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OB座談会企画 「“日本人としての誇り”と“異文化理解”。 二つをバランスよく兼ね備えることが重要な鍵となる」

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2013年5月30日公開)

(右)荒木 岳志(あらき たけし) 2005年大学院理工学研究科卒。丸紅株式会社入社。2008年にビジネストレーニーとして台北に派遣後、2009年~1年間上海赴任。現在は化学品総括部 企画課。
(中)鈴木 威一(すずき いいち) 2002年政治経済学部卒。富士通株式会社入社。2009年~3年間英国Fujitsu Servicesに出向。現在は金融・社会基盤営業グループ 金融ローバルビジネス統括部に所属。
(左)山岸 健太郎(やまぎし けんたろう) 1999年法学部卒。住友信託銀行株式会社(現三井住友信託銀行)入社。社内トレーニー制度で1年間シンガポール駐在。その後東京での勤務を経てニューヨークに赴任。現在は本店営業第二部(法人営業/総合商社担当)。

旅先で危険に遭遇した時に、英語ができないとまずいと思った
どのような学生時代を過ごされましたか?また、その頃から海外志向がありましたか?

山岸 一言で言ってしまえば怠惰な学生生活でした。海外に対する意識は昔からありましたが、英語力が伴わなかったため、留学を経験することはできませんでした。海外に関することといえば、僕は法学部で国際法のゼミを履修していたので、その授業の中で多少は海外を意識して勉強することができたと思います。

鈴木 僕も、いかに効率的に単位を取っていくかということばかり考えていました。所属していた国際交流サークル(国際交流虹の会)では、留学生が銀行口座を開くのを手伝ったり、合宿などのイベントを開いたりしていました。また当時流行っていた紀行小説『深夜特急(沢木耕太郎著)』の影響を受けて、友達と夏休み中に1ヶ月くらいかけてアジア各国を旅行したりしていました。白木先生(政治経済学術院教授)のゼミでは、3年の夏にタイ合宿があり、それにかこつけて友達と香港からタイまで陸路で行きました。それが僕の最初の海外経験だったと思います。

荒木 学生時代はバイトに精を出していましたね。また、学部が理工系で、華やかな本キャン(早稲田キャンパス)とは少し雰囲気が違っていたので、いかに学生時代を楽しく過ごしていくかということを考えていました。英語に真剣に向き合うようになったのは、大学院に進学してからですね。当時所属していた研究室が海外の研究室と提携していたこともあり、英語で研究成果を発表しなければならないこともありました。その当時はきつかったですが、海外の研究者や教授と交流することで、この人たちは何を考えているのだろう、何か面白そうなこと考えているな、というように少しずつ海外の人の考えていることに興味を持つようになりました。就職先も商社に絞っていたわけではなかったですが、海外を見てみるのも良いかなと思い、今の会社にお世話になることにしました。

山岸さんと鈴木さんは当時英語の勉強はされていましたか?

山岸 やはり学生時代から海外に対する意識は強かったですけど、英語ができないというジレンマがずっとありましたね。大学4年生でニューヨークに旅行した時、英語が話せない自分をとても恥ずかしく思いました。英語をやらなきゃいけないと本気で思い始めたのはその頃からです。その旅行で、自分の未熟さを痛感し、今後世界の中で一人前に戦っていくには、やはり英語の勉強が必要なのだと感じました。

鈴木 僕も旅行先で自分の英語のできなさを痛感しました。インドに行った時に現地の人の言うことを理解できないと命に関わるという場面に遭遇した時は、やっぱり英語ができないとまずいなと思いました。本格的に英語を勉強し始めたのは、社会人になってからですね。最初に配属されたのは関西だったのですが、いつかはグローバルに働きたいと考えていました。

タフなだけではやっていけない。強さと優しさの両方が必要

 実際に海外に赴任されるまで、どのようなプロセスを経たのでしょうか?
荒木 僕の場合は商社だったので海外志向が強い人も多いかと思いましたが、当時は僕の周りでは意外にも少なく、そんな中僕は「どこに行くかは分からないけど、それでもいいなら」という条件付の部門内海外研修プログラムに応募しました。結果、台湾に赴任することになりました。
 赴任先が台湾と聞いた時はどんな気持ちでしたか?
荒木 ほっとしましたね。所属している部門は化学品を扱っていて、当時は中国の内陸に進出するという話だったので、「もしかしてウルムチかな」とも思っていましたから。
鈴木 僕は、始めは関西、大阪でしたが、公募で東京に移り、外資系金融機関を相手にシステム営業を担当していました。その頃社内で、ローテーションで若手を海外に派遣しようという計画があったので、その一環として僕もロンドンに赴任しました。
 海外に行きたいと、自ら志願されたのですか?

鈴木氏 ロンドン赴任時

鈴木 そうですね。前々から海外には興味があったので、英語の勉強も学生時代に比べれば頑張ってやっていました。そんな折、上司から「海外に行きたいのか」と尋ねられることがあったので、その時は「機会があれば行きたいです」と答えていました。それが、意外に早く話が進んで、ロンドンに赴任することになったという形ですね。

山岸 僕も鈴木さんと同じで、最初の配属先は関西・神戸でした。勤務開始当初は、仕事に加え、新しい土地での生活に慣れるので精一杯でした。ただ、当時の先輩の中に海外勤務を経験された方がいて、その方から海外での経験を伺ううちに、自分もいつかは国外で働いてみたいと改めて思うようになりました。

 海外勤務に向けての具体的なきっかけはどんなものだったのでしょうか?

山岸 その海外勤務をされていた先輩から、シンガポールのトレーニー(研修生)公募があるので、それに応募するのはどうかというお話を頂きました。ただその時は、すぐには返事をしなかったですね。というのも、その頃長年希望していた自分のやりたい仕事ができる部署にやっと異動させてもらったばかりで、すぐに海外希望を出してしまっては、ある意味上司を裏切ることになるのではと少し悩んだんです。ただ、このチャンスを逃したら次はいつ来るか分からないと思い、思い切って応募しました。

日本での仕事に未練はなかったですか?

山岸 特にはありませんでしたね。うちの会社自体がドメスティックな企業なので、いずれ日本に帰ってくることは分かっていたし、むしろシンガポールでの経験が自分の強みの一つにできるなと思っていました。だから、シンガポール行きが決まった後は、後ろを振り返らず、後任の人への引き継ぎをしっかりして、前だけを向いていましたね。

海外赴任が決まるまでに、試験などがあったと思いますが、なぜ自分が選ばれたと思いますか?

山岸氏 旅行先、ブラジル/リオ・デ・ジャネイロにて
現地で知り合った人々とサッカーをし、名物シュラスコを一緒に。

山岸 強いて言うなら勢いですかね。当時英語は全く勉強しておらず、面接の際に英語の勉強について尋ねられた時も「毎晩、映画を一生懸命観ています!」とだけ答えました。英語はツールであり、結局コミュニケーションをするのはハートだから、自分の言いたいことは絶対伝えられると思っていたし、面接でも「いずれ慣れます。僕の言いたいことは絶対伝わります!」と言い切りました。そういう勢いがあったからこそ自分が選ばれたのだと思います。

鈴木 僕も山岸さんのように、「勢い選抜」かもしれません。選ばれた理由が英語力ではなかったのは確かですね。やはりやる気が一番評価されたのだと思います。真面目に仕事をやれるかどうかや、環境が変わっても耐えられるかどうかです。英語力に関しても、その後の伸びしろを期待された面が大きかったですね。

荒木 僕の場合も同じで、やる気が買われたのだと思います。台湾への赴任が決まったのが出発の半年前、時間的にもまだ余裕があったので、中国語を勉強しようと思ったのですが、日本で勉強すると発音がおかしくなるからするな、と言われ結局中国語を勉強せずに台湾へ行きました。ただ台湾には日本語を話せる方が多くて何とかなりましたね。

日本人とは違ったコミュニケーションの仕方に気づくことが重要

 
赴任先での仕事内容はどのようなものだったのでしょうか?

山岸 僕は、シンガポールでもニューヨークでも、海外に進出している日系企業への融資を行っていました。だから、見る書類は英語でも実際に話をする時は日本語で、というケースが多かったですね。書類に関しては辞書さえあれば読めるし、英語でのメールも時間をかければ書けるので、なんとかなりました。ただ、リーマンショックを境に周りの環境が変わりましたね。どの企業にとっても、日本人を現地に派遣するのはコストのかかることだったので、英語を使って現地の人々を相手に仕事をする機会がとたんに多くなりました。その頃から、英語で電話をしたり、英語を使って会議に参加したりしなければならなかったので「ビジネス・サバイバル・イングリッシュ」の習得に努めました。

英語でのミーティングに慣れるのには苦労されましたか?
山岸 多少苦労しましたね。ただ、そういう会議では得てして専門用語が多く使われるので、それらをしっかり理解できれば何とかついていけました。また、アメリカ独自のコミュニケーションの作法を認識できたことで、会議での理解も進みました。例えば、アメリカ人は自分の言いたいことを、手を替え品を替え、何度も繰り返す傾向があります。だから会議で一度聞き逃しても、それほど慌てる必要はないんですよね。そのような日本人とは違ったコミュニケーションの仕方に気づくのも重要だと思います。

鈴木氏 出張先のスウェーデンにて

鈴木 僕も山岸さんと同じように、日系企業を相手に仕事をする機会も多くありました。ただ赴任先がイギリスの会社を買収してできた会社で、社員はイギリス人が大多数。日本人は少数派だったため、イギリス人に何かをしてもらおうとする時や、会議に出席する時は必ず英語が必要でした。だから家に帰ったら常にBBCを見ていたり、朝はラジオを聴いたりして英語力を鍛えていました。スペイン人やドイツ人は日本人と同じくネイティブではないので、彼らとの仕事は多少やりやすかったのですが、イギリス人との会話はスピードが速く表現も難しい。とにかくイギリスにいる間は英語が必要不可欠でした。

英語での会議に慣れるまでにはどのくらいかかりましたか?
鈴木 僕は丸3年かかりましたね。3年かけてようやく、重要な部分でイギリス人の会話を止めて意見を言えるようになりました。

荒木 僕は研修生の立場だったので、台北に赴任した頃は、半分会社、半分学校という形で過ごしていました。その頃は英語ではないですが現地の中国語の新聞を日本語に訳し、社内の関係者にメールで流すという作業をしていました。また現地の方を相手に化学品の新規開拓の商売をしていました。化学品は一物一価で価格の差別化ができないので、こんな機能がありますとか、ピンポイントに物を運びますとか、品物そのものの特徴よりも商社機能をアピールしていました。また相手に顔を売ることも大切だったので、飲み会に参加し、交流を図るようにも努めていましたね。

台湾と上海での現地の人の対応に違いなどはありましたか?

荒木 台湾よりも中国の方のほうが、何というか、良くも悪くも表現が直接的でしたね。営業に行った際も、「これ意味あんの?安いの?高いじゃん。じゃあいらない。もう来なくていい」みたいな感じでした。だからいかにそこに切り込んでいくか、というのが自分の中で大きなテーマでしたね。現地の方と一緒に営業に行った際も、「こういう表現は結構使えるな」とか「こういう返事にはこう切り返せばいいんだな」というようなことを一つひとつ勉強していきました。

日本人としての誇り、そして異文化に対する理解の重要性を痛感した

海外赴任の中で、最も苦労したことは何ですか? また、海外に滞在する中で、最も大切なことは何ですか?

山岸 苦労とは少し意味合いが違うのですが、海外赴任したことで、日本人としてどうあるべきかについて考えさせられましたね。海外の人たちと接するなかで、日本人はもっと自分の国を知るべきだし、自信を持つべきだと思いました。アメリカでたくさん知り合いができたのですが、向こう(アメリカ)の人たちは「自分たちの国、故郷が一番だ」というように、故郷についての話をたくさんします。彼らは自分たちのルーツ、生まれ育った場所を本当に誇りに思っていましたし、それぞれの文化、歴史に対してしっかりした知識を持っていました。かたや、自分を含め日本人は、海外の人から日本の歴史や文化について質問された時に、しっかりした返答ができるかと問われれば、僕は「できない」と思います。やはり留学や海外赴任をする際に、自国について正しい知識を持っているかどうかは、実際海外に行った時に大きな差になると思いますね。海外に行く日本人は、母国についてしっかりとした知識を蓄え、それを誇りに思うべきです。変に卑屈になってしまうと、物事はなかなかうまくいかないですから。営業でも自分の会社について尋ねられた時に「全然大した会社じゃありませんよ」なんて言ったらだめですからね。自分の会社に誇りを持つのと同様に、日本に対して誇りを持つべきです。

日本人は謙虚すぎるのでしょうか?

山岸 そういう面は多少なりともあると思います。日本人の中には、アメリカと聞くと「ナンバーワン」という印象を持つ人も多いとは思いますが、実際に一対一で仕事をさせると、日本人の方が仕事の処理能力は高いと思います。ただ、もっと日本人は打たれ強くなる必要があります。アメリカ=ナンバーワンと思うのは、ある意味、日本に誇りを持てていない証拠だと思います。自分の国についての知識を蓄え、海外の人に自慢できるくらい誇りに思うことで、もっと打たれ強くなれるのではないでしょうか。

鈴木 一番大事なことは、相手の国の文化を知ることですね。日本人はアメリカとヨーロッパを「欧米」として一括りに語ることが多いですが、例えばヨーロッパの人は、自分たちはアメリカ人と全く違うと思っていますし、イギリス人は、「ヨーロッパ」とは大陸ヨーロッパのことで、自分たちがヨーロッパに属しているとも思っていません。このようなそれぞれの文化的事情や感覚をしっかり認識する必要がありますね。

異文化に対する理解が一番重要だということですね。

鈴木 そうですね。特にヨーロッパのように複数の文化が共存する地域に赴任する場合はなおさらです。その国の歴史、文化、気質などをしっかり理解しておかないとその地域の人々と仕事をするのは難しいです。例えば、イギリスとスペインは基本的にあまり仲が良くないのですが、そこにはアルマダ(無敵艦隊)の海戦やジブラルタルの領有問題など、歴史的・政治的な背景があるということを知っているか否かでは、会話の理解が全然違います。あとは、ドイツ人は真面目で仕事が正確、南欧の人は良くも悪くも非常におおらか、などの国民性を把握すること。そのような赴任先の文化的、歴史的背景や社会構造を理解しておくことが、仕事をするうえで重要ですね。

荒木 やはり僕も、異文化理解の重要性はすごく感じましたね。特に台湾は中国との間でかなり複雑な歴史を経てきているので、営業の際のちょっとした会話にも気を遣わなければなりませんでした。その辺りが日本とは異なる点ですね。やはり日本は民族紛争などの種々の対立からある程度守られてきた国なのだなと思いました。

 上海に勤務された時はいかがでしたか?

