕が中国の大物政治家と知り合ったのは人民大会堂という日本でいう国会にあたる場所です。そこでの 会議に通訳として参加したんですね。まずは、きっちり通訳の仕事をこなします。そして、休憩のときに政治リーダー達の様子を窺いながら、トイレであえてぶ つかったり、椅子にかかっていたスーツの上着を落としたりしてね。「あっ大丈夫ですか。落ちましたよ」って拾ってあげるんです。すると「ありがとう。君は優しいな」となります。そうやって会話の機会を自ら作っていました。クリエイティブにアクティブに人的ネットワークを拡大していきましたよ。

海外に出るのはローリスク・ハイリターン、さらにローコスト

海外で生活することで、どのようなことを感じましたか。

日本に対しての愛国心が芽生えたこと、それから現地の人々から見たら自分が日本代表であるということですね。中国で様々な国の人々と語ることで、自分が日本人であるという意識は自ずと高まりました。自分は幼いころから日本が嫌いでした。でも中国の人から日本を誤解されたり、批判されると悔しかった。日本が嫌いだったはずなのに悔しかったんです。これは健全な愛国心だと思います。また、自分は加藤嘉一個人としての意見を言っただけのつもりであっても、外国人にとってはそれが日本人全体の意見になってしまいます。これは非常に責任を伴うことです。だから、まずは何より日本の国際社会における立ち位置や歴史をしっかり勉強することが大事ですね。国際社会で日本人としての意見を聞かれても、何も答えられない。それはとても恥ずかしいことですよ。

学生にメッセージをお願いします。

自分達がいかに恵まれているか知ることです。他国の学生と比べて自分達にはこれだけ情報が開かれていて、これだけどこにでも行ける環境にある。日本のパス ポートを持っていれば、実際どこにでも行けるわけですよ。そのうえ今は円高です。今海外に出なかったらいつ出るんですか。一方、中国の学生は、人民元は切 り上がっていないし、どこに行くにもビザが必要です。北京でアメリカのビザを取るためには、米国大使館の前で500メートルも並ばなければなりません。彼 らは、そうまでしても行きたいと思うんです。でも僕は、ただ漠然と海外に出ろと言うつもりはないです。就活をするか、大学院に進学するか、留学するかな ど、学生の皆さんも迷っているはずです。そんな人に僕からのアドバイスです。まずは選択肢を広げましょう。そしてどの選択肢が一番いいか決定するための視野を広げましょう。何か新しいことをしたいと思うのは、現状に不満を抱いているからです。それを違った視点、場所を変えて自分って何だろう、自分って何が したいんだろうと考える事は非常に大切です。しかも学生のうちに海外に出るのはローリスク・ハイリターン。さらに今はローコストです。迷っていて新しい視 点が欲しい。そんな時は留学でも海外旅行でも行く。自分を非日常に連れていくことです。そもそも、今日本人が海外に行きやすいのは、先人が汗水たらして必死にやってきたから。だから今のパスポートがあるんです。天から降ってきたものではないんですよ。日本のパスポートが今後どうなっていくかは、我々一人ひ とりの日本人にかかっています。自分の海外での振る舞いが今後のパスポートにつながって、未来の日本人が国際社会でどれだけリスペクトされるかにつながる という意識が大切です。そうすれば緊張感が生まれるでしょう。緊張感が生まれたら人は真剣になるんです。

               2010年、「中国時代騎士賞」受賞インタビュー

 

編集後記

インタビュー中、ほとばしる情熱で答えて下さった加藤さん。圧倒されました。一言一言に今までの経験からくる重みを感じました。ものすごく辛く、も のすごく苦しい時があったと思います。でもそれに歯を食いしばって耐え、見えてきたものだからこそ聞く人の心に入ってくる説得力があるのではないでしょう か。「パスポートは天から降ってきたものではない」という言葉が特に強く心に残りました。私達は、海外旅行しようかなと考えたり、留学するかどうかを悩んだりしますが、選択肢があること自体に感謝しなければと感じました。次の世代のためにも、先人が切り拓いてくれた道のその先をさらに切り拓かねばと思いま す。

相原 亮(基幹理工学研究科1年)

人生は計画通りに進まない。目の前にある事象に正面から取り組むだけ

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年2月16日公開)

早稲田大学講師・慧洋海運独立取締役(前住友商事理事・台湾住友商事会社社長)
岩永 康久

1945年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、69年住友商事株式会社 鋼材貿易部入社。アメリカ、台湾駐在を経て、2000年から2007年まで台湾住友商事会社社長を務める。2007年9月には、台湾経済・貿易発展に寄与 したとして台湾政府・経済奨章を受章。2008年住友商事退職後 から現職。

まとまった時間がある今しかできないことを!

学生時代はどのようなことをしていましたか。

勉強以外にもいろいろなことにチャレンジしました。社会に出たら朝から晩まで仕事をしなければならないため、時間があり余っている学生時代を有効に活用し ようと考えていましたね。具体的に例を挙げると、大学生の頃に日本国内はほとんど周りました。海外に行くお金がなかったので、それでは国内で何ができるだ ろうかと考えた結果です。たとえば、北海道を一人、野宿同然で自転車で一周した後、青森-秋田-新潟-東京間2,300kmを50日かけて自転車で走り続 けました。他にも、九州に帰省する途中にテントを持ち歩き、中国・四国地方に寄ったこともあったし、北陸地方まで足を延ばしたこともありました。

先生にとっての学生時代というのは、どのような時代でしたか。

まとまった時間があるときにしかできないことを経験できた時代ですね。正直に言って勉強はあまりしませんでした。しかし、貧乏旅行などで培われた経験や精神力は、住友商事に入社してからも私の大きな力となりました。また、学生時代は友人とよく遊びました。友達との繋がりというのは社会に出てからも非常に大切です。大学で出会った友人とは卒業後何十年経過した現在でも食事に行ったり、お酒を飲んだりするものですよ。学生の皆さんも今の友人関係を大切にしてほしいですね。もしも私が学生時代に勉強しかしていなかったら、自転車旅行の時間や、友人と馬鹿な遊びをして過ごす時間は持てなかったでしょうね。そのよう な学生時代の経験は、今の学生たちのように就職活動のノウハウを勉強することよりも、私にとってはず~と重要なことでした。

どこの国の人も自分の人生が大事で、精一杯生きている

総合商社・住友商事を就職先として志望した理由を教えてください。

私の学生時代は日本も外貨がなく、海外への渡航は簡単でない時代でした。貨物船に乗って皿洗いしながら米国に渡り、自転車でアメリカ大陸横断をやろうと計 画しましたが、VISAが下りませんでした。自分のお金で海外へいけないのであれば、会社のお金で行くしかないなと、それなら総合商社が一番ではないか、 と考えたのです。当時は学校推薦を取れば、あとは役員面接と身体検査だけで内定が出る時代で、運よく住友商事に決まりました。当時総合商社を目指す人の志望理由なんて考え抜いた高尚なものではなく、寧ろ単純なものでした。海外に飛躍したい、海外へ派遣される会社に行きたい。まあ、そのような事でした。入社 してからは楽しい事も失望した事も紆余曲折がありましたが、今振り返ってみると、私の夢はほぼ叶ったと言えるでしょう。アメリカや台湾の駐在を含めて、合 計48ヶ国へ出張し、やりがいのある仕事をすることができたのですから。

アメリカ駐在時代に印象に残っている仕事は何ですか。

 鉄道の高級レールの輸出ビジネスを、着想から利益が出るところまで作り上げたことですね。30歳を過ぎて、鉄鋼係長としてアメリカに駐在していた私は、ね じ輸出の担当をしていました。しかし、当時円高が原因で日本製品の競争力は低下しており、取引していた会社も倒産してしまうほどでした。業績不振で帰国辞令が出かねない!今思うと、会社生活で一番苦しんだ時期でしたよ。債権回収には頭を痛めたし、利益が出るような新しいビジネスを如何にしたら作れるかと 日々苦悶していました。しかし名案は浮かびませんでした。苦悩する中である時ふと、「扱い商品の中に電車のレールをつなぐ部品(ボルトナット)も含まれて いるけど、なぜレールは輸出していないのか」、と疑問に思ったのです。そして、レールの輸出ビジネスを始めようと考えました。しかし、当時の日米間では貿易摩擦が大問題でした。ただでさえ日本製品の輸出が増加し、アメリカが日本に対して不満を持っていた時代です。これ以上輸出を増やせるはずがありませんで した。従い、何処の商社も米国向けレールは扱っていなかったのです。そこで考えついたのが、高級レールの輸出ビジネスです。高級レールというのは、鉄道路線の急カーブに使われるものです。電車に乗っていると急カーブで“キッキッキー”という軋み音が聞こえますよね。これはレールと車輪がお互いの鉄を削り 合っている音です。アメリカでは一編成で機関車が3両、100両の車輛が一度に1万トン以上を運びますから更に過酷な条件です。従い、激しい圧力にも耐え られる高級なものでなければなりません。高級レールを高価格で、過酷な使用条件の場所のみに少量輸出するのであれば、貿易摩擦も生じません。理論としては 完璧ですよね。あとは、保守的な米国鉄道会社、日本の鉄鋼会社の人を説得することに腐心しました。しかし、いろいろな方々の協力を得て、何とか成功させる 事が出来ました。このビジネスの功績で、後に社長表彰をいただく事ができました。