荒木 上海に行ってからは、台湾時代とはまた異なる目線や現地の人の考えに気づかされましたね。中国というと反日デモなどの暴動が頻発しているイメージがありますが、現地の人の中には「あれはただのガス抜きなんです」「政府によって仕向けられているだけです」と言う人もいます。特に僕のお客さんなんかは結構冷めた目で見ていました。そして、中国はとても大きな国なので、一口に中国と言っても、南と北では方言も違えば考え方も異なります。現地では「北と南の人は方言が違いすぎて会話ができない」と言われているくらいです。そんな巨大な国の中で、自分は日本人として何ができるのだろうと常に自問していました。自社の商品にいかに付加価値をつけて売るかということが、苦労というよりは一番面白みを感じましたね。

荒木氏:旅行先の中国のハワイ「海南島」にて

やはり異文化の理解は大切なことなんですね。
山岸 そうですね。僕が一番印象に残っているのは戦争について認識の違いですね。僕たち日本人は、唯一の被爆国として、原爆に対する教育をある程度に受けて育ってきたので、考え方の違いはあるにせよ原爆に対してはそれなりの思い、考えがあると思います。ただアメリカ人は原爆に対して日本人ほど深い考えは持っていないんですよね。彼らからしてみれば、原爆のおかげで戦争が終わったから良いじゃないかという感覚なんです。むしろアメリカでは、12月8日の日本による真珠湾攻撃の特集などが未だに放送されていたりします。原爆にしても真珠湾攻撃にしても、やられた側の方がやった側よりも、そのことにまつわる記憶は深く刻まれるんですよね。歴史の事実は1つだけれども、その捉え方は国によって異なります。だからそのようなことを知らずに海外へ飛び込むと、痛い目に遭うと思いますね。
最後に早大生へのメッセージをお願いします

山岸 最近若い社員が会社に入ってくるのを見て感じるのは、英語を話せるのはもう特別ではないということです。英語を話せることはある種のスタートラインのように感じます。だから、英語に加えてもう1つ2つ、自分の強みを持てるといいですね。また、若いうちに海外の文化に触れておくことは本当に大切だと思います。日本は島国なので、多様性という点では他の国に劣ります。ですので、積極的に海外に出て様々な文化を吸収すべきです。そしてその際に、日本の歴史や政治に関する知識や自分なりの考えをちゃんと持っていく必要があります。先入観を持て、というわけではありませんが、ある程度思想的に武装していった方が、海外の人とも渡り合えますし、得る物も大きいと思います。世界を意識しつつ、日本人としての誇りをしっかり持って、頑張ってほしいですね。

鈴木 積極的に海外に出るべきというのは、荒木さんと一緒ですね。お金と時間に余裕があるのなら、留学や海外旅行は積極的にすべきです。やはり海外に出ることによって自分を客観視できると同時に、日本も客観視できると思います。今現在いろいろな国際問題がありますが、やはり「自分の国が一番」という思想だけではダメですね。「自国と比べて海外はどうだろう」、という視点を欠いてはいけません。そのような視点を育むためには、やはり海外で暮らしてみることが一番早いと思います。また海外で直面した日本との違いを否定するのではなく、なぜそこに違いがあるのだろう、と考えていくことが非常に大切です。

荒木 学生時代にしかできないことをしてほしいですね。個人的にはできるだけ長く海外に滞在することをお勧めします。短期の観光目的の滞在でも楽しめますが、その国の表面的な部分しか見ることができません。しかし、1ヶ月も滞在するとその国の文化のディープな部分をある程度知ることができます。そしてその先には、先にお二人が述べたような、「日本を客観視する」ことができていくと思います。早大生には学生のうちにしかできないことに積極的に取り組んでほしいと思います。

編集後記

終始和やかな雰囲気で質問に答えて下さった荒木さん、鈴木さん、そして山岸さん。ご自身の学生生活や海外赴任の経験をもとにしたお話はどれもユーモアに富んでいて、楽しみながらインタビューを行うことができました。その中で、お三方は「日本人としての誇り」と「異文化理解」の大切さについて、何度も言及されており、特に海外で働く際には、この2つの要素が非常に大切であるというお話にははっとさせられました。普段日本で生活している限りにおいては、自分が日本人であることを強く意識することはあまりありません。しかし一旦海外に出ると、「自分が日本人である」ことは、とても重要な意味を持つのです。だからこそ、海外の人に対し、自分が日本についてどう考えているか、自らの言葉でしっかりと語れるようになることが重要なのだと認識をあらたにしました。

 

森 雄志(政治経済学部2年)

汗にまみれるような早稲田力、行動力、情熱を持ち、人が嫌がることでも苦労をいとわないこと

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2013年5月30日公開)

早稲田大学理工学術院教授
藤井 正嗣

福岡県生まれ。早稲田大学理工学部数学科に入学後、カリフォルニア大学バークレー校へ留学、同校数学科および修士課程卒。帰国後、三菱商事株式会社 へ入社。クアラルンプール支店マネージャー、米国食料子会社会長兼社長、人事子会社取締役人材開発事業部長、本社人事部国際人材開発室長、などを歴任。 1999年にハーバード・ビジネス・スクール上級マネジメント・プログラム修了後、インド冷凍物流合弁会社エグゼクティブディレクター、グローバルイング リッシュ・ジャパン代表取締役社長などを経て、2004年より現職。

英語で数学を勉強、一石二鳥で思い立った留学
どのように英語力を身に着けられましたか?

小学3年生の時に、九州で生まれ育ち海外に一度も行ったことのない母が突然、「これからは英語が大事になる」と言い、中学生向けの英語学習塾に私を放りこ んだんです。そこではただぼーっと座っていただけでしたが、それでも中学に入学した時には、すでに中学英語の教科書はひと通り終えていました。高校に入っ てからは特に勉強しませんでしたが(笑)
大学に入学した頃は、早稲田の理工は1年目から専門の勉強をさせてくれるので、自分の専門性を深めつつ、他にも打ち込めることをしようと思っていました。 昔から相撲が好きで強かったこともあり、武道にしようと理工の柔道部に入ったのですが、夏合宿で怪我をし、ドクターストップがかかってしまいました。どう しようかと思いながら当時住んでいた西荻窪あたりを歩いていたら、英会話スクールを発見したのでフラフラと中に入り、もう一度英語をきちんと勉強すること にしました。やるからにはとことんやろうと思い、四谷にある日米会話学院の2年間のプログラムを受験、最初の一年半をスキップすることが認められ、半年で 修了しました。その半年間は、数学の勉強に追われながら毎晩18時から21時まで3時間英語をみっちり勉強するというのは容易ではありませんでした。そん な時、「留学すれば、英語で数学を勉強するから、自然に両立できるじゃないか!」と思いつき、留学を考えるようになりました。
大学では柔道のほか、ESS(英語研究会)に興味を持ったのですが、劇のような決まったスクリプトを覚えて話すという勉強方法で英語に触れるよりは自分の 頭で考えて話す方がいいと思い、NHKのテレビ英会話の教材で英語を勉強するサークルを自分で立ち上げました。その後早稲田理工の学生だけでなく、自分と 同じようなことをやっていた東大・一橋・お茶大の人たちと「サンデー・セミナー」という合同の勉強会を開催し、今で言うインカレで活動していました。

サンケイスカラシップでの留学を志したきっかけは何だったのですか?

英語に対して意識の高い「サンデー・セミナー」のメンバーの間でサンケイスカラシップが話題になり、みんなで受けることになったんです。サンケイスカラシップ(注:現在は休止)は、アメリカに15人、フランスに10人、イギリス・ドイツにそれぞれ5人留学できる全額支給の奨学金制度で、試験は一次が英・数・国・社・理の筆記試験と作文、二次が過去の成績証明の提出、三次が英語と日本語による面接でした。当時は激しい受験戦争の時代で、厳しい競争を勝ち抜いて立派な大学に入った人たちが、さらにスカラシップを巡って競い合うという状況だったんです。アメリカへの奨学金の倍率は約100倍でした。大変な競争でしたが、運よくスカラシップをいただくことができました。留学先は、アメリカなら州立大学に限定されていたのですが、当時数学の全大学ランキングで一位だったカリフォルニア大学バークレー校に絞って出願し、合格することができました。

カリフォルニア大学バークレー校では、どのような留学生活を送られましたか?

学んだ数学のレベルは早稲田も高いとは思いますが、バークレーの数学科では、教えている教授もその世界で有名な方が多く、学生もMIT(マサチューセッツ 工科大学)やハーバード大学、プリンストン大学出身の人や、インドから来た大変優秀な人が集まってしのぎを削っており、「なるほど、グローバルな競争とは こういうことなんだ」と肌で感じました。また、現地で受けた「問題解決」という授業では、Putnam Exam(全北米の大学生による数学コンテストで、例年平均点が1点という難易度の高さで知られる)で史上初の2年連続1位になったバークレー出身の方が 先生でした。数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞の受賞に近いと言われていた人です。実際にフィールズ賞を受賞した先生もいらっしゃいましたし、そう いった天才のような教授の方々から直に教えてもらう機会が身近にあるのは嬉しかったですね。私もバークレー代表として参加しましたが、早稲田での勉強が非 常に役に立ったと思います。

卒業後の就職先になぜ商社を選ばれたのですか?

将来の職業を考えるきっかけになったのは、ロサンゼルスでNECの採用面接を受けた時でした。「どんな仕事をしたいか」と聞かれたので、「研究室に籠っているよりは海外でいろいろな人に出会い、関わりながら仕事をしたい」と伝えると、「それなら、商社じゃないんですか?」ということになり…。そのころからグローバルな企業に就職したいと考えていたのだと思います。
6月にバークレーを卒業してすぐ日本に帰ってきたのですが、その時期にはすでに日本の就職活動の時期が終わってしまっていました。念のため就職担当の先生のところを訪ね、今からでも受けられるところがないか聞くと、「ない。もう終わっている」と(笑)。それでは、と自分で探すことにして、キャンパス近くの公衆電話から自分の知っている会社に電話を掛けました。恥ずかしながらその時頭に思い浮かんだのは、三菱商事、三井物産、住友商事、日立、日本IBMの5社だけだったんですけどね(笑)。電話をかけた時も、その後履歴書を送った時も、連絡がすぐにあったのは三菱商事でしたし、面接で他社の選考も進んでいることを伝えると「大丈夫、うちが先に決めるから」と言ってくれました。面接を受けるにあたっては、アメリカで学んだことや、大学でも大学院でも勉強していた数学という科目が企業で働くのにどのように活かせるか考えました。一つは、集中と切り替えを学んだということ。特にアメリカの大学院はもの凄く勉強に厳しいので、朝から根を詰めて勉強した後、パッと30分くらいジョギングなどの運動をして、また勉強に戻るというやり方を会得しました。それから数学で身につけた論理的思考です。数学は論理的に物事を考えるためのトレーニングであり、商社にせよ、どこでも役に立つ能力だと認識していました。
三菱商事の選考は担当者の言葉通り、あっという間に進みました。内定をもらって、ミシガン大学ビジネススクールから帰国したもう1人の同期と8月1日に入社し、日本の大学生活に戻る間もなく働き始めました。後から聞いた話では、その前の年から三菱商事は海外の大学もしくは大学院を卒業した人を最大10人、またはその年の採用人数の10パーセントを上限に採用するという方針で、その年採用された2人のうちの1人となることができました。

三菱商事での勤務時代に、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)へ進まれたのはなぜですか?

 

あることがきっかけで経営を学ぶ必要性を感じたからです。私は積極的に海外で働きたいと思っていて、幸運にも三菱商事でグローバルな仕事に携わることができました。20年間食料を扱う間、マレーシアで5年間駐在し、さらに最後の4年間はアメリカのメーカーの社長をしました。そのメーカーは非常に業績が厳しく、社員をリストラせざるを得なかったのですが、いざリストラを実行すると、自分が解雇した副社長に「年齢差別による不当な解雇だ」ということで訴えられてしまったんです。その時は非常に苦労しました。私は年齢ではなく本人のパフォーマンスをもとに判断したので、法廷で闘う気でいて、社員も同感で私がもし法廷に立つのなら証人になると言ってくれました。しかし、「三菱」という名前は世界的に有名ですから、当然会社は悪評を嫌います。「組織の三菱」と言われるような会社において、現地事業投資先の社長が訴えられるということは前代未聞で、伝統ある会社の名を汚すという大変なことでした。ですから本社には「訴訟をするために君を送り出したんじゃない」と反対され、最終的には調停によって解決し、裁判にはなりませんでした。その渦中で私はアメリカの法廷で初めて勝つ日本人になるんだというある種高揚した気持ちでいましたが、それは今思うと蛮勇でした。セミナーなどで指導する立場になってからは、そういったケースで重要な意思決定をする場合は、人事部や弁護士など専門の人に相談するべきだと言っています。
私は渡米前に日本でチーム・リーダーを経験していましたが、アメリカではその経験があまり役に立たなかった。そのことから、三菱商事はグローバルに事業を行っているといっても、将来海外で経営者の立場に立つための社員教育が充分にできていないのではないかと思いました。そこで、取締役会で日本に出張した際、昔私を採用してくれた人事担当者が当時人事部長をしておられました(ちなみに、この方は早稲田の政経の出身で、その後副社長にまでなられました)ので、「専門性の高いトレーダーやマネージャーは育てているけれど、経営者としての教育はできていないのではないかと自分が経営者をやってみて痛切に感じた。だから経営者育成のための人材開発プログラムを作らせてほしい」と直談判したんです。それが認められて、アメリカから帰国後、もとの食料部門には戻らず人材開発に関わり、経営者になるための教育をするプログラムを導入しました。この研修制度を整えた後は、国際人材開発室長という、三菱商事に勤める日本人以外の社員を世界中から集めて研修をしたり、キャリアをサポートしたりする責任者の役割をしていました。その流れでHBSへ進んだのです。

                 ハーバード・ビジネス・スクールにて

タフなだけではやっていけない。強さと優しさの両方が必要
そういった商社でのご経験から、グローバル人材に必要な要件は何だとお考えになりますか?

商社の仕事は面白い分、タフです。海外との取引が多いと、時差を乗り越えて仕事をすることはざらだし、日本では想定不可能なことが起きても対応しなくては いけない。ですので、メンタル・フィジカル両方タフである必要があります。アメリカのメーカー時代に年齢差別で訴えられた時、最初は受けて立っても勝てる と思っていました。しかし、相手側や本社との折衝は気苦労が絶えず、日曜日に家にいてもこのことが頭から離れない状態が続きました。こういった局面でダメ になる人もいるけれど、乗り越えられる人もいる。そういう修羅場を乗り切るタフな精神力は絶対に必要ですね。
ただ、タフなだけではやっていくことはできません。フィリップ・マーロウ(レイモンド・チャンドラー作のハード・ボイルド小説に出てくる探偵)のセリフ に、「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格はない」とあるように、強さと優しさの両方が必要なんです。これは小説の中の話ですが、 私の尊敬する上司から「『ウォームハート・クールヘッド』、つまりビジネスの意思決定はクールにやりなさい。しかしウォームハートを忘れてはいけないよ」 と言われたことがあり、まさにそうだと思いました。こういった心境にはなかなかいたらないものです。本当に大変な思いをして苦労をしないと、弱い立場にあ る人や解雇される人の気持ちがわからないですよね。修羅場を経験したからこそ培えたんだと思います。

修羅場の経験も必要ですが、経営についてきちんと系統的に学ぶことも大事だと思います。アメリカの後インドで担当したユニリーバとの合弁会社は、冷凍倉庫事業を開始したばかりで厳しい状況にあり、いかに再建するかが課題でした。資金が尽きるギリギリのところで、将来性はあるということで三菱商事が増資を引き受けたんです。そして初めての日本からの出向者として現地に向かい、インド人の社長の元でナンバー2のエキュゼキュティブディレクターを務め、再建に携わりました。新規事業で「新しいインフラをインドに作るんだ」という素晴らしいビジョンでしたが、なかなか大変でした。ただ、以前と違ったのは経営の知識があったことです。アメリカのメーカーの時は何をどうしたらいいのかよく分かりませんでしたが、インドに行く前にHBSで経営を学んでいたので、この時は何をすべきかが分かりました。

               インド合併会社出向時_顧客企業の幹部と

研究・教育職に進まれることを決断された理由は何ですか?

バークレーの大学院生時代にティーチング・アシスタントとして授業で教えた際、「教える」ことについて考え始めましたね。そこで、生まれてから教えてもら う立場しかほとんど経験したことがなかったと気づき、教える立場に初めてなり、学ぶことに対する考えが180度変わりました。また、生徒全員が英語ネイ ティブの中、1人だけ日本人である自分に果たして教えることができるのかと不安に感じ、当時教わっていた著名なアメリカ人の数学科の教授に相談に行ったん ですね。すると「チャンスを生かすことが最善の選択だ、ぜひチャレンジするべきだ」とアドバイスをしてくれたんです。その時、人生の節目節目でアドバイス をしてくれる存在を持っているかいないかはとても重要だと感じました。そして、自分もその立場になりたいと思うようになりました。学ぶ側も、自分が「どう いう人生を送りたいのか」ということを積極的に周りに見せていく。そうすることで重要なシーンでアドバイスをしてくれる存在に、巡り合えると思うんですよ ね。
さらに60歳を過ぎて、自分だけが成功するステージは終わったと思ったんです。次は、周囲にGiveする段階にきていると。早稲田に戻ってきて、自分の何 十年も前の姿である早大生に、自分の経験したことで役に立つことやサポートできることがあればぜひやろうと思いました。そうやって次の世代のリーダーを育 てる。これに勝る幸せはないんじゃないかと思います。自分の関わった人からどれだけ優秀な人、世の中を良くしてくれる人、リーダーになるような人が現れる か、それが今最大のやりがいです。
学生には海外に出ることを勧めていて、留学を希望すれば推薦状を書くなどをして応援しています。また、グローバルに活躍するためには一生勉強し続けること が必要だと考えているので、そのプラットフォームとして「早稲田グローバルリーダーズクラブ(Waseda Global Leaders Club)」というものを運営しています。早稲田を卒業したら終わりではなく、会社で働く中で問題に直面した場合に相談しに来られるような場としても考え ていますし、グローバルリーダーを目指す人に生涯を通じた学びの機会を提供しています。早稲田の学生に限らず、企業で実施しているセミナーの受講者も含 め、彼らが成長するのを見守っていこうという想いからです。

人のマネではなく、日本や世界を代表するようなオリジナルのリーダーシップを実行すること
藤井先生の考える、次世代のリーダーに必要な要素はどのようなものでしょうか?

自分が勤める中で経験したことや、国内外で活躍している方、HBSで会った方々へのインタビューをケースにして将来活躍できる人材になるための要件をモデル化していますので、それを私の見解として紹介したいと思います。まず、受け身ではなく、自分から積極的に難しい問題にチャレンジして解決を図っていく「問題発見・解決能力」を持つこと。次に、コミュニケーション能力。プレゼンテーションでもネゴシエーションでも、日本語でも他言語でも、伝える力がないと、相手の人に自分が何を考えているかが伝わりません。日本はよくハイ・コンテクスト文化と言われ、お互いが共通して持っている概念が多いので、多くを言わなくても伝わるだろうと思って話してしまいがちです。しかし、世の中には全部話さないと伝わらない人もいるんです。ノルウェーやスウェーデン、フィンランド、デンマークなどスカンジナビアの国々などは一般的にロー・コンテクスト文化だと言われます。そういった例は、なにもスカンジナビア諸国に限らず日本でも十分あり得ますから、国内外関係なくどこで活躍するにしても必要だと言えます。最後は、企業に勤め、リーダーとして活躍したいのならマネジメントの基礎が必要です。MBAはマーケティング・ファイナンス・ストラテジー・アカウンティングといった要素で構成されていて、そのままつまり経営の基礎ですので、勉強すべきでしょう。ただ、こうした経営科目は実践していく中で徐々に身に付くものですから、勉強だけではあまり意味はないでしょう。

                 アメリカEラーニング会社の幹部たちと

グローバルな舞台に立ちたいという人の場合、この他に必要な要件はありますか?

グローバルリーダーという言葉がよくあるけれど、世界に60億以上の人がいるのに、何をもってグローバルリーダーと称するのかよくわからないというのが正 直なところです。ただ、私の考えるモデルの仮説としては、第一にカルチュアル・インテリジェンス(CQ=異文化適応力)、第二にオーセンティック・リー ダーシップ(ホンモノのリーダーシップ)が必要です。オーセンティック・リーダーシップとは、その人オリジナルの、日本や世界を代表するようなリーダー シップということです。ジャック・ウェルチやスティーブ・ジョブスのようなカリスマになりたいという気持ちを持つことは悪くないと思うけれど、ただ人のマ ネをするだけでは、ホンモノではないんです。では、ホンモノのリーダーシップを身に付けるにはどうしたらいいかというと、修羅場経験ではないかと思いま す。人生でおきたさまざまな出来事という事実そのものではなくて、そうした出来事についてついてどう考えるかが重要なんです。修羅場経験の中で、あれは何 が起きたのか、何が自分に足りなかったのか、何がそこから学べるのかを考えること。そこから得られることが、最終的に自分らしい、ホンモノのリーダーシッ プを身に付ける道につながるのではないかと考えています。第三に、専門分野の力です。ほかの人にはない自分の専門分野がないと世の中では活躍できないで す。単に資格を取るといった話ではなく、他の人には負けない何かを持つことです。以上の要件があればグローバルリーダーになれるのではないか、というのが 今の仮説です。

世界で活躍したいと思っている早大生にメッセージをお願いします。

早稲田の学生というのは他の大学生にはない良さがあると思うんです。昔はよく、「野人」とか「バンカラ」とか言われてましたけど(笑)、そういった、汗に まみれても何か最後まできちんとやり遂げるというような早稲田力、行動力、情熱などはもはやDNAだと思うんです。ぜひそれらを生かしてほしい。人が嫌が ることでも苦労をいとわない、というような気持ちを持ってほしいですね。また、早稲田にはいろいろな人材がいて、多様性・ダイナミックさにあふれていま す。今の学生には、それを体現する生き方をしてほしい、多少大変なことがあってもへこたれないでほしい、そう思いますね。
私を支えた言葉に、「恒に夢を持ち 志を捨てず 難きにつく」という高柳健次郎さん(日本ビクター元副社長・技術最高顧問)の言葉があります。やはり夢と志を持ち、易しい道と困難な道があるときには困難な方を選ぶと考えて頑張ってほしいですね。
また、早稲田も素晴らしいところですが、若い感性がみずみずしいうちに様々な世界を見て、体験として積み重ねてほしいのです。同質や均質という中ではなく 完璧に開かれた環境で、完全にオープンな競争をするという意味でも留学を勧めます。今はどんな会社に入っても少なからずグローバルな部分があり、避けては 通れません。英語を身に付けたり、留学したりして損することは何もありませんから、ぜひ積極的にチャレンジしてほしいですね。

編集後記

「グローバル人材」といっても一概に定義できる言葉はないけれど、藤井先生はインタビューや実体験からケースやモデルを作ることで、体系立てて「グ ローバル人材」を構成する要素を考えていらっしゃいます。その内容は、実社会で得た知識や経験と、経営学といった学問的な知見を交えたもので、とても実践 的かつ客観的な内容で、とても勉強になり、目からウロコの思いでした。
また、その知識を次世代を担う学生や社会人に共有することでご自身の経験を役立てていらっしゃり、私も、将来自分の成果を周囲に還元していけるような職業人になれたらいいな、と思いました。

R. T.(商学部4年)

”make”でなく”create”、無から何かを創り出すことに挑戦してほしい

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2013年4月30日公開)

通訳・翻訳家
戸田 奈津子

東京都出身。津田塾大学英文科卒業後、生命保険会社の秘書を経て、フリーで通訳・翻訳の仕事を始める。清水俊二氏に師事し、初の字幕翻訳作品は『野 生の少年』。その後、来日時に通訳についたフランシス・F・コッポラ監督の推薦で『地獄の黙示録』(1980年日本公開)を担当。日本 の映画字幕翻訳者の 第一人者として認められ、1992年、第1回淀川長治賞受賞。現在までに合計約1500本の字幕翻訳を手がけ、第一線で活躍。

何かを願ったら叶うなんてそんな甘っちょろい考え方ではだめですよ
どのような学生時代をごされましたか?

わがままですから、嫌いなことはしない主義。部活もやったことないし、スポーツは大の苦手。今と違って娯楽のない時代でしたから、戦後の焼け野原の中の唯一の楽しみであった映画にとことんはまりました。友達に講義の代返を頼んでまで観に行くほど、映画に夢中でした。
就職活動など競争の厳しい今の学生さんと違って、当時の私は将来のことなどあまり考えないノー天気な学生でした。大学の卒業が迫り、イヤでも先を考えねばならなくなって初めて「字幕翻訳の道」を考えました。自分の好きなものの二本柱である映画と英語の両方に携われるし、映画もタダで観られそうという都合のよい理由からです。在学中は、バレエ団が来日した時に単発で通訳のアルバイトをした程度で、会話力は見事にゼロでした。

その後、翻訳のお仕事が入り始めるまでに20年の下積み時代があったと伺っています。どのようなお気持ちで過ごされていましたか?

「もしかしたら、明日チャンスが訪れるかも」という、縋る思いで日々暮らしていました。もちろん不安でしたよ。外から見たら完全に今で言う「フリーター」で、私が字幕翻訳を志しているなんて分からない。下積み時代の20年間、キャリアの「分かれ目」が何度かありました。他の仕事のオファーを頂いたということです。しかし、翻訳の道と並べてみると、どうしても字幕翻訳を選んでしまうわけです。プライベートの場で、例えば結婚という問題になっても、結局こちらを選びました。選択を迫られたとき、その都度非常に悩み、考えて結論を出したわけですが、だからと言って20年間、悲壮な思いで暗い顔をしていたわけではありません。自分が選んだ道だからという落としどころがあったからです。結局はすべて自分の気持ちの持ち方と覚悟です。

諦めずに20年間という年月をかけた末、チャンスを掴まれた戸田さんですが、「夢は願えば叶う」と思われますか?

何かを願ったら叶うなんてそんな甘っちょろい考え方ではだめですよ。そんなに生易しいものではない。「夢を抱けば叶う」という言い方は誤解を招くと思いま す。何かに賭けるということは、私の場合、未来への確証が「無」のものに賭けたわけですから、叶うか、叶わないかの確率は50%ずつだと考えなければなり ません。叶わなかった場合をちゃんと見ておくことは不可欠。良い方だけを考えて最終的に叶わなかったら怖いでしょう? 両方考えて、それでもやりたかった ら挑戦すればいい。私も叶わない確率を考えたし、誰も保証してくれない中、いくら頑張っても自分の描いた通りにならない場合もあるという不安と戦いつつ、 50%のチャンスに賭けたのです。もちろんただ願っていたわけではなく、夢を掴むために自分で考え行動し、努力しました。だめだったら自分の責任、誰も責 められないことを覚悟の上で。たまたま私の場合は20年経って叶いましたけれど、それはケース・バイ・ケース。一生叶わないという可能性も厳然としてあっ たわけです。

人間、過剰の自信を持ったら最後。自信がないから先に行けるんです
今のお仕事につながるまでにどの時点で英語力には自信がつきましたか?

今でも自信なんてないですよ。自信はある意味、危険だと思っています。自信がないから先に行ける。自信を持ってしまったら達成したと思ってモチベーションがなくなるでしょう。そこで成長は止まってしまうんです。

 

大きなお仕事を任された際、今でも不安やプレッシャーはつきまといますか?

常にベストは尽くしますが、100%完ぺきと思ったことはありません。この世の中、どんなことでも、必ず誰かどこかで非難する人がいます。あらゆる人を満足させることは不可能なのです。ですから周囲を気にしていたら絶対前には進めない。ベストを尽くして100%までいかなかったとすれば、それは自分の力不足。でも少なくともベストを尽くしていれば、その自覚が救いになると思います。

どういう瞬間にこのお仕事をやっていてよかったと思われますか?

やっぱり映画が好きですから、映画を観た人が「面白かった、楽しい映画だった」って言って下さるのが一番嬉しいです。映画を楽しんでもらうためにやってい るのですから。字幕がいいなんて感想ではなく、ただ「ああ、楽しい映画だった。良い映画だった」と言って下されば字幕の役は果たせているわけです。

偽らないで定価どおりに見せること。自分を全てオープンにするとうまく付き合えるんです
戸田さんの学生時代に比べて今は英語に触れる機会が多くなっていますが、日本人は外国に対してオープンに、いわゆる「グローバル化」したと思われますか?

 

英語に遭遇する機会だけで言ったら比べ物にならないほど増えたと思います。私の子供時代は戦争中で、中学一年で初めてアルファベットを見たのよ。今 は町中にアルファベットやカタカナ語が氾濫しているし、幼稚園から英語を勉強するって時代でしょう? その割に、日本人はなぜ今もってこんなに英語が苦手 なんでしょうねえ。戦争が終わった70年前、「これからは英語が必要だ」と、あの時点から皆が言っていたのです。ところが70年経った今もそれは変わって いない。日本人の悲願の一つでしょうね。テクノロジーの進歩、世の中の急成長と比較してみると、日本人の英語力だけは、ほとんど横一直線です。

外国人から話しかけられると逃げて行く光景を今もよく見かけますから。一つには、島国であるがために外国人と接触する機会が少なく、外国語を苦手と するDNAが血の中に入っているのかもしれません。島国であったがために、日本人の精神、和を重んじる気風とか、独特のメンタリティーが生まれて、ユニー クな環境がつくられた。だからすばらしい文化が育ったわけですが、その反面、国境線一本で隣国と接する大陸の人々と違って、外国人と接する時に「構えて」 しまう。それが語学学習の妨げになっていることも原因の一つかもしれません。

では、付き合い下手な日本人でも実践できる、メンタリティーや文化の異なる外国人と接するときのコツのようなものはありますか?

人対人の付き合いは国対国のそれとは違う。国家間であれば色んな利害損益が絡み、関係が思ってもいない方向へゆがむこともありますが、人対人には共通の原理が働くと思います。つまり、自分がボールを投げたら、相手もそのボールを同じように返してくれるということです。

私は相手が誰であろうと、素のままで付き合うように心がけています。映画のスーパースターとの仕事が来ると、「あの人は気難しいらしい」とか「扱い にくい人らしい」とか、いろいろな噂を耳に吹き込まれます。最初のころはそれを信じて緊張したものですが、実際は99%がガセネタなのです。たとえばロ バート・デニーロは映画では強烈なキャラクターを演じますが、ご本人はまるで違う。優しくて物静かな、付き合いやすい方です。お会いして、自分の目で見 て、初めてどういう方かを判断できる。そういう例に何度も遭遇して、人と接する時は自分の目で判断し、また相手によって自分を変えてはいけないということ を学びました。「私はこういう人間です。これ以上でも、これ以下でもない」と自分をオープンに見せる。自分を大きく見せようとしたり、反対に卑下するよう な付き合い方はもっての他です。気後れする必要もありません。

日本はかつて西欧に比べて技術が遅れている時代もあったけれど、そのかわり誇るべきすばらしい文化が育った。その自負をふまえて、素のままの自分を 見せれば、相手もオープンに対応してくれる。そこから真の意味での良い付き合いが始まるのです。少なくとも私の場合はそうでした。

勢いのある近隣諸国に負けずに日本がもっとグローバル化していくにはどのようなことが必要だと思われますか? 学生にアドバイスをお願いします。

もちろん語学力も必要だけれど、それと同じくらい日本のことをもっと勉強しなければなりません。外に出て行けば行くほど自分が日本のことを知らないかを切実に感じるはずです。私は外国で暮らしたことはありませんが、たまに海外に出たり、向こうの方と話していると、「自分が日本を知らない」ということを痛切に感じて、恥ずかしく思います。「もっと勉強しておけばよかった」と。今の若い方々は海外に進出し、語学力もつけている。それはすばらしいことだけど語学力が全てではありません。自分の国を知り、人間としての教養を身につけてから、自分が専門とする道を目指すことが重要です。