              このようなカーブに高級レールが使用されている

 

アメリカで、考え方の違いを感じたことはありましたか。

私がアメリカ人の考え方を全然理解できていなかったことが原因で、アメリカ人と何度も喧嘩しました。当時の日本が急速な経済発展を遂げていたこともあり、 日本人としてのビジネスの方法を過信していたように思います。私は、チャンスがあれば、全力投球で積極的な攻めの営業をしていました(今思うとtoo pushyだった!)。しかし、一緒に働いていたアメリカ人は、別の考え方を持っていました。彼は、押し過ぎるのではなく、周囲をじわりじわりと固めつつ、「万有引力でリンゴがぽとりと落ちる」ように、後は時期がくるまで待つという考え方を持っていたのです。彼とは率直に議論をしながら、私は多くを学び ました。その後、ビジネスの進め方が変わり、大いに役立ちました。

台湾住友商事社長としての経験から、多くの現地スタッフを動かす際に気を付ける点は何だと思いますか。

私は日本人を過度に優遇しないように気を付けていました。当時、日本企業は国際化が遅れていました。その最大の理由が言語です。日本人の中には英語が苦手 な人が多く、台湾にある会社であっても日本語主体のシステムになってしまったのです。当然社内では日本語が堪能な日本人が有利になります。しかし、これで は台湾人の現地スタッフが不満を持ってしまいますよね。私は常々「人生はそれぞれの個人にとって一番大切なもの」と思っています。日本で生まれたから、台湾で生まれたから、という理由で差別がでたら、不満が生まれますよね。やる気もなくなり、会社の業績だって上がらないでしょう。そのため、絶対に台湾人現地スタッフを差別しないように心がけていました。むしろ意識的に日本人派遣員よりも台湾人スタッフの考え方を尊重し、フェアな処遇になるよう考えていまし た。

間違いは素直に謝ることが信頼につながる

今の学生は内向きだと思いますか。

日本の学生全体が内向き志向になっていると思います。その理由は、豊かな社会で育ったことと、少子化の2点であると思います。今の学生は、豊かな社会で親 に大事に育てられたので、苦労の経験が昔の学生と比べると圧倒的に少ないです。また、少子化であるために、親や親戚の愛情を独り占めにして成長してきまし た。その結果、ハングリー精神が足りない、わがままで打たれ弱い学生が増えたのだと思います。このハングリー精神の欠如から、全体として今の学生は、内向きになりがちであると思います。ただし私は、他大学の学生と比べ、早大生は比較的にバイタリティがあると思います。私の講義をとる学生には外向き志向の人 が多く、機会があれば海外に飛躍しようと考える学生が多くいます。もちろん全体として見て、我々の時代の早大生と比べれば、まだまだ内向きですがね。

なぜ外向きになる必要があるのでしょう。

時代が変化しているからです。これまでの日本は、世界第2位の経済大国でした。日本でやっていれば世界と戦えたのです。しかし、これからは日本の市場は縮小していく一方です。世界に目を転じて、市場を拡大していかないと、企業は生き残れません。早稲田の学生たちには、そういう外向きの志向を持ってほしいと 思っています。世界に出ていくと、考え方・価値観が異なりますから、日本で美徳のように語られる以心伝心など通じません。意見は堂々とはっきり言うことが 求められます。また日本人としてのアイデンティティ・価値観を持って議論してほしいものです。良く歴史問題などの議論も出ますから、歴史も良く理解してお いてほしいですね。そして激しい議論を恐れない事です。口論になる事を恐れて自分の意見を引っ込めれば、真の理解は生まれません。相手の立場を尊重して、 誠意を持って当たれば、率直な議論を通じてこそ真の相互理解が生れるものです。