日本語という切り口で見ると、以前はごく当たり前に使われていた表現を翻訳で使うと「若い観客が読めない。理解できない。だからもっと平易な表現に変えてくれ」と映画会社からクレームがつきます。情けないことです。平易な日本語にレベルを下げるから、美しい日本語はどんどん淘汰されて、貧しい言語になってしまう。これを食い止めるには、良い日本語の本を読んで頂きたい。「正しい文章の書き方」などのいわゆるHow toものではありません。古典でも現代ものでも、自分が抵抗なく受け入れられる良い文章を読んでいく。もちろん一朝一夕で日本語の能力や教養が身につくわけではありません。時間をかけて、じわじわと身に沁み込ませるものなのです。自分の国のことを知らない人間が海外で評価されることは絶対にありません。
今の時代、コンピューターだって良質の翻訳をしてくれます。でもコンピューターに教養があるでしょうか? コンピューターにモーツァルトの音楽が作れるでしょうか? シェイクスピアの作品は? インプットされたデータを操作・処理する驚くべきキカイではありますが、自ら思考する能力は持ちません。人間の脳だけが無から有を創りだすことができるのです。今や全世界、何十億の人間が平等に「共有」しているコンピュータを使いこなすだけでは意味がありません。他人が思いつかないことを思いつき、できないことをして初めて突出した存在になれるのです。

無から何かを創り出す。それが次の時代を担う方々に私が期待することです。”make”でなく”create”する。早稲田で学び、将来、日本のリーダーシップを担ってゆく皆さん方の挑戦を見守りたいと思います。

編集後記

20年もの長い下積み時代を経てやっと憧れの職業に就かれた戸田さん。「ありのまま」の姿から紡ぎ出されるお言葉は、恐ろしいほど現実的だった。夢 を持つ学生には勇気を、夢のない者には希望をくれるようなあたたかい励ましのお言葉を期待した私の問いかけに、「『夢を抱けば叶う』なんてあなた、そんな 甘っちょろい考え方じゃダメよ」とバッサリ。一瞬泣きそうになった。小一時間、辛辣な分析やため息混じりの批評が続いたが、それでも、救いの言葉やヒント はちゃんと残してくださった。
プロとしてやっていける席数が限られた字幕翻訳という世界で、稀少なチャンスを一つひとつものにし、今のポジションを確立された戸田さんだからこそ紡ぎだ される言葉にはずっしりとした重みと説得力がある。最後は握手でお別れだったが、これからの日本の未来を背負っていけとバシンと背中を押して頂けたような 気がした。

田邉 祐果(国際教養学部4年)

スキル(英語力)・教養・センス・自立心・人間力を備えた新世代リーダーへ

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2013年3月22日公開)

株式会社東洋経済新報社
デジタルメディア局 東洋経済オンライン編集長
佐々木 紀彦

慶應義塾大学総合政策学部卒業後、東洋経済新報社で自動車、IT業界などを担当。2007年9月より休職し、スタフォード大学大学院で修士号取得 (国際政治経済専攻)。09年7月より復職し、『週刊東洋経済』編集部に所属。『30歳 の逆襲』、『非ネイティブの英語術』、『世界VS中国』、『ストー  リーで戦略を作ろう』『グローバルエリートを育成せよ』などの特集を担当。『米国製エリートは本当にすごいのか?』(東洋経済新報社)を2011年に出版 (発行部数5万部)。

日米の学生の差を生んでいるのは読書量
アメリカの大学院に留学されたご経験から、アメリカの学生の能力についてどう思われますか?

アメリカの学生の質の高さは大きく分けて3つの要因があると思います。まずは、読書量です。アメリカの大学生の能力は、圧倒的な読書量と圧倒的なレポート量、そして圧倒的なプレゼン量に支えられています。特に私が通っていたスタンフォード大学の学部生は、授業において大量のリーディングアサインメントを強いられるため、4年間に約500冊も本を読むことになります。そして、読書によって大量にインプットされた情報や知識を、レポートやプレゼンを通してアウトプットし、他の学生や教授との議論を戦わせることで、自らの知的筋力を養っていくわけです。端的に言うと、日米の学生の差を生んでいるのは読書量だと思います。アメリカの調査機関「NOPワールド」の調査によれば、一週間当たりの活字媒体読書時間の世界平均が6.5時間なのに対し、日本は4.1時間で、世界で2番目に読書量が少ないことが分かりました。やはり若い皆さんは学生のうちに、できるだけ多くの本を読むべきですね。2つめは集団知です。福沢諭吉は日本人と西洋人の集団行動について次のように述べています。
「日本人は団体行動をする段になると、個人個人に備わった知性に似合わぬ愚を演ずる」
「西洋人は集団をなすと、一人ひとりに不似合いな名説を唱え、不似合いな成功を収める」
アメリカをはじめ西洋は、個人主義が強いイメージがありますが、それは幻想です。実際スタンフォードの授業の評価でも、グループワークやプロジェクトへの貢献度などが重点的に評価されています。アメリカの学生はプレゼンや議論を大量にこなすため、集団で物事を考えたり、それを実行に移す能力が、日本人に比べて長けていると思います。
そして3つめは、教養・リベラルアーツです。アメリカの大学には、学生が豊かな教養を養えるような環境が整っています。教養と専門のイメージは、木に例えることができます。専門分野ばかり磨くことは、殺風景な景色の中に、枯れた木を一本立たせるようなものです。これを続けても決して森へと成長させることはできません。なぜなら、専門ばかり磨く人には「教養」という豊かな土壌がないからです。しかし、教養という豊かな土壌がある人は、その土壌の上に豊かな専門という木を何本も立たせることができ、これらはやがて森へと成長していきます。このように教養がなければ、専門分野を大成させることは難しいのです。自分の専門と一見関係ないような知識を教養・リベラルアーツとして自分の中に取り込むことにより、思わぬアイデアが生まれてくるものです。例えばアップルの創業者スティーブ・ジョブスは「テクノロジーとリベラルアーツの交差点に立ってきたから、アップルの製品が生まれた」という言葉を残しています。彼は大学を中退後、大学でたまたま聴講生としてカリグラフィーの授業をとり、それがアップルの美しいフォントを作るきっかけになったと言っています。アップルの製品には、ジョブズがたまたま学んだカリグラフィーの要素がふんだんに盛り込まれているのです。
日本の大学は、入学する際に自分の専攻を決めなければなりませんが、これは良くないシステムだと思います。大学生に関しては、昨日の今日で自分のやりたいことが変わるのは日常茶飯事なので、長い時間をかけて、自分が本当に学びたいことを見極められるようなシステムにすべきです。そして、その間に自分の教養をたくさん磨いて、その後の専門分野の研究に生かせるようにすべきです。

アメリカでは勝負時は遅く来る
日本のアメリカのエリートの差は、どうして生まれるのでしょうか?

日本はうさぎ、アメリカは亀であると感じます。あくまで個人的な感覚であり、科学的根拠はないのですが、大学に入学するまでは、日本のエリートの方が、ア メリカのエリートよりも知的能力は上回っていると思います。しかし大学入学後はそれが逆転し、アメリカのエリートに追い越されてしまいます。厳しい受験戦 争を勝ち抜いた日本のエリートは、大学生になると、その反動で少しペースダウンしてしまいがちです。高校生の時にあまり遊べなかったかわりに、大学生活で はたくさん遊んでしまおうという感覚です。しかし、アメリカの学生は逆で、それまでの遅れを取り戻すかのように、大学生になって勉学に励みます。この違い が、日本と米国のエリートの差を生んでいる気がします。

                                         中国にスタディートリップに行った際の一枚

 

アメリカのエリートの就職状況について教えてください。

アメリカでは今や金融ブームが終焉したと言われています。しかし、リーマンショック以前までは、大学や大学院卒業後の進路としては金融の分野が最も人気で したし、現在でも多くの学生が金融の分野に就職しています。ところが、金融に進んだ学生がみな、金融の仕事に就きたいと希望しているわけではありません。 事実、ハーバード生を対象としたアンケートでは、将来の理想の職業として、金融は最も低い支持しか得られませんでした。それではなぜ、多くの学生が金融の道へ進むのでしょうか。それは、金融の仕事で稼いだお金で、奨学金を返済したり、そのお金を軍資金として、自らの理想の職業にステップアップするためで す。先ほどのハーバード生に対するアンケートでは、学生の理想の進路としてアートや教育、医療の分野が高い支持を受けています。このような学生にとって は、大学や大学院を卒業したあとの就職選びが勝負時なのではなく、卒業後に一旦就いた職業でお金を貯め、自分が理想とする次の職業へとステップアップする 時が、本当の勝負時なのです。それに対して日本では、勝負時が22歳や24歳という若い年齢できてしまいます。卒業後の進路決定が勝負時とみられ、一旦つ いた職業を踏み台にして次の職業へ、という感覚が薄い気がします。私は、アメリカのように勝負時が遅く来るというのは非常にいいことだと思います。またアメリカの就活では、コネや紹介によって就職先が決まることが非常に多いです。コネというとあまり良いイメージはありませんが、コネ作りはアメリカにおいては、学生時代にやっておくべき非常に重要なことです。

恋愛、そして失恋をして成長しよう
グローバルに活躍するための条件は何だと思われますか。

グローバルという言葉は、長らく人口に膾炙されて、かなり手垢のついたものとなっています。なので、ここでは、将来グローバルな舞台で活躍できるような人材を、新世代リーダーとよびたいと思います。
新世代リーダーとして必要な条件は、スキル(英語力)、教養、センス、自立心、人間力の5つです。
まず1つ目のスキルに関してですが、英語力を例に挙げると、TOEFLのスコアの国別ランキングで日本はアジア30カ国中27位で、韓国や中国を大きく下回っているんです。この差はパナソニックとサムスンの新人採用の英語力の基準に如実に表れています。パナソニックでは、海外勤務に必要なTOEICの点数が650点なのに対し、サムスンでは新人足切りの点数が900点なんですよ。
2つ目の教養ですが、これは、正しい読書、アート・スポーツ、深い経験の3つの要素によって精錬していくべきですね。
3つ目の美意識ですが、チームラボ代表取締役である猪子俊之さんは「すべてのビジネスはアートになる」と言っています。私は、知識や論理的思考だけではエリートの間では差がつかないと思います。差がつくのは、知識や論理よりも、勘やセンスだと思います。だから自分のセンスや美意識を磨くのはとても重要なことです。こればっかりは勉強で身につけるのは難しいです。映画、絵画、茶道、旅行、などさまざまな活動を通じて、多様な経験を積んでおくことが大切です。
4つめの自立心についてですが、これを養うにはまず親離れをすべきです。特に一人暮らしの経験がすごく重要だと思います。しかし、慶応や早稲田の現状を見ていると、完全に関東のローカル大学化しています。自宅から通う学生が多く、一人暮らしをしている学生が少ないように感じます。そして、親離れと同時に、日本離れも意識して行っていくべきです。海外でたくさん経験を積み、日本でなくても生きていけるような経験値や忍耐力を身につけるのです。この親離れと日本離れが両立して、初めて自立心を身につけることができると思います。
最後の人間力についてです。以前私は、男は、貧困、戦争、恋愛の3つを多く経験して成熟した大人になれると聞いたことがあります。学生のうちは、勉学ばかりに励むのではなく、たくさん恋愛すべきだと思います。その過程で失恋などを経験することで、人間は成長することができると思います。
作家の小林秀雄が残した言葉「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた」からも分かるように、学生のうちは、勉学ばかりに励むのではなく、たくさん恋愛をすべきだと思います。その過程で、失恋などを経験することで、人間は成長することができると思います。

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古典は教養を養う際の最良の教材
正しい読書というお話がありましたが、教養を身に着けるのに読むと良いジャンルはありますか。

アメリカの学生が寮で古典について議論を行うのは、豊かな教養・リベラルアーツを獲得することに主眼が置かれているからです。教養を養う際の最良の教材と 言える古典や、歴史ものをたくさん読むのが良いと思います。古典では特にアリストテレスやルソー、カントなどがお勧めですね。古典、歴史を読むメリット は、①本質をつかめる ②総合的に考えられる ③効率が良い の3点です。今、日本では年間に約79,000冊の新刊が発売されていますが、その中にはハズレのものも多く、新刊を読むのは効率的だとは思いません。 10冊中9冊はハズレと言ってもよいほどです。私も学生時代に、多くのビジネス書を読み漁りましたが、どれも役に立ちませんでした。出版社で働く私が言う のもなんですが(笑)。その点古典は出版されてから現代に至るまで、長きにわたりその価値が評価されてきたのですから、ハズレはほとんどありません。アメ リカの学生寮には、寮生が古典を読み、それらについて議論をする場が設けられているほどです。古典を選ぶ際は、光文社文庫の古典新訳文庫をお勧めします。 古典の翻訳といえば岩波文庫が有名ですが、岩波は好きではありません。わざと分かりにくくしているとしか思えません。その点光文社の古典新訳文庫はとても 読みやすいです。

英語力を上げるためにはどうすればよいでしょうか。

まずは留学です。留学といっても、留学する期間や留学先の教育機関などによって多種多様なかたちがありますが、私は、高校時代で1年留学、大学で交換留 学、大学院で留学、20代、30代で海外赴任。この4つを一つでも多く経験すべきだと思います。特に私は、高校時代に1年留学することをおすすめします。 高校時代に留学を経験した学生は日本人の行動様式をしっかりと身につけていながら海外のことも良く知っているので非常にバランスがいいように感じます。こ のような学生が増えることを望みます。
あとは、TOEFL, TOEIC, BULATS(ブラッツ)などの各種試験を受けて、英語力を磨くことが大事です。しかし、必ずライティングとスピーキングが導入されている試験を受けるべ きです。TOEICも今は、TOEIC SWというスピーキングとライティングの試験が導入された形式があるので、普通のTOEICは無視して、TOEFLやTOEIC SWの勉強に力を入れるべきですね。また、多少金銭的に余裕がある人には、通訳学校に通うことをお勧めします。日本人が英語を喋れるようになるためには、 日本語から英語、英語から日本語への変換スピードを究極まであげることに重点を置いた方が効率的です。

最後に、米国製エリートは本当にすごいのでしょうか?

結論から言うと、すごい点もあれば、見かけ倒しな点もあり、我々は見習うべき点と、そうでない点をしっかり区別する必要があります。
アメリカの学生と日本の学生を比べた際に感じるのは、上澄みの優秀な学生の間には、両国にそれほど差がないということです。日本の優秀な学生が、アメリカ の優秀な学生と競っても、十分戦っていけるはずです。しかし、全学生の平均的な力を比べると、日本の学生はアメリカの学生に比べて大きく劣るように感じま す。日本の大学は学生の平均力の底上げに努めるべきですね。

編集後記

スタンフォード大学大学院への留学のご経験をもとにした佐々木さんのお話は、将来アメリカの大学に留学を考えている私にとって非常に刺激的でした。 教養を養うために古典を読むことや、TOEFLなどの英語の勉強方法など、今すぐに実行できるアドバイスがたくさんあり、1年生のうちにこのようなお話が 聞けて本当に良かったです。また佐々木さんの「修行としての留学」という言葉は非常に印象に残りました。実際に留学してみて、アメリカをはじめ、世界各国 のエリートから刺激を受けることはとても貴重な経験だと思います。佐々木さんが「早稲田の良いところは、留学制度の豊富さ」とおっしゃっていたように、自 分も早稲田にいることの利点を活かして、留学をはじめ様々な経験を積んでいきたいと思いました。

森 雄志(政治経済学部1年)

チャンスが巡ってきたときに8割がたReadyでいること。そのための準備と勉強を

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2013年2月25日公開)

G&SGlobal Advisors Inc.
代表取締役社長
橘 フクシマ 咲江

清泉女子大学文学部英文科卒業。ハーバード大学大学院教育学修士

課程、スタンフォード大学大学院経営修士課程修了。べイン&カンパニーを経て、 1991年から2010年までコーン・フェリー・インターナショナルで人財コンサルタント。その間、日本支社の社長、会長を務め、1995年から2007 年ま で米国本社取締役を兼務。2010年G&S Global Advisors  Inc.を設立し代表取締役社長に就任。人財のグローバル競 争力強化、企業のガバナンスに関するコンサルティングをう。大手企業各社の社外取締役を歴 任。2011年より経済同友会副代表幹事。人財・キャリア開発に関する執筆・講演多数。

今のキャリアはタイミングの良さと人との出会いがあったから

学生時代はどんなキャリアを思い描いていましたか?

実はあまりキャリア志向はなく、1,2年働いたら、結婚して家庭をもつであろうと思っていました。清泉女子大学に入学したのには、高校生の頃の先生がやんちゃだった私を見て、「清泉なら良いお嬢さんになれますよ」と薦めてくださったことも影響しました。
清泉には学生によって運営される自治会「学生会」があり、そこの外渉担当役員の選挙に立候補し、選ばれました。男女共学であれば男性がこうした役割をしたと思いますが、女子大は必然的に女性がリーダーシップを取る環境でした。その点は今の自分に少なからず影響を与えていると思います。

ターニングポイントはいつですか?

大学3年生で、日米学生会議に参加したときですね。日米学生会議とは、1934年から続いている歴史のある会議で、アメリカの学生約20人対日本の学生約20人で、政治・経済等のテーマ について議論するものです。毎年アメリカと日本で交互に開催されていて、私は1970年の夏にアメリカに行きました。生のアメリカを見て、自己表現の仕方の違いを体感するなどたくさんの刺激を受け、価値観が変化しました。特に当時はヒッピーの盛んなカウンターカルチャー(*)の時代でしたから、実に自由な 雰囲気でした。
また、そこで今の夫である、グレン・S・フクシマに出会いました。夫は当時スタンフォードの学部学生。卒業とほぼ同時に23歳で結婚しました。夫は、「女性の能力を活用しないのは勿体ないので、仕事をしないことは考えられない、主婦などありえない」というような、女性が働くことに積極的な考えを持っていま した。またいずれ学者になると言って、アメリカの大学院に行こうとしていたこともあり、経済的にも私が稼ぐ必要がありました。しかし、英語もできない、仕事の経験もない。そんな人間にアメリカで何ができるだろうと考えました。
そこで偶然、当時働いていた会社に来られたある大学の先生から「日本語を教えたらどうですか」とアドバイスをいただき、ICU(国際基督教大学)の大学院 で日本語教育を学びました。そのプログラムの修了時に指導教官の先生に挨拶に伺い、夫がハーバード大学に行くことをご報告すると、「ハーバード大学で教え ている教え子から今朝連絡があって、ハーバードで教えられる日本語の先生を紹介して欲しいということだけど、あなた行く?」と推薦していただけたのです。
*既存の文化や体制を否定し、それに敵対する文化。1960年代のアメリカで、最も盛り上がりをみせた。

すごいタイミングのよさですね。

そうなんです。そうして9月からハーバードで教え始めました。講師を始めたばかりの頃は、夫いわく、「世の中に私以上に不幸な人はいない」という顔をして歩いていたらしいです。自信がなかったし、楽しいと感じる余裕もなかった。
1年目が終了した時に学生が高い評価をしてくれたので、初めて少し自信が出て、教えることが楽しくなってきました。数年すると、これが天職だと思うようになりました。夫は学者になる予定で、大学教授の終身雇用の資格であるテニュアが取れるまでは、アメリカの各地の大学を州立大学も含め回ることが予測されましたので、私も州立大学で日本語講師として教えられるようにアメリカの大学の修士を取ろうと大学院に入りました。その間は、ハーバード大学が提供していた夜のエクステンション・コースで教えました。その学生が、一年目が終了した段階で継続して受講したいと大学に申請してくれて、初級、中級と同じ学生を教えるコースが毎年更新され、大学院卒業後、教壇に戻ってからも継続し、合計で4年ほど教えました。

「やってみなきゃわからないよ」― いつも背中を押してくれた

なぜコンサルティングの世界に入ったのですか?

当時は日本の経済成長が注目され、アメリカでも日本企業を脅威として意識し始めていました。そこで「ビジネスを全然知らないけど日本に詳しい人」と、「日 本を全然知らないけれどビジネスには詳しいMBAのメインストリームのコンサルタント」を一緒に働かせ、お互いに学び合うようにしようというユニークなコ ンサルティング会社にヘッドハンティングされたのがきっかけです。6年も教えた日本語教育が天職だと思っていましたので、今までの投資を全て捨てることを 決断するのにはだいぶ勇気が要りました。そのときに夫の「やってみなければわからないじゃない。咲江ならできるよ」という言葉に後押しされました。日本語 教育の経験は全て捨てたつもりでしたが、意外にも、日本語教育で培った「説明する」ことはコンサルティングにも生かすことができ、無駄な経験はないと痛感 しました。
コンサルティングは学ぶことも多く、大変楽しかったのですが、ビジネスの経験がないので全体像がつかめない。どうやったら一番短期間でビジネスのフレーム ワークを学べるか考えた時にMBAしかないと思ったんです。その時ちょうど夫がフルブライト奨学金をもらって東大で研究することになったので、一緒に日本 に戻ることになったのですが、英語を忘れないように帰国してすぐにサイマルの同時通訳のコースで勉強を続けました。 2年後にアメリカに戻り、スタンフォードでMBAを取得しました。

 

その後勤められたコーン・フェリーではどうして入社4年で取締役になられたのですか?

ベイン・アンド・カンパニーを経て、1991年にコーン・フェリーに入社しました。2年半でパートナーに昇格したのですが、ある日突然、コーン・フェリー の創業者でありCEOでもあるリチャード・フェリーから電話があって、「君の名前が(取締役を決める候補の)トップ10に入っている。選ばれたら引き受け てくれる?」と言われたんです。まだ入って4年だったので会社のことは何も分からない。当然「できません」と言いました。が、リチャードはまたここで「君 は自分が思っている以上にreadyだと思うよ」と言ってくれて。全然readyじゃなかったんですけどね。夫に相談したら、夫も「やったらいいじゃな い。日本人でアメリカ企業の本社の取締役はなかなかできないと思うから、すごく貴重な経験じゃないの。やってみなきゃわからないよ」と背中を押してくれま した。そして95年に選挙で選ばれて就任し、12年間務めました。当時はアジアで一番の売り上げを挙げていたことと、あまり政治的なことを考えずにパート ナーミーティング等で発言していたことで選ばれたのだと思いますが、自分自身が引き受けようと決心したのは、業績を重視する会社だったことと、リチャードのような良いメンターに恵まれたことが大きかったと思います。当時はできるという自信がなかったので、本当によく働きました。

大学入学前のビジョンと結婚後の実際の生活にギャップがありますが、戸惑いは感じなかったのですか?

あまり感じませんでした。結婚したのが、23歳で大学卒業したばかりで若かったというのもあり、夫とは二人で一緒に成長してきたという感じでしたね。夫は アメリカ人ですが、日系3世で母親は日本人、日常生活では日本語を使っていました。一度私が「うそー!」と言うのを、夫が“liar”と言われたと思って ケンカになったことはありましたが(笑)
夫に対してとても感謝しているのは、いつも「新しいことにチャレンジしなさい」と言って励ましてくれたことです。それまでは当時のふつうの日本人女性と同 様に、自分が前に出ないで夫のキャリアを支えるという価値観を持っていましたが、「やってみなきゃわからないじゃない」と言って、常に背中を押してくれ、 私が取締役になったときは自分のことのように喜んでくれました。また、夫は自分の仕事で作ったネットワークを私にも紹介して、様々な会合に一緒に行こうと 誘ってくれました。そうして私をミセス・フクシマではなく、咲江・フクシマとしてみていただけるようにポジショニングしてくれたんです。だから、戸惑いを 感じることはあまりなかったです。本当に感謝しています。

いつも、8割がた“Ready”でいること

グローバル人材とはなんですか?

私は漢字で書く時、「人材」ではなく、「人財」の方を使っています。 10年以上前にその言葉を使い始めた当初は、みな「何それ?」といった感じでしたが、だいぶ浸透してきたことをうれしく思います。どのようなグローバル人財が今求められているのかというと、大きく3つ挙げられると思います。
1つ目は、「グローバルに国境を越えて活躍できる」ということ。体が国境を越えるということではなく、日本は島国だからこそ、常にグローバルを意識したマインド・セットを持って、ビジネスをする必要があるという意味です。
2つ目は、「特定の組織に属さない汎用性のある高いプロフェッショナルスキルをもった起業家的人財である」ということ。日本は起業家のようにインフラがないところから仕事を始めた経験のある人が少ないんですね。特定の組織のなかで仕事ができても、その人のスキルが特定の組織インフラに属したものであり、そこから移ると活躍できないケースが時々ありました。包丁1本でどこの料理屋さんでも通用する板前屋さんのような、汎用性の高いプロフェッショナルスキルが必要です。
3つ目は、「変革のための創造的問題解決を持った人財」であるということ。誰にも頼れないところで想定外の問題が起きたときに、自分の英知、経験をもとに一から考えて創造的に問題を解決することが、非常に重要な要件になっています。
こうした要件を全部満たす人は、日本では少ないということを日本以外の国のクライアントに理解してもらうのは大変でした。「1億も人口がいるのに、こういう条件を満たす人がいないんですか?」とよく言われました。

いま特に日本人に必要な資質は何ですか?

一つだけ挙げるとすれば「多様性に対応する能力」、つまりは、様々な価値観を持った人や、想定外の出来事に対応し、問題解決ができる力のことです。そのた めには、「危機管理能力」、「コミュニケーション能力」、「創造的問題解決能力」が不可欠です。コミュニケーション能力と言っても、傾聴力だけでなく「説得力」が重要です。日本では聞くことの重要性は強調されますが、積極的に相手に分かってもらい、説得するという努力をあまりしません。たとえば、ビジネス を成功させたにもかかわらず、「いやぁ、部下がやってくれまして…」と謙虚に話す人が多いのですが、具体的にどのように指示を出し、ビジネスを進めたのか ということをきちんと説明しなければ、相手にはわかってもらえません。自分がどう「二つのジリツ(自立・自律)」して対応したのかということを、きちんと 説明できることが重要ですね。
グローバル人財に求められる「性格」としては、「ダイナミック且つエネルギッシュでカリスマ性があり、創造的で柔軟で敏捷性があり、前向きで積極的にリス クを取り、なおかつインテグリティが高い」、といったことが挙げられますが、外に出るエネルギッシュでカリスマ性があるダイナミズムはむしろ欧米的と言っ てもよいと思います。性格はかなり国民性がありますので、ダイナミズムも内に秘めた日本的ダイナミズムもあります。日本人はまじめで礼儀正しく忍耐力があ り、慎重でリスクを回避するといった性格があります。インテグリティの高さはとても高く評価されていますが、これらのすべて要件を満たすのは難しいかもし れません。

どうすればフクシマさんのようにチャンスを掴むことができるのでしょうか?

何かチャンスがきたときに常に自分が8割がたReadyでいることだと思います。Readyの状態にするには、まず準備、勉強をたくさんすることですね。 たとえば、ミーティングに行く前には必ず議論する書類に目を通すようにする。会社の数字については押さえておく。「それって何ですか?」と聞かなくて済む ようにすることで短期間でもついていけるようになります。シミュレーションもよく勧めています。たとえば自分が会社の上司だと想定し、部下に何をして欲し いかを考えます。ちょっとデータ入力作業を頼まれたときに、そのデータを上司がどのように使うのかを考えるだけで、ちょっとした工夫もできるし間違いも少 なくなります。そのためには「作業」でなく、その作業の目的を把握した「仕事」をすることが大切です。そして、いろんなチャンスが巡ってくることを想定し ながら仕事をすることが大事なのです。

大学生、特に自分のやりたいことがなにかわからない学生に対してメッセージをお願いします。

まず、焦らない方がいいですよ。何に向いているかはやってみなければわからないし、天職は天から降ってこないです。人が与えてくれるものではないので、自 分でやってみること、そして一定期間は続けることで分かってきます。そして、一生懸命やることが大事です。私自身、サーチをやっているときは24時間体制 で働き、サーチが天職だと思いましたし、日本語を教えているときも同様な働き方で、教育が天職だと思っていました。
「多様性対応能力」を身に付けるには、大学生のうちに、ぜひ外に出て、多様な文化や人や考え方に触れて頂きたいと思います。たとえば、日本国内でも留学生 と多様な接点をもつことで経験できます。アメリカ人であるとか、中国人であるとかいうことは最初は意識するかもしれませんが、性別や国籍はその人の一個性 であるとして考えると、お付き合いがしやすいですね。
大学を卒業すると、みなさん仕事を始めると思いますが、初めから自分が考えたような楽しさのある仕事はないものだと思っていてください。初めの3,4年は、ワークライフバランス等を考えず、たくさん働いて、自分の可能性、能力を広げておくのがよいと思います。私自身も、土日通して働いていましたし、みんなそうだったので特に何も思いませんでした。ゆっくりした仕事に慣れた人だとキャパが広がらず、スピー ド感に差がついてしまうものです。だから、若いうちはあまり自分を甘やかさないようにしたほうが、後の仕事が楽になり、ワークライフバランスが必要な頃には、短い時間で同じ成果が出せるようになると思います。また、会社は学校とは違い給料をもらって貢献する場ですから、「会社が育ててくれる」という考えは 捨て、自己研鑽は自分ですべきです。そのために会社のプログラムは積極的に利用することは可能です。もちろんその間は、その会社に貢献しないといけません よ。会社が機会を与えてくれることには感謝し、自分から育とうという姿勢でいましょう。常に「会社がしてくれない」と言っているより、前向きに自己研鑽を する人の方が成長は早いです。

                     ご講演中のフクシマさん

編集後記

やわらかな雰囲気をもちつつ、エネルギッシュなフクシマさん。ずっとお話ししていたいと感じる魅力的な方でした。お話を伺って驚いたのは、大学入学 時には今のような生活は考えていなかったということ。フクシマさんの場合、きっかけはアメリカでの日米学生会議でした。私自身昨年イギリスに留学し、キャ リアについての考え方が変化したことも考えると、海外に行くことは、重要なきっかけづくりのひとつなのだと思います。しかし、本当にグローバルに活躍でき る人になるにはもちろんそれだけでは足らない。地道な勉強の積み重ねと、今自分に何が必要か考えそれを達成していく実行力が大切だと感じました。自分の専 門を極めつついろんなことに挑戦し、チャンスを掴みとっていきたいです。

白井 優美(先進理工学部3年)

議論に謙譲の美徳は不要、知識を蓄え主張せよ

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2013年3月14日公開)

ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)
前事務局長
松浦 晃一郎

山口県出身。東京大学法学部在学中に外交官試験に合格し、外務省に入省。経済協力局長、北米局長、外務審議官、駐フランス大使などを経て、1999 年、日本人そしてアジア人初のユネスコ事務局長に就任。アメリカのユネスコ復帰、無形文化遺産保護条約、文化多様性条約などの実績を収める。現在、日仏会 館理事長、株式会社パソナグループ社外監査役等。

【2013年3月14日公開】
自らの国際経験から見出した「グローバル人材」になるための10か条
40年間の外交官キャリアに続き、99年からは10年間ユネスコ事務局長と、常にグローバルな第一線でご活躍されてきた松浦様ですが、ご自身のキャリアを振り返り、国際的に活躍するためにはどのようなことが必要だとお考えになりますか。

外務省勤務の40年のうち、半分は本省の経済局や経済協力局、北米局などに勤務し、残りの半分はアフリカ諸国やアメリカ、フランス、中国などの在外公館で 勤務しました。その後、選挙で当選し国際社会全体のことを考えてユネスコという国際機関の事務局長として働きました。こうした半世紀に渡る自らの国際経験 で見出した、世界に出て自己実現するための「グローバル人材の心得10か条」を挙げたいです。
まず1つめに、大学でただ知識を吸収するのではなく、その知識を生かして議論することです。私は、グローバル人材育成において最も重要な役割を担うのは大学教育だと考えています。国際社会に生きるには、他者と議論したり自己主張したりしなければならない時が頻繁にあります。2つめに、日本の歴史や文化をしっかり勉強することです。海外では1人ひとりの日本人が日本の代表として見られ、日本についてなんでも知っていることが期待されるからです。サブカルチャーも人気ですが、伝統的な日本の文化も大事にしてもらいたいですね。
3つめに、常日頃から外国に関心を持ち、異文化に対し理解を深めることです。ただ、まず自国の文化を理解して、それから異文化を理解してほしいです。
4つめに、国内問題について国際的な視野で分析し、それを日本史上のみならず世界史上の位置づけでも考えることです。そして1つめでも述べましたが、自分の考えを持ち、他者と議論し、切磋琢磨していくことです。
5つめに、国際言語となっている英語で外国人とコミュニケーションや議論ができることです。
6つめに、自分がこれから主として活躍の場にしたいと考えている国や地域の言語を習得することです。国際機関で働くには2カ国語以上話せることが求められます。
7つめに、自分の専門分野をしっかり持つことです。
8つめに、専門分野を持ちつつも、色々な問題に対応できる大局観を身につける必要があり、またその上でしっかり決断を下す力があることです。
9つめに、グローバル人材がそれぞれの組織でポストが上になり、部下を持つようになったときに、彼らを牽引する指導力を持つことです。私が事務局長を務めたユネスコ事務局は150か国前後の人が働いていて、皆文化背景が違いました。そのリーダーとして、異文化に対してしっかり理解し、異文化で育った人を引っ張っていく指導力が必要でしたね。
そして最後に、心身ともに健康であることです。日常からバランスの良い食事を摂り、適当な運動をすることが望ましいでしょう。
以上の10つのうち、特に1から5が大切だと思います。

 

「議論する場として大学が重要な役割を果たす」とのことですが、松浦様は大学時代をどのように過ごされましたか?