これから社会に出る学生へメッセージをお願いします。

間違いは「素直に謝る」ことが信頼につながる、ということです。例えば、私が住友商事に勤めていたころ、見積もりの計算ミスで何十億円という赤字が出かね ない失敗をしたことがあります。悩みましたが、かかる事は隠さず即報告すべきと思い、当時の課長に打ち明けました。すると、そのときの課長が「間違いは誰 にでもある。二度と間違えなければいい。よく話してくれた」と逆にほめてくれたのです。取引先には即訪問し、正直に自分のミスを説明して謝罪しました。付 き合いの長い取引先であったため、最終的には理解を得ることができました。みんないい格好はいくらでもします。しかし、間違いを認めることは、誰にでもできることではありません。過ちを素直に認める心をもってほしいですね。もう一点、「苦労は買ってでもする」べきであり、「正面から向き合いなさい」、とい うことも伝えたいですね。人生は山あり谷ありです。調子がいいときがあれば、次には落ち込む時がきます。このときに、困難から逃げずに正面から向き合うこ とが肝要です。若いときに苦労した経験がある人は、将来仕事で辛いことに出くわしても、必ず突破口を見いだせると思います。最後に、あまり就職・勉強だけに執着しないでほしい、ということです。私も今になってもっと勉強しておけばよかったと思う事もあります。しかし社会に出たら朝から晩まで仕事・また関連 の勉強をしなくてはなりません。むしろ、学生時代の貴重な4年間でしかできないことをしてほしい、と思いますね。

編集後記

インタビューの中で、何度も先生が協調なさったのは、「学生時代には、まとまった時間がないとできない経験をした方が良い」ということでした。岩永 先生が、アメリカで「ボルトからレールの輸出へ」という案を思いつくことができたのも、学生時代のさまざまな経験で積み上げた引き出しの多さゆえではない かと思います。私自身、残された1年間の学生生活で、今しかできないことに全力を注いでいき、「経験の蓄積」を増やしていけたら、と思っています。

飯沼亜季(国際教養学部3年)

大切なのは言葉より“迎える心”。外国人を特別だと思わず、そのままの自分で接することが大切だ

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年2月6日公開)

澤の屋旅館館主
澤 功

1937年新潟県生まれ。60年大学卒業後、東京相互銀行に入行。64年旅館澤の屋の一人娘と結婚。翌年銀行を退職し、澤の屋の経営者となる。82 年外国人受け入れを始め、98年まで外国人客受け入れ旅館の全国組織「ジャパニーズ・イン・グループ」会長を務める。2003年には観光カリスマ(下町の 外国人もてなしカリスマ)に認定。現在、社団法人日本観光旅館連盟会長補佐。

「お客様ゼロ」からスタートした、外国人のお客様の受け入れ

澤の屋旅館について教えてください。

台東区の谷中で、家族で経営している旅館です。義母が1949年に開業しました。私が澤の屋旅館の一人娘である家内と結婚した1964年当時は、修学旅行 の生徒さんで賑わっていました。しかし、私が経営者になった頃から、あっという間にお客様が減っていきました。その理由はいくつかありますが、修学旅行の 生徒さんが大手ホテルに泊まるようになったことが一番の理由です。また、生徒さんの次に多かったビジネスパーソンのお客様も、駅前に増えたビジネスホテル へと移っていきました。澤の屋旅館は家族旅館として喜ばれていたのですが、日本人の生活スタイルが変化したことで、家族的な対応よりも一人ひとりにベッド とお風呂、トイレがついているホテルの方が好まれるようになってきたのです。

外国人のお客様を受け入れるようになったきっかけは何でしたか?

お客様が減ってきた頃、新宿の矢島旅館さんから「日本人のお客様が来ないなら、外国のお客様を受け入れなさい」と勧められたことです。矢島旅館さんでは、 以前から外国人の受け入れを始めていたのですよ。でも、一年間は踏み切ることができませんでした。外国人のお客様を受け入れるということは、世界中からお 客様が来るということです。フロントで様々な国の人たちから外国語で話しかけられたらどうしようと思い、言葉ができないのに「外国人の方、どうぞいらっ しゃい」とは言えませんでした。日本人のお客様が泊まってくれない全室和室のお風呂もついていない旅館に、外国人のお客様が泊まってくれるわけがないと 思っていたのです。そうこうしているうちに、1982年の夏にとうとう3日間連続で宿泊客がゼロというときがありました。「このままでは潰れてしまう」と 危機感が高まり、矢島旅館さんを見学させてもらうことにしました。すると、驚いたことに設備はほとんどうちと一緒だったんです。矢島さんが簡単な英語で話 している様子を見て、うちの旅館でもできるんじゃないかと思いました。それで、外国人のお客様の受け入れを始めました。

どのようなご苦労があって、外国人のお客様を増やすことができたのですか?