東京大学入学後は、水泳部の活動に熱心に取り組んでいました。なかでも、1年生の時の駒場祭(秋)で、水泳部の男子全員で水着姿でかっぱ踊りをし、冷たい プールに飛び込むというパフォーマンスをしたのは忘れられません。勉学の方は、2年生の後半から一般教養に加えて法律の勉強が始まりました。そして2年生 の12月末から外交官の試験勉強を始め、3年生の時に受験しました。まさか一発で合格すると思っていませんでしたが、受験者約700名のうち合格者17名 に入ることができました。
入省後、研修員として、アメリカのペンシルベニア州にあるハヴァフォード大学に2年間留学しました。ハヴァフォード大学は小規模な大学で、私が専攻した経 済を学ぶ学生はたった15人しかいませんでした。この2年間は、授業の中でも外でもアメリカ人の学生とあらゆるテーマについて議論したものです。それが私 にとって、しっかり自己主張することを体で学ぶ最初の機会であったと言えます。この経験は、後の外務省でもユネスコでも大変役に立ちました。
その点、日本の大学教育は弱いなと感じるのです。日本の大学は知識を吸収することに重点を置いていて、その知識を踏まえて自分の考えを持って議論する機会が少ないので、もっと議論をする機会を与える場であってほしいです。議論する際は、日本特有の謙譲の美徳は不要ですね。

ユネスコでの忘れられない経験

1999年11月から10年間、ユネスコという世界193カ国が参加する国際機関のトップを務められました。この間最も印象的だったのはどのようなことでしょうか。

アメリカがユネスコに復帰したことです。ユネスコ事務局長に就任した際、私は5、6年でユネスコの普遍性を取り戻すという中期ビジョンを打ち立てました。ユネスコが世界的な機関として動くには、世界に大きな影響を与えるアメリカとシンガポールの復帰が必要だったのです。
アメリカは1984年12月に、当時のレーガン共和党政権がユネスコの運営に不満を持ち、脱退を決めました。ユネスコが教育、文化、科学およびコミュニ ケーションの分野におけるグローバルな問題について議論し、その結果を実施していくにあたって、世界第一のアメリカがメンバーに入っていないということは 大きな欠陥でした。
まず、アメリカが不満を持ち脱退に至った直接の理由を検証しました。
考えられた理由として、第一は、ユネスコが冷戦中に東運営側に与しがちだったことです。その結果アメリカから「ユネスコは政治化している」と批判されました。しかし東西冷戦の終了に伴い、この関係でユネスコが批判されることはなくなりました。
第二の理由は、1980年代にユネスコが新情報秩序を打ち出したことです。これは世界の世論が欧米のマスコミに支配されがちであることから開発途上国のマスコミを強化しようというものでしたが、アメリカからすれば、新情報秩序は報道の自由に反しているように思われました。
第三の理由は、ユネスコのミス・マネジメントです。不合理な事務局本部の体制、財政規律の欠如、在外事務所の乱立については、アメリカからだけでなく他のメンバー国からも批判されていました。
こうした検証の結果、私はユネスコの政治化の回避、報道の自由の確立、マネジメント改革に重点を置くことにしました。
また、当時のブッシュ大統領やパウエル国務長官にユネスコ改革に関する手紙を送り、外務省時代に知り合ったアメリカ人の友人を通じて、アメリカのユネスコ復帰を応援してもらうように働きかけを行ないました。
そして2003年にライス大統領補佐官がイニシアティブをとって、パウエル国務長官と2人の名前で「アメリカはユネスコに復帰すべき」という意見書をブッ シュ大統領に提出し、大統領がそれを受け入れたという情報が入りました。実際、ブッシュ大統領の決定により、アメリカのユネスコ復帰が決まったのです。復 帰するタイミングは2003年10月1日でしたが、ユネスコ総会が9月29日から始まることになっていたため、そのユネスコ総会初日にアメリカのユネスコ 復帰の式典を行いました。この時が一番嬉しかったです。

                 ユネスコ事務局長執務室にて

 

大学生に向けてメッセージをお願いします。

現代の日本の国民生活は豊かで便利ですが、日本全体の経済は良い状況にあるとは言えません。そして、この状況はいずれ個々の生活にも影響するでしょう。ま た、今後も国際化が進み、経済的にも文化的にも、さらに他国との結びつきが深くなっていくと思います。日本企業内でも国際的な部署があったり外国人社員が いたりします。もはや日本国内だけを考えて仕事したり生活したりできる時代ではなくなりつつあり、日本は国際的に孤立して存立・繁栄し得ないのです。こう して日本が国際社会に緊密に組み入れられていく中で、私たちは世界的な視野を持って国際社会で生きていかなければならないのですが、最近の日本の若者は内 向き志向であると聞きます。私はこの状況を心配しています。ぜひ、一人ひとりが国際的な感覚を養い、個々の生活、そして日本全体を良くするために、頑張っ てもらいたいです。

編集後記

国際舞台の第一線で活躍された「国際人」の先駆者であり、まさに「グローバル人材」である松浦様。お会いする前は、勢いや強さにあふれている方かと 想像していましたが、実際は穏やかな雰囲気で優しく語りかけてくださいました。50年間走り続けてこられたご経験や、日本の若者に対する期待や激励のお言 葉から、内側に秘めたる情熱を感じました。ご経験に裏打ちされた言葉をかみしめ、私もがんばっていきたいと思います。

高橋 亜友子(文学部4年)

必要だと思ったことを淡々と続けること。そうすることで世界が変わり、自分にとっても正しい人生の意思決定につながる

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2013年1月17日公開)

NPO法人Living in Peace理事長
投資ファンド勤務
慎 泰俊

1981年東京生まれ。モルガン・スタンレー・キャピタルを経て、現在はプライベート・エクイティファンドにて投資プロフェショナルとして働く。その傍ら、「貧困の終焉」に触発され、NPO法人Living in Peaceを設立し、理事長を務める。朝鮮大学校政治経済学部法律学科卒(人権)、早稲田大学修士課程修了(ファイナンス)。

ドラマチックなことではなく、自分が必要だと思ったら淡々とそれを続ける。続けると習慣になって苦しいことではなくなってくる
どのような学生生活を送っていましたか。また大学卒業後、海外のビジネススクールを目指し、将来はプライベート・エクイティ(PE)(*1)の仕事をしようと思った経緯を教えてください。

学生時代は勉強ばかりしていました。本、特に古典をずっと読んでいましたね。お金がなかったので、早稲田通りにある古本屋で岩波文庫の古典を片っ端から買いました。法学部だったのですが、法律の勉強自体にはさほどのめり込むことができず、関心のあった人権問題について必死に勉強していました。他にやったことと言えば、人権系の国際NGOでのインターンや、大学から始めて今も続けているドラムの演奏などですね。卒業後はとりあえず海外に行きたいと思っていて、また、若いうちなら色々な出会いやたくさんの刺激をもらえると思ったので、ビジネススクール(MBA)に行こうと考えていました。将来的に今のようなプライベート・エクイティ(PE)の仕事をするために、MBAは一番の王道だったということもあります。なぜPEで働きたいと思ったかというと、実際に勤めている人の話を聞いて、面白くやりがいのある仕事だと感じたからです。会社をよくすることは従業員の幸せや税収増加につながる立派な社会貢献になると思っていたので、日本の企業を強くしたいと考えたのです。実際に大学院への入学と同時に投資銀行での仕事を始め、主にミドルオフィス(*2) の仕事で財務モデルを作る業務等に携わっていたのですが、自分が思い描いていた通り楽しく働けました。
*1:投資ファンドの一形態。未公開株式または事業に対する投資を行い、経営支援等を行ってその企業や事業の価値を高め、株式公開や第三者に売却することを目的としたファンド等
*2:市場や取引相手との間で契約をまとめるフロントオフィスのサポート・チェックをする部門

その後、慎さんは金融のプロとしての道を歩みながらNPOの活動もパートタイムで始められるのですが、その時の経緯を教えて下さい。

金融を通じて社会を良くしたいと考えていたのですが、社会貢献をしようと思っていても、本業だけでは目の前の仕事にいっぱいいっぱいになり、そのような気持ちが薄くなりがちでした。それで、自分の当初の志を忘れないために活動を始めました。このような理由で社会貢献活動を始める人は少なくありません。僕の周りだけかもしれませんが、外資系企業で忙しく働いている人の中でボランティアをやっている人の割合はけっこう高いと思いますね。最初は勉強会がいいと思って、開発経済研究会という勉強会を始めました。月に1回、規模は10人くらいで始め、少ない時は3,4人でやっていました。人は減ったりしたけど、続けていると変わるもので、Living in Peace(NPO法人)の設立につながりました。

なぜ、今もパートタイムでの活動を続けているのですか?

理由は二つあって、一つ目は、このような働き方が特別なものではなく、この先当たり前になると思っているからです。将来的には、多くの人がパートタイムの活動を持つようになると思います。昔の日本みたいに終身雇用が当然だった時代には、本業というものが明確にありましたが、今後は終身雇用自体がなくなると思います。20、30年もすれば副業というコンセプトは希薄になり、フリーランスでの活動がもっと増えるでしょう。そんな過渡期の時代にパートタイムで働ける組織のモデルを作れたら面白いし、社会的にとても意味があるかなと。もう一つは、インターネットが発達した今、働く人が本業以外に少しでも社会のために時間を使えば、すごく大きな価値を生めるのではないかということ。これまでは技術的に、沢山の人が少しずつ働くことで大きな価値を生むことは難しかったのですが、例えば今では、一人のフルタイムスタッフが1日8時間の労働で生み出せる成果を、8人のパートタイムスタッフが1日1時間働くことで生み出せると思います。
また、今やっているパートタイムの仕事は異業種の方と一緒に働くことが多く、各々の強みを理解し、それを適宜利用して仕事を進めることで成果を出せるので、そういった経験を通じて成長することもできます。本業との兼ね合いでも意味があると思いますよ。このような活動は、そこから生まれる付加価値という点からも、起業しフルタイムで社会貢献するのとは別もので、たとえ今後起業する機会があったとしても、パートタイムでの活動は続けようと思っています。例えば、児童支援はビジネスとして成り立たせるには大変で、起業は難しいと思うのですが、支援活動自体は続けたいと思っています。それはパートタイムだからこそできることです。

金融の仕事でお忙しい中、どうやってNPOの活動へのモチベーションを保つのですか?

何かを続けるのにモチベーションはそんなに重要ではありません。大事なのは習慣にすること、責任感を持つことです。給料をもらっている仕事が優先なので、それが忙しいとNPOの活動はたしかに大変ですが、1度事業を始めたら責任があって、簡単にやめられるものではなくなります。特に僕は始めた人間なので、途中でやめるわけにはいかないんです。やると決めたらやる。3か月何かを続ければそれは日常になります。その3ヶ月を乗り切るのにはモチベーションは役に立つでしょう。別にドラマチックなことではなくて、必要だと思ったら淡々とそれを続ける。続けると習慣になって苦しいことではなくなるんです。人間の習慣の力は偉大です。続けていると、周りからは大変そうに見えるけど、自分にとっては大変でなくなる。僕にとって「続ける」とはそういう意味を持つことなんです。脳科学で人間のモチベーションは枯渇するということが言われています。特別意志が強くて、努力を続けられる人がいるわけではなく、そのように見える人は意志の力が必要でないように習慣化しているのです。それが日常なので何とも思っていない。例えば僕も苦手なこと、普段やっていないことをやっていたら辛くて投げ出したくなる。要は慣れるまで頑張れるかどうかなんです。意志の力は有限で、人間の起きている時間のようなもの。それを有効活用することが大切で、新しい習慣を作るために、意志の力を使うべきです。そして、新しい習慣を作り終わったら、また違うことを始める。きれいごとを言うのは簡単だけど、日々の生活にどれだけ組み込んでいるのかが重要なんです。僕は、特に才能に恵まれたわけではないのですが、何かをコツコツやることは得意で、そのコツコツした努力のおかげでここまで活動することができています。

最初に海外向けのマイクロファイナンスに関する活動を始められたとのことですが、なぜカンボジアで行うことになったのですか?その後、なぜ日本の貧困問題に対しても活動を始められたのですか?

カンボジアの農村部の朝

カンボジアにした理由は3つあります。まず、アジアで近いということ。GDP per capita(一人当たりの国内総生産)が低いということ。マイクロファイナンスの規制がよくできているということです。実際に現地に行く前に、カンボジアで投資を行うと決めて計画を立て、その後現地での活動に移しました。人間はどんな環境でも生きていけるので、カンボジアの人々も与えられた環境で真面目に暮らしていています。みんなドラマチックな状況を想像するけど、そのようなことはありません。ただ、日本と違って、真面目にやっていても、思うようにいかなかった時に、生活が一気に苦しくなるという現状があって、それは変えた方が良いなと思いました。かわいそうとかそういう感情はあまりありません。みんな対等な人間なのでそう思うこと自体が逆に失礼だと思っていました。現地に赴くと分かりますが、物質的に豊かでないという点では大変ですが、日々の生活という点では楽しいことはたくさんあるんです。一方、日本では飢え死にはしないけど、貧困の種類がすごくジメジメして陰鬱で、精神的に大変です。これらの大変さを比較することは難しく、どちらがより大変とは言い切れません。僕にとっては、日本の貧困問題と途上国の貧困問題、どちらも取り組む価値があると思ったので、どちらも取り組むことにしました。

ときどきビジョンも考えるけど、まずは行動する。自分の目の前にやることをただひたすら一生懸命やることで自分の天職に気付く
慎さんは、中学時代にあったいじめが嫌で、高校に入ってそれを同級生みんなで解決したそうですね。周りのことをより良くすることに生きがいを感じると前から思っていたのですか?

中学生とか高校生の時は全く思っていませんでした。ただ単に自分がいじめられていたから、いじめをなくしたいと思ったんです。怖いけど、言ったら後戻りできなくて続けるしかなかった。そしてやってみたら、それが喜ばしいことだと分かりました。頭で考えた自分がやりたいこと=天職というのは間違っている場合も多く、逆に成り行きでやってみて、それが天職だと気づく場合は正しいことが多いと思います。僕が当時やったことはそういうこと。正義感ではなくて、自分の中学時代の嫌な経験を変えたいと思っただけなんです。経験で得たことの方がやりがいにつながることが多く、それは本などで勉強して覚えるのは無理で、何かをやってみて初めて感じられるもの。だから学生にとってアクションする、行動を起こすことは非常に重要だと思います。そういう行動の積み重ねが人のいろんな能力を積みあげてくれます。それがより正しい人生、意思決定につながるんです。「ソマティック・マーカー仮説」というものがあって、ざっくり言うと年をとった人の直観は正しいということなんですが、それは、年齢を重ねたからではなく、いい経験をしてきたから得られるものなんです。それを意識的に作るのはとても大切だと思います。

何かアクションを起こす時には最終的な目標を設定されていますか?

その時々でやらなければいけないことは変わっていくので目標を固定するのはよくないと思っています。変化を予測することは難しいので、その時々の状況にすぐに対応することが大切。大切なのは未来のビジョンではなく、もうちょっと自然で、シャカリキではないことなんですよ。黙々とやっていて、ときどきビジョンも考えるけど、まずは行動する。自分の目の前にあるやるべきことをただひたすら一生懸命やる。意志とかエゴではなく、もうちょっと自然な形で足を進めることが、僕が続けていることで、それはすごく静かな世界なんですよ。こういう考えはマラソンで学びました。ウルトラマラソンで200kmという長距離を走った時、時間が経っていくと自分の意志だけでない何かで動かされていると感じました。これは言葉では通じないと思いますが、足が折れそうなのに、残りまだ50km走らなければならないというような経験によってわかるんです。最近はありがたいことに脳科学がそれを認めていて、体と脳はつながっていると分かっています。性格やものの見方、考え方ってなかなか勉強では身につかないですよね。つまり、身体知なんです。体を動かしてそれを覚えるのは大切です。
どんなに苦しい状況でも、コツコツ進める。これは本当に大切で、大きな変化に通じると思っています。例えば、今の活動でもメンバーが抜けるなんていうことはコントロールできないです。ただ、続けることでよくなるはずと信じています。続けると何かが変わる。続けるとなぜ変わるのか分からないですけど、僕は高校生のときにいじめを解決した時も含め、自分で周りのことを変えるときにこの考え方をテーマとしています。続けているとみんなが見てくれるんだと思います。良いことを言うのは簡単ですが、続けているかどうかを周りはすごく見ていて、それが嘘くさいと信じてくれない。行動を見るのが一番確実だということですかね。

在日朝鮮人として日本で生活することで価値観に影響はありましたか?

ホームステイ先の家族の皆さんと共に

僕の場合、必ずしもネガティブな方向には作用していないですけど、影響はあると思います。現在はインターネットで在日韓国人・朝鮮人と検索すると、百万の悪口があります。もう大人だから良いけれど、子どもが見てしまうと大変だと思いますね。今の世の中は情報が簡単に得られる時代なので、それらから子どもたちを守る術がありません。具体的に嫌なことと言えば、海外旅行は不便ですね。在日コリアンの大半の人は韓国籍を持つのですが、いまだに僕は「朝鮮籍」という国籍で、法律的に無国籍のまま。これは、日本の戦後に出てきた不思議な状態が続いているからです。この点について僕は実際に不便を感じているわけですが、本当は、人は生まれた時点で不便を感じたり不当な差別を受けたりするべきではないと思っています。また、不便を感じているからといって自分の信条を変えてしまうことは間違っている気がするんです。例えば、ゲイに対する差別が残っている日本で自分がゲイだとします。科学が発達し、ゲイでなくなる手術ができるとしても果たしてそれが正しいのかって思うんです。生きにくいから、周りがどうだからで自分が生まれ持った何かを意図的に失うことが正しいのか?それは正しくないと思うんです。人間というだけで不可侵な権利があるはず。それが300年くらいの歴史がある人権の考え方です。当然渡航の自由も含まれるはずだけれど、実際僕は海外に行くと、警察に捕まって大変な思いをします。このような考えは、在日コリアンだからというより、もっと普遍的な人権的な考え方に根付くものですが、在日コリアンとしての経験で多くのことを考える機会がありました。それはすごくありがたいことです。考えなければならないということは、神経が研ぎ澄まされるということ。いやなことがあったら、やり返しても仕方がなく、人生をかけてメッセージを伝えることが大事だと思っています。自分のきちんとした行為を通じて、反論ではないけど、こういう人もいると伝えたいと思いますね。

世界で活躍するために英語と教養は欠かせない。それができないと結局は能力が枯渇する。人間は生きている限り学び続けるべき

最近の大学生にどのような印象を持たれていますか?

最近の学生は格差が激しいですね。極端にできる人とできない人がいる。ソーシャルメディアが発達したことで、実際はそれほどでもないのにそう見えているだけかもしれないけれど、それが第一の印象です。もう一つの印象は、いわゆる意識が高いですね。不景気で、頑張らなければ就職できないという状況下で、意識が高くならざるをえないということもあるんでしょう。僕が学生の頃は、景気は悪いけど、勉強せずに、適当に飲んで遊んで就職活動だけ一生懸命やろうって感じだった。今の学生は危機感があるんだと思います。このままじゃやばいと。僕らの頃よりはるかに意識が高いと思いますね。日本で初めてのクラウドファンディングの事業を創った米良はるかさんなんかはすごいと思いますね。ただ、日本の学生は海外の学生と比較しても優秀だけど、言語能力が低いのは残念だと思います。海外の優秀な学生としゃべっていると英語はすごいけど、内容はあれ?ってこともあります。日本の学生がもしネイティブ並みに英語を喋れていたら、議論で負けないと思う。これは、学生に限らず日本人全般にいえることで、日本の優秀な経営者の方はとても素晴らしいのですが、言葉がだめだからイケてないということになっている。すごくもったいない。語学も習慣化すれば誰だって覚えられるんです。

これからはどのような人材が求められると思いますか?

これから必要な人材はT字型人材と言われています。一つ深い場所があり、あとは広い。僕は金融のプロとしての仕事に一番時間を割いていますが、特にこれからの時代は、他の分野の人とコラボすることが増えていくと思うので、他のことも分かっていないと仕事がしづらくなると考えています。特にPEはそういう仕事です。一つの案件で色々な人と仕事します。僕たちの会社から3人、弁護士5人、会計士10人、税理士5人、投資銀行の人10人くらいが集まって仕事をするので、その人たちのやっていることがわかっていないとダメです。もちろん完璧である必要はなく、彼らの仕事ができなくても良いのですが、何をやっているのかがわからないと仕事になりません。だから広くいろいろなことを勉強することは大切。こういう風に仕事ができないと結局能力は枯渇します。ひとつのことだけではやっていけない。

それでは、世界で活躍するのに何が大切とお考えですか?

世界的に活躍するためには英語と教養は欠かせないです。英語はできないと大変で、これはほぼ義務としてやるべき。TOEFL iBTで常に100点くらい取れないとダメだと思います。そうじゃないと仕事にならない。これから日本の企業も海外でやらないとダメなのは明らかで、英語ができないのはあり得ないと思う。また、様々な分野で最先端の情報は英語で流れています。僕は最近雑誌を読むときもほとんど英語のものしか読みません。質の高さが違うと思います。理由は簡単で、購読者数が多いからです。最新の情報をもとに最新の情報が出てくるので、英語とその他言語の間の情報差は雪だるま式に差が広がると思います。人類の歴史でさまざまな言葉があり、英語が最後の公用語といわれています。また、例えば将来公用語が英語から中国語になるとしても、その時にはもう機械翻訳ができていると思います。英語さえあれば、他の言語に行けるんです。将来の人はいちいち言葉を習う必要はないでしょうね。これから2,30年で自動翻訳は大きく発展すると思いますが、逆に僕らの世代は習わないとまずいです。また、教養は人間が積み上げてきた知の一番の土台です。それがあると他の分野の人のことも理解できる。教養は飾りでなくて、知の一番の根っこで、すべての他の専門を持った人と仕事する上で非常に重要です。特に歴史・哲学・文学・芸術などが重要だと思っていて、後は各専門学問分野での古典ですかね。学校でやる一般教養と同じです。僕は今も教養のための本を読んでいますし、これからもずっと続けます。人間は生きている限り、学び続けるべきなんです。

編集後記

投資ファンドでプロフェッショナルとして働きながら、パートタイムでのNPO活動で社会を変える。社会に貢献したいと思う人は数多くいても、なかなか行動に移せる人は少ないです。様々な困難に立ち向かい、自分の思いを実践している慎さんはさぞかし情熱的なパーソナリティー、強い意思をお持ちなのだろうと思っていました。また、そこにたどり着くまでにどのような思いを持って歩んでこられたのかとても想像つきませんでした。お会いしてお話を伺うと、すごく淡々と、地に足のついたこれまでの活動、キャリアに関するお考えを聞かせてくださいました。そのギャップがとても印象的で、自分が到底たどりつけない位置にいると考えていた人が、そこに行くまでにはコツコツ一歩一歩登って行ったのだと感じられました。

大芝 竜敬(会計研究科修士2年)

大切にすべきは『フェア・コンペティション』。自分の長所や才能を知り、それで闘い、周りに認められてこそ国際人

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年11月14日公開)

社会的企業 ユニカセ・コーポレーション
ゼネラルマネージャー
中村 八千代

1969年東京生まれ。明治大学商学部を卒業後、カナダ留学。帰国後は、家業の一般酒販店代表取締役として10年間奔走する。児童福祉施設でのボランティアをきっかけに、2002年からNGOや国際協力の世界へ。2006年に初めて訪れたフィリピンで青少年の雇用機会創出の必要性を感じ、2010年社会的企業「ユニカセ・コーポレーション」を設立。

全部で勝とうとはせず、得意分野に早く気づいて伸ばしていく

どんな学生時代を過ごされましたか?

明治大学短期大学に入学しましたが、明治大学への編入を考えていたので1年生の後半くらいからは試験の準備をしなければいけませんでした。父親のことをすごく尊敬していたので、「ああいう人材を育てた明治大学商学部に絶対入学したい」と思っていました。27歳の若さでスーパーマーケットを築いて、数年後には全国で400位以内に入るくらいのスーパーにした父が、私にとってはすごく自慢の父親だったんです。あとは、私が19歳のときに母が余命3ヶ月と宣告されて、「できることなら、お父さんと同じ大学に行ってほしい」と言って亡くなっていったので、そんな母の願いを叶えたいと思いました。明治大学で過ごした2年間というのは、今の自分の基盤をつくった大切な時間でしたね。マーケティングとの出会いが、私の人生を変えた気がします。

明治大学卒業後は、ご就職されたのですか?

いえいえ。卒業式の翌日にカナダに飛んで、小学生の頃からの夢だった留学をしました。父親を尊敬していた反面、負けん気の強い子だったので「勝ちたい」という気持ちがあったんです。なんでもできるイメージの父親ができないことはなんだろう?と、子どもながらに考えたんですよね。それで、「あ!英語ができない」って(笑)。
アルバータ州立大学でESL (English as a Second Language)プログラムを受けたのですが、数ヶ月目くらいから「このまま帰っても、仕事に使える英語じゃない」ということに気づきました。一年留学期間を延長して、「アルバータ州立大学よりも就職率のいい専門学校がある」と薦められた学校に入学したのですが、これがものすごく厳しくて・・・。プロの方にインタビューをしたり、クラス全員の前でプレゼンしたりという実践的な授業では、英語が母語でない留学生の私は最初から不利な立場にありました。当時、他に日本人はいませんでしたし、カナダ人の学生でもどんどん脱落していく学校だったんですよ。それについていくというのは至難の業でした。全科目で勝とうとすると、やっぱり難しいんですよね。だけど、準備をすればするだけ結果が出るし、しなければ玉砕しますから、まずは全体を見渡して、「ここは得意だな」というのを一分でも一秒でも早く見抜いて、そこで追いついていく。そんな場数を踏ませていただいたのは、カナダでしたね。

ちなみに、中村さんの得意分野は何でしたか?

やはり、日本人が得意とする分野は数字を使うものなのでしょうね。私が優先した科目のなかでも、“Business Statistics”(統計学)はクラスで一番の成績でした。また“Business Communication”のクラスでは、ユニークな質問やプレゼンの内容が良いと、こちらも好成績をいただきました。

                                            カナダ留学時代の友人を再訪

人を裏切るのは人だけど、助けてくれるのも人。真剣に生きていれば、誰かがどこかで見ていてくれる

2年ぶりに日本に帰国されてからは、どのような進路を選ばれたのでしょうか? カナダで学んだことは活かされましたか?

「世界を駆け回って、日本にないものを買い付けたい」と、貿易会社に就職しようと考えて帰国しました。ところが、私がカナダにいる間に、父親が何十億円という借金を作ってしまっていたんです。私は、知らぬ間にその借金の一部の連帯保証人になっていました。なんとかしなくちゃということで、母の死後に私が引き継いで、実際は父や父の部下がまわしていた「中村商店」という会社の経営に、私が本格的に関わり始めることにしました。当時の中村商店は、4,000品目を扱う大きな酒屋でした。もちろん最初は何もわからなくて、泣きながら必死にお店をまわしましたよ。1~2ヶ月経った頃にだんだん動きがわかってきて、口座にも少しずつお金が入ってきたなという印象を受けました。半年ほどして、父親に「5,000万円貸してほしい」と言われて、悩んだ末に貸しちゃったんですよね。そうしたら父親の会社が1ヶ月後に倒産して、私の会社のお金は返ってこなくなってしまって。その上、父の会社は200社以上の問屋さんやメーカーさんとお付き合いがあったため、これだけ借金を膨らませてしまった以上、危険を伴う可能性があるということで、父と妹と親子3人で着の身着のままで夜逃げしました。でも、中村商店は店長にお願いしていたものの、やはり心配でした。結局、父親は1ヶ月隠れたのですが、私は刺されたり、誘拐されたり、脅されたりするのを覚悟で、夜逃げした1週間後にお店に戻りました。

その後の生活は、いかがでしたか?

夜逃げのあと、父が迷惑をかけた謝罪をするため銀行に挨拶に行ったら、支店長室に連れていかれました。「あなた、のほほんとしていられないんだよ。あなたにも借金があるの知らないの?」と言われて、「借金ってなんですか?」って・・・。なんと、中村商店まで4億円の借金があったんです。ただ4億という額は大きすぎて、ぜんぜん実感がわかなかったですね。「ゼロ何個なんだろう・・・?」みたいな(笑)。返済プランを組んだら、毎月120万円返済の80年ローンでした。「100数歳まで、120万ずつのローンを払い続けるんだ、私・・・。死ぬまでやろう」って覚悟を決めましたね。
そのときも、父親のことを恨むとかそういう気持ちはなくて、「なくなっちゃったものは仕方ないから、一緒にがんばって返していこうよ」みたいな気分でした。毎日朝6時に家を出て、車で片道2時間かけてお店に通って、夜中2~3時まで事務処理をして、帰宅して仮眠してお店に戻る・・・という生活が続きました。それに、お財布のなかにはだいたい80円くらいしかないんですよ。当時、中村商店には14人の従業員がいたのですが、「どんなに苦しくても、この人たちを騙したり傷つけちゃいけない」というのが私の信念でした。「なにか担保はないですかね?」という問屋さんには、「私の身体ひとつです」って言いましたね。いざとなったら、売春でもなんでもやろうという覚悟で。そうしたら、「そこまで言うんだったら支払いを待つ」と言ってくれて。いろいろな幸運も重なって、借金は10年かけて、私が36歳のときに一部を免除され、返済終了することができました。

たくさんの借金を背負わされてしまったのに、お父様を恨む気持ちはなかったということには本当に驚きます。最後まで「一緒にがんばって返していこう」と考えられていたのですか?

いえ。実は、借金の保証人にされていたことが発覚したあとに、有志の方々が3,000万円用意してくれて、それをどう分割するかという話になったんですね。私は、まだ残っていた8~9ヵ所の子会社に少しずつ分配して、資金繰りに役立ててもらうべきだと提案しました。だけど当時、父が所有していたどのスーパーよりも売り上げを伸ばしていたのがパチンコ店だったんです。ただ問題は、当時、そのパチンコ店が区画整理のため、1年間ほど休眠していたことで。「休眠して来年まで売上のないパチンコ店を取るか、私との親子の縁を取るか、どちらかにして」と訊いたら、父は「夢を追いかけたい」と言ったんです。3,000万円をパチンコ店のみにつぎ込みたいと。あの一言で、もう怒り爆発ですよね。「もう、あなたとは一生縁を切らせていただきます」って。私の人生をめちゃくちゃにして、どうにかしてそれは受け入れたのに。まだ一生懸命がんばっているいくつかの子会社の従業員さんたちを見殺しにしてまで、自分の夢を追いたいという気持ちは、私には一生かけても理解できないと思いました。結局、私が経営していた酒屋以外、グループ会社ではパチンコ店は再起不可能になりましたし、それ以外の父の会社も全部つぶれました。その後父は謝罪してくれ、今では私も許しているんですけどね。

本当に大変な10年間でしたね。

はい、すべてを諦めましたね。夢はもちろん、フィアンセもいましたけど、結婚も諦めました。でも私、若い頃は「私が世界を回してる」みたいな勢いの、根拠のない勘違い女でしたからね(笑)。謙虚にならなきゃいけないなと、すごく学びました。実際、自分の力だけでは借金の返済だってできませんでした。当時のことを思い浮かべると、本気で私を支えてくれた人全員の顔が思い浮かびますからね。真剣に生きていれば、誰かが見てくれているんだということが励みになりました。実は私、はじめの頃は誰にも相談できなかったんですよ。「こんなに借金抱えちゃって、どうしよう。恥ずかしい。死んじゃったほうが楽だ・・・」って、寝ても覚めても、夢のなかでまでそういうことばかり考えていて。でも、自殺を図ろうとしたときに、虫の知らせで飛んできてくれた友人たちがいたんです。夜中もずっと傍にいてくれて、「こんな友達がいる以上、死んだらいけない」と思いました。私を裏切ったのも人でしたけど、助けてくれたのも人でした。

親や社会に裏切られた子どもたち

一般酒販店の代表取締役だった中村さんが、NGOの世界に入られたのはどうしてですか?

お金、お金で疲れ切ってしまっていた30代初めの頃、児童福祉施設の子どもたちに会う機会があったんです。私にも「父親に裏切られた」とか、「母親がいたらなぁ」という、どこか被害者意識みたいなものはありましたけど、少なくとも20歳までは母がいてくれた。「幼少時代から親に見捨てられてしまった子どもたちは、どういう心境なんだろう?」と、寄り添いたい気持ちが生まれてきて、その施設に通い始めました。親や社会の犠牲になっている子どもたちが、どうしても他人に思えないんですよ。その後、ある国際医療援助団体とご縁があって、2002年にNGO職員になりました。

今はこうしてフィリピンに住まれているわけですが、この国との出会いもNGOがきっかけですか?

はい。2006年、NGO職員として初めて訪れました。国際医療援助団体で働いていた3年弱の間も、借金の返済は続いていたんです。負債者は長期で海外に行けないので、返済が終了して、紙に「0」って書いてあるのを見たときは、「これが自由なの?」と思いましたね。「私、海外で仕事できるんだ!」って。ちょうどその頃、国際医療援助団体の元同僚たちが、独立して別のNGOを運営していました。新宿駅で「〇〇さん、借金の返済終わったよ!」と電話したら、「ちょうどフィリピンのポストに空きがあるんだけど、行かない?」って訊かれて、ふたつ返事で「行く!」って答えましたよ。海外に飛び出したくてしようがない10年間のウズウズした気持ちがあったので、正直なところ「どこでもよかった」という感じでした。借金返済終了後、5分のうちに次のミッションが決まっちゃったというか(笑)。

もともと特別な思い入れがあったというわけではなさそうですね。そんなフィリピンの第一印象はいかがでしたか?

フィリピンに来てからも波乱万丈は“to be continued”状態で・・・。2006年の7月に赴任してきて、一週間後には関係者の男の子が射殺されたんです。私が働いていたNGOの元裨益者で、21歳でした。スーパーマーケットでケチャップかなにかを万引きして、逃げようとしたところを警備員に射殺されたんです。「現場っていうのは、こういうものか」と思いました。もっと衝撃的だったのは、その子のご両親に連絡したところ、「葬儀場に行くお金がないから、葬儀には出られない」と言われたことです。「息子の葬儀に出るために、100円すら出せないの?」って、それがものすごくショックでした。その子の死を無駄にしないために、いわゆる“Children at Risk”(※)をひとりでも減らせるような何かがしたいという、決心につながった事件でした。
※路上生活を余儀なくされているストリートチルドレンや、人身売買にあったり、虐待を受けたり、育児放棄されている子どもたち、または貧困層出身ゆえに学校に通えない子どもたちなど、全てを総称し、危険にさらされた子どもたち。

”Children at Risk”を減らすというのは、とても大きなゴールですね。具体的にはどのようにお考えですか?

もちろん、ストリートチルドレンの数を減らすなんていうことは、今の私にはできません。でも、せめて自分が出会った子どもたちには、自立して仕事を持ってもらいたいと思うんです。そして将来彼らに子どもができたとして、そのときお給料をもらっていたら、自分の子どもには食べさせてあげることもできるし、学校にも通わせてあげられるし、学校に通えばいい会社に勤められる可能性も高まる。そういう、20年越し、30年越しのプロジェクトです。大規模で動くためには、NGOのやっていることは今もこれからも大事です。だけど、問題点や限界もあると思います。たとえば奨学金プログラムで何十何百という子どもを学校に通わせてあげても、卒業後のフォローアップがしきれていないケースを私はたくさん見てきました。投資して、教育支援を行っていることを無駄にしないために、裨益者だった子どもたちが青少年に成長した段階で自立する方法を導いてあげる。どうやって仕事をしたらいいのか、どうやって責任を取ったらいいのかということを学べる場を作る必要があると思います。ひとりかふたりかもしれないのですが、せめて私が関わったなかで真剣に働きたいって思っている子には、それを叶えさせてあげたいと思いますね。

中村さんが起業された社会的企業「ユニカセ・コーポレーション」について教えてください。

2年ほどの準備期間を経て、2010年からロハス(Lifestyle Of Health And Sustainability)にこだわった健康食レストラン「ユニカセ・レストラン」を運営しています。NGOのボランティア・スピリットを引き継ぎながらも、ここで働く青少年たち自らが利益を追求するための方法を探っていく。でも一般企業とも違っていて、単なる利益追求で「こいつは使えないからクビにする!」とか、そういうことは避けたいなと考えています。私以外の有給スタッフは、みんなNGOから紹介されてきた青少年たちなので、過去はそれなりに苦労した子たちばかりです。元ストリートチルドレンの子たちも何人かいるのですが、路上にいた頃、空腹を避けるためにシンナーを吸っていたりするんですよね。シンナーは脳細胞をダメにしていくので、忘れっぽい子が多いんです。言ったことを守らなかったり、すぐに忘れちゃったり。そういう子を解雇しようか迷ったことがあって、結局そのときにどうしたかというと「あなたの仕事では、もうお給料は払えない。でも、もう少し働いて学びたいならそうしていいよ。『これならお給料払ってもいいな』っていうレベルまで達したら、またあげるから」って。そういうふうに対応しました。

                                     ユニカセのフィリピン人青少年と中村さん

自信は自分でつけていく。それが国際社会で生き残る術となる

これまでフィリピンの青少年のお話を伺ってきましたが、中村さんには今の日本の若者はどのように映っていますか?

30人以上の日本人インターンたちと関わってきましたが、まず最初にいえるのは「素直で純粋な子たちだなぁ」ということです。わざわざお金を使ってまで、人の役に立つことをしようと国境を越えて来るくらいですからね。反面、国際社会で生き抜いていくためには、もっと前に出ていく姿勢が必要だと思います。しっかり準備して、スキルを使って、「私にしかできないんです」というのを証明していかない限り、相手は認めてくれないのが国際社会。国際人たちは、目の前のチャンスをがつっと掴み取っていきますから。でもね、ユニカセのインターンや青少年たちには、「誰かを引きずり落としてまで、自分がのし上がるのは勝負じゃない。『フェア・コンペティション』を意識しなさい」と言っているんです。自分の長所や才能に早く気づいて、それをガンガン活かして仕事に結び付けていく。そうすれば、必然的に周りが認めてくれて、尊敬してくれるようになるし、仕事もまわってくるようになる。そういう仕事の仕方をしてほしいとよく言っています。

中村さんが考える「グローバル人材」「国際人」というのは、ずばりどういう人ですか?

自信のある人ですかね。どんなに小さくてもいいから「これは、がんばったな」というものをいくつも作っていくことによって、自信はだんだんついてくるもの。自信さえあれば、「どこでも生きていける」と感じることができるから、それが国際社会で生き残っていく術じゃないかと思います。自分を信じていなければ、国際社会なんかに出たらもうアウトですよね。日本人は必要以上に謙虚だから、“I cannot do anything.”とか言っちゃうかもしれませんけど、そんなこと言ったらもう「じゃ、帰りなさい」ってね(笑)。実際は8割くらいしかできなくても、「できます」って言わないとダメなんですよね。それで、やっている過程のなかで本当にできるようにしていく。「口からちょっとでまかせ言っちゃったけど、言ったからにはやるんだ!」ってね、そうやって生き残っていくしかない、国際社会は。

最後に、これから中村さんが目指す先について教えてください。

もしかすると、ユニカセ・レストランはなくなってしまう可能性もありますよね。カタチあるものはみんな壊れるので。だから、レストランにこだわるのではなくて、「ユニカセ・スピリット」を一生継続させていきたいです。つまり「“Children at Risk”が、10年後、ひとりでも減っている社会・世界をつくる」というユニカセのビジョンです。ユニカセで働いている青少年たちに関しては、「私がこの子たちの人生を抱えているんだ!」っていう責任は、すごく感じます。私はいつも、「明日死んじゃうかもしれないから、今日を一生懸命生きよう」と自分に言い聞かせているんです。死ぬ5秒前に、「あぁいい人生だったな」って思うために、今を生きているので。そういう意味では、私が明日死んでしまったとしても、ここに関わった子たちがユニカセを守っていってくれるような指導の仕方をしたいなと思っています。でも、現実はそう簡単にもいかなくて、キッチンに入ってしまうと忙しくて怒鳴ってばかりいたりするんですけどね・・・(笑)。

                                記念すべき「ユニカセ・レストラン」オープン日に

 

 

編集後記

3時間をも越えるロングインタビューに、終始笑顔で応えてくださった中村さん。しかし、彼女の口から飛び出してきたのは、素敵な笑顔と穏やかな雰囲 気からは到底想像できないような衝撃的なお話の連続でした。私は、「グローバル人材」「国際人」と呼ばれる人に対して、生まれながらにして特別ななにかを 持っていたり、エリートな人生を順風満帆に歩んできた人というイメージを抱きがちでしたが、今回のインタビューを通して、どんなに輝いて見える人にも、人 知れずこぼした汗と涙があるのだということを再認識させられたように思います。むしろ、たくさんの逆境を乗り越えてこられた中村さんだからこそ、こんなに もキラキラ輝く今があるのだと確信しました。現在の中村さんを形作っているのが「フェア・コンペティション」を通して培われた「自信」なのだとしたら、私 も必要以上に遠慮したり恐れたりせず、どんどん闘っていきたいと思います。そして、いつか中村さんのように、ありのままの自分の過去を笑顔で語れる素敵な 女性になりたいです。

加藤真理子(アジア太平洋研究科修士2年)

 

自分が持つ目標に向けて、ただがむしゃらに努力を重ねた。その努力がツキをも呼び寄せる

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年10月12日公開)

株式会社 村上憲郎事務所 代表取締役
(元Google 米国本社 副社長)
村上 憲郎

京都大学工学部卒業後、日立電子株式会社、Digital Equipment Corporation(DEC)Japanを経て、Northern Telecom Japan社長兼最高経営責任者に就任。2001年に Docent の日本法人である Docent Japan を設立。2003年4月、Google 米国本社 副社長兼 Google Japan 代表取締役社長として Google に入社。2009年1月名誉会長に就任、2011年1月に退任し、村上憲郎事務所を開設。国際大学GLOCOM主幹研究員・教授。慶應義塾大学大学院特別招聘教授。大阪工業大学客員教授。会津大学参与。

私はガリ勉なんですよね。その努力がツキを呼び寄せたんだと思う

どのような学生生活を送られましたか? また、村上さんの専門分野であるITの能力はどこで身に付けられましたか?

学生時代は学生運動が盛んな頃で、私もその活動に参加していました。また、同時に映画もよく観ていたのですが、当時公開された「2001年宇宙の旅」という映画に、人工知能:AI(Artificial Intelligence)型のコンピューターが登場しました。それまで知っていたような単純な操作しかできないコンピューターではなく、自意識を持ったコンピューターみたいなものだなという程度の認識ではありましたが、すごく惹かれましたね。また、大学は学生が占拠してましたので、コンピューター室は使い放題でした。参考書を買い、自習しながら、富士通のファコムというマシンを見様見真似で使っていました。そこで得たコンピューターの技術はほとんど初歩的なものでしたが、就職には役に立ちました。学生運動による逮捕歴ありだったので、縁故を頼って仕事を探していた時に、面接でコンピューターができると言うと、日立グループの日立電子というミニコンピューターの会社に入れてもらえたんです。日立に入ってからは猛烈に働いて、月の残業時間が200時間にもなるほどでした。ほとんど家には寝に帰るだけ。さらにひどい時はそのまま会社で寝たりもしていました。でもそこで、コンピューターの初歩から本格的に全て学ぶことができました。コンピューターがどうやって動くのか、ワンステップワンステップ全て分かるミニコンの会社に入ったことは本当にツいていましたね。

外資系企業であるDECに転職したことが、グローバルに活躍するきっかけになったかと思いますが、その経緯について詳しく教えて下さい。

無計画な男なので、英語がしゃべれないのに、日立がミニコンの事業から撤退したことをきっかけにミニコンの世界的なトップだったDECへの転職を決意しました。当時のDECはすごい会社で、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、エリック・シュミット達は全員、DECのマシンを使って育ったんです。転社に当たり、自分の視野を技術以外の部分にも広げたいと思い、また当時「男を磨くのは営業だ」というキャッチコピーの本を読んで(笑)、営業職への転職を決意しました。ただ、DECに入ってから言葉(英語)が通じないと気づきました。後の祭りでしたが、会社には英語ができるだけという人もいて、その人達を見返してやろうという思いもあり、英語を必死に勉強し始めました。それが後に色々なチャンスに繋がるきっかけになりました。仕事をしっかりとこなしながらも1日3時間の英語の勉強を3年間欠かさずやったおかげで、4年目くらいにはオーストラリアで最初の海外講演ができるぐらいにまでなりました。

その後、DECの米国本社へ移られるのですが、そのきっかけを教えていただけますか