矢島旅館が全国の小さな旅館に呼びかけて、外国人のお客様を受け入れる旅館の組織「ジャパニーズ・イン・グループ」を作っていました。毎年、パンフレット を年2回7万部ずつ作製して、世界1,000ヶ所に送っていたのです。澤の屋旅館が受け入れを始めた年の外国人のお客様は230人でしたが、そのグループ に入れてもらったことで翌年には3,000人になりました。当時は、インターネットもない時代でしたから、そのパンフレットに載ることが唯一の広報手段で した。この中に、澤の屋旅館の情報やイラスト付きで紹介する日本式旅館の利用法、FAXでの予約フォームを掲載することによって、外国人に澤の屋旅館の知 名度が徐々に浸透していきました。そうして来てくれたお客様を夢中で受け入れていたら、1984年にはお客様が4,000人を超え、客室の稼働率も平均 90%を超えました。年々お客様が増えていき、毎日ほぼ満員の状態となったのです。

外国人だからと言って特別なことはしなくていい。日本人と同じように接することが大切だ。

外国人のお客様を受け入れるために、どのような工夫をされてきましたか?

澤の屋旅館では、谷中の町と一緒になって外国人のお客様の受け入れを進めてきました。うちの旅館では、朝食しか出していません。それ以外は、外国人のお客 様は街に出て行き、町の人のお世話になっています。長期間滞在してくれるお客様に対して、うちだけで毎日違う食事を作って、様々なサービスを提供し続ける のは難しいことですが、町の中には食事や買い物ができる場所がたくさんあります。たとえ3ヶ月間泊まるお客様がいらしても、町と一緒に受け入れれば、より 多くのサービスを提供できるのです。外国人のお客様は、日本人が当たり前だと見過ごしている普通の日常的な活動に興味を持っています。そういう経験をする には、日本の生活が残っていて、文化や歴史に触れ合うことができるこの町が最適だと思っています。外国人のお客様が街に買い物に行き、町の人といい思い出 ができれば、その町が好きになって、日本が好きになって、澤の屋旅館のリピーターになってくれるんじゃないかという想いがあって、谷中の町全体で一丸と なって受け入れ続けています。谷中の町があって、谷中の人がいるから、澤の屋旅館が成り立っているのだと思っています。

外国人のお客様が町に出るために、どのような工夫をされているのでしょうか?

澤の屋旅館は家族旅館ですから、旅館の中だけではそんなに交流はできません。そのため、町の人と交流できる機会を紹介して、どんどん町中に出ていってもら うようにしています。私の仕事の一つは、外国人のお客様と町の人との交流の橋渡しをすることだと思っています。たとえば、近くで盆踊りをやると聞いた時 は、町会の人に頼んで、踊りの輪に入れてもらい、また、夏祭りでは、神輿をかつぐ体験をさせてもらいます。餅つきや桜見物に行くこともあり、谷中では様々 な体験ができます。他には、日・英両言語の谷中エリア・マップを作って、お客様に渡しています。豪華な宿や美味しい料理のことは忘れてしまいますが、その国の人との触れ合いや、ちょっと親切にされたことは旅の思い出として後々まで残ります。世界遺産を見ることもいいですが、町の人との良い思い出を作れた ら、その人を通してその町や国が好きになって、旅館にもまた来てくれます。町ぐるみで交流することがとても大切なんです。

外国人のお客様を受け入れるために、澤の屋旅館が方針を転換したことはありますか?

設備や言葉などは何も変えずに受け入れてきました。世界中のすべての人が喜んでくれる宿はないと思っています。ですから、外国人のお客様を増やそうと思っ て新しい設備をこしらえるのではなく、今現在日本にあるものをなくさないことが大切です。お客様は、旅の目的に合わせて宿を選んでいます。旅が目的で、宿 は手段なのです。あるリピーターのお客様は「いつ来ても家族でやっていて、顔が見えるから澤の屋旅館が好きだ」と言ってくれますが、すべての外国人旅行者 にとって家族経営で小さな旅館が適しているわけではないわけです。仕事のときはホテルに行く。温泉に入って美味しい和食を食べたいときは、観光旅館に行 く。ゴールドカードを持っている富裕層のお客様も澤の屋旅館に泊まってくれますが、それは旅の目的に合わせて選んでくれるからです。だから、いくらお客様 が増えても、設備を拡張したり、チェーン店にすることはしませんでした。また、言葉についても、外国のお客様と話すときに私は単語しか話していません。で も、お客様は「うん、うん」と聞いてくれます。澤の屋旅館でコミュニケーションができなかったというクレームは一つもないのです。言葉は流暢に話せない し、部屋にお風呂もついていないけれど、「良い旅館だよ」と言ってもらえて、たくさんのサンキュー・レターをいただいています。

大切なのは言葉ではない、「ありのままの日本」を伝えること。

今後は、どのような宿にしていきたいですか?

今後は、長く滞在してくださるお客様を増やしていきたいです。そして、外国人のお客様を受け入れる宿が増えるためのお手伝いをするのが、私の仕事だと思っ ています。30年前の私は、設備が整っていて、世界中の言葉を話せないと、外国のお客様は受け入れられないと思い込んでいました。でも、世界中の人に合う 旅館なんて存在するはずないじゃないですか。だから、「日本の旅館はこういうところですから、どうぞ」という考えで受け入れた方が楽だということを、外国 人のお客様を受け入れていない他の旅館にも伝えていきたいです。

どのような想いがあって、ご自身の経験を伝えているのですか?

日本は、国を挙げて訪日外国人旅行者を3,000万人にしようという目標を掲げています。5年先か10年先になるかわかりませんが、訪日外国人旅行者が 2,500万人にまで達すると、延べ宿泊者の5人に1人が外国人になるそうです。ですから、宿泊施設を経営する人が外国人の好き嫌いを言っていられる時代 ではなくなります。2008年に総務省が実施した意識調査では、日本の宿泊施設の38%が外国人客を受け入れていませんでした。この外国人の宿泊がなかっ た施設の72%が、「これからも受け入れたくない」と回答しています。言葉がわからない、設備がない、トラブルが嫌だという理由です。言葉がわからない、 設備がないというのは30年前の澤の屋旅館と同じです。「言葉ができるようになったら」、「外国人向けの設備ができたら」と言っていたら、100年経って も受け入れられません。旅館は旅館のままで、日本人のお客様と同じように受け入れればいいのです。日本に来る外国人も、自分を特別に扱ってもらおうと考え ているわけではありません。だから、今のままで大丈夫ですよと言い続けていきます。もっと多くの宿が外国人のお客様を受け入れるようになれば、宿も潤っ て、町も賑やかになるんじゃないかと思っています。私の経験を伝えることで、宿泊施設の経営者だけでなく、学生の皆さんにも「澤さんができるんだから、 やってみよう」と思っていただけたら嬉しいです。日本人も外国人も関係ありません。ありのままで接すればそれでいいんです。

最近の学生は「内向き」だと言われています。外国人と交流したいけれどその一歩を踏み出せない学生に、メッセージをお願いします。

言葉ができるに越したことはないと思いますが、先ほども申し上げたように、世界中の言葉など誰も覚えられません。ですから、多少英語が苦手でも気にせず に、「迎える心」を大切にして外国人と交流してみてください。私も、外国人のお客様を受け入れる前は、最も言葉が障害になると思っていました。しかし、い ざ受け入れてみると、言葉が一番障害にならなかったんです。最初は、息子が中学校で使っていた英語の教科書を見て、使えそうな文章を暗記しましたが、その 英語でお客様に話しかけても全然通じませんでした。でも、単語だけ言ったら通じたんです。もし、どうしても通じないときでも、紙と鉛筆さえあれば、どうかできちゃうんですね。それから、言葉が堪能になるよりも「よくいらっしゃいました」と迎える心を持つ方がもっと大切だと思うようになりました。ですから、 言葉ができないからだめだと思っている学生のみなさんも、言葉よりも「迎える心」を大切にして、身近な外国人に積極的に話しかけてみてください。

旅館 澤の屋HP
http://www.sawanoya.com

普段の澤さんのご様子

                旅館を営むご家族全員と(玄関前にて)

                外国人のお客さんとお話しされている澤さん

                諏訪神社のお祭りで町内神輿に参加中

編集後記

昨今の日本では、グローバル人材の要件として、語学力や異文化対応能力が必須だと言われています。「言葉ができないとグローバルに活躍できない」と諦めて きた読者の方もいらっしゃるのではないでしょうか。私自身も外国人と交流する際には、まず言葉の心配をしていました。しかし、このインタビューを通して学 んだのは、何か特別な準備をするよりも、相手を迎える心真心を持って、ありのままの自分と日本の姿を伝えていくことが大切だということです。たとえ接する 相手が外国人であっても、「人と人との触れ合い」に必要なことは共通しているはずなのです。言葉や習慣の違いを認めた上で、肩肘張らずに自然体で会話を楽 しめるようになることが、真の「グローバル人材」への第一歩となるかもしれません。

西辻 明日香(商学研究科1年)

好奇心を持って大きな夢を描け。追い続ければ道は必ず開ける

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年2月1日公開)

駐日パラグアイ共和国特命全権大使
豊歳 直之

1936年生まれ。58年早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業。同年大阪商船株式会社入社。60年アルゼンチンブエノスアイレスS. Tsuji SA勤務。69年パラグアイに移住。2009年までToyotoshi S.A.会長などを歴任。同年10月駐日パラグアイ共和国特命全権大使就任。

なんとかして海外に行きたいと模索していた学生時代

どのような学生時代を送られましたか。

私は早稲田大学に入って、一生懸命“優”を取ることだけに専念していた普通の学生だったんですよ。当時の日本はまだまだ裕福ではなかった時代ですからね。 私も9人兄弟でしたから、お小遣い稼ぎに家庭教師や土木などのアルバイトをやりました。そのうちに、漠然と卒業後に何をやりたいかということを気にするよ うになりました。そんななか、外国に行って何かしたいという大きな夢はずっと持っていました。私が子供だったときに日本が戦争で負けて、アメリカの進駐軍 の兵隊を見て、特にアメリカのような裕福な国に行きたいと思っていました。しかし、アメリカに行くにはビザが必要で、今のように簡単には取れません。それ でも何か方法はないかと思って模索していました。そうこうしているうちに、海外に出たいという学生が何人か集まって、海外移住研究会というサークルを作っ たんです。それぞれいかに海外に行くかをいつも語り合いました。今でもOBで集まって会合を開いていますよ。

南米に興味を持たれたきっかけは何ですか。

あるとき新宿の紀伊国屋書店へ立ち読みをしに行ったところ、『世界地理体系』という本がずらっと並んでいたんですね。そこから南米の国々を知りました。初 めて見る国ばかりで、アメリカよりは南米のほうが行けるチャンスがあると思い、当時高かったその本を買って帰りました。パラパラと見ていたらアルゼンチン が目に入りました。アルゼンチンには技術移民としてあるいは呼び寄せの形で保証人がいれば行くことが可能ということを知って、これなら行くチャンスがある かもしれないと思ったんです。一応英語は一生懸命勉強していましたよ。当時進駐軍は民間のところに家を借りて住んでいたのですが、近くにたまたま2軒あり ました。そこで知り合った同世代の子供といつも英会話の練習をして、将来に役立てたいと思っていました。

ずっと夢見続けていた南米への渡航を実現

南米に渡航された経緯について教えてください。

港に移民船を何度か見に行ったことがあり、そのとき印象に残った大阪商船(現商船三井)を卒業後に受験しました。大阪商船に入れば南米に行けるチャンスが あると思ってどうしても入りたかったのです。無事試験に合格し、私は南米方面の船員としての海上勤務を希望していましたが、配属されたのがニューヨーク行 きの船で、しかも船のオペレーション等の陸上勤務でした。すごく落胆したのを覚えています。その後本社勤務になって東京に来ました。当時は自由競争ではな く、海運同盟の中で運賃を決めていましたが、それをいくらにするかなどを決める会議に出席していました。しかし、私は早く日本を抜け出したいとばかり考え ていました。ちょうど海外日系人大会というのがあって、そこにアルゼンチンから来た人がいないかを探したところ、それがいたんですよ。アルゼンチンで雑貨 の輸入をしている日系の会社でした。それで呼んでくださいと2年間ずっと頼み続けましたら、そこの社長が日本に来たときになんとか私を呼び寄せてくれて、 移民として話が成立しました。アルゼンチンに移住する私の夢が実現したわけです。

パラグアイのどのようなところに一番惹かれましたか。

パラグアイに入ったときは、今までと全然違う国だと感じました。話すスペイン語も少し違いましたし、人も違うんですよね。質素で親切で、最初に行ったアル ゼンチンよりもずっと貧乏な国だけれども、人柄が良くてすっかり気に入りました。南米に行った後は、いろいろな商売を持ち込みました。ウルグアイでおも ちゃを売り歩きましたし、チリにも行きました。電車やバス、馬車を乗り継ぎながら、アルゼンチンでも国境まで商品を売り歩きましたね。そのあとにパラグア イでホンダの商品の販売しないかと誘いを受けました。アルゼンチンは国産品の保護のために頻繁に輸入制限をしていたのに対し、パラグアイは何でも輸入が自 由だったというところにも惹かれました。貿易が私の取り柄でしたので、生きていくためには輸出入が自由な国がいいと思って決心してパラグアイに船で渡りま した。

単身で最初にアルゼンチンに行かれたとき、言葉には困りませんでしたか。

南米に渡るまでスペイン語は全く勉強していませんでした。そこで、船で読もうと思って『スペイン語4週間』という本を持ち込みました。ところが、船にいろ いろな船客が乗ってきて、彼らと一緒にパナマやヴェネズエラなどいろいろなところで船を降りて観光をすることになりました。それが楽しくて楽しくて、その 本は結局1ページも開きませんでした。だから着いたのはいいですが、スペイン語はしゃべれないんですよね。やはり商売にはならないので、とにかくスペイン 語を聞いて、話している内容を想像していました。そうするとだんだんと話していることが想像から実際に分かるようになりましたね。負けず嫌いな性分で、その国の人に負けるようなスペイン語を話したり書いたりしてはいけないと当時から思っていました。

日パ両国の懸け橋としてこれからも奮闘し続ける

パラグアイ国籍の取得と、異国での大使就任に迷いはありましたか。

好奇心からやってみようという気持ちはあったけれども、やはり未知の世界で、しかも大使というのは国を代表する仕事だから迷いました。一番迷ったのはやは り日本国籍を離脱しなければならないということでしたね。感情的には非常に悩みました。しかし、私がこのようにやってこられたのは、南米、特にパラグアイ辺りが規制された社会ではなかったからなんですよね。まだまだこれから作っていく国なんです。日本だったら私が今やっていることはできなかっただろうし、 アメリカに行ってもできなかったのではないかと思います。私が好きなようにやってこられたのは、やはりまだまだ自分で頭を使ったり労働力を提供したりし て、一生懸命やればなんとかなるという世界がだったからではないかと思います。すごくお世話になった国でしたし、何度も要請を受けたということもあり、ひとつの恩返しと考え、大使の就任を引き受けました。

今後はどのようなところに注力していきたいですか。

両国の間に立つのは難しい立場で、困ることもあります。しかし、日本国籍を離脱したからといって、100%パラグアイというわけにはいかないんですよね。 やはり日本と、そして新しく私の国になったパラグアイが混在しているわけです。まずは将来のパラグアイの指導者になるような優秀な人間が必要だと思ってい ます。だから、学術的に優秀で、道徳心をもった生徒を育てたいと思って、日本パラグアイ学院を創設しました。つまり、パラグアイで私が昔受けたような、学 校と先生に全てを任せるという教育方針をそこで今やっています。また、震災後は、パラグアイで作った非遺伝子組換の大豆を被災地に配布してきました。これ を最初に言い出したのがパラグアイの日系人の農家で、これは私たちからの日本への思いです。

                     非遺伝子組換の大豆

編集後記

好奇心の塊だから、今大使をやっているのも好奇心からだと笑って話す豊歳さん。南米での数多くの出会いを楽しそうに話されている姿が印象的で、パラ グアイへの熱い想いが何度も何度も感じられました。著書『パラグアイにかけた夢―豊歳直之・わが人生』を読みましたが、夢に向かって強い意志を持って臨み続ければ必ず成功が訪れるということを豊歳さんはご自身の経験を踏まえて教えてくれました。これから社会に出ても、自分の道は自分で切り開くんだという前向きな心構えを大事にしていきたいと思いました。

陸 欣(国際教養学部4年)

3 / 47ページ

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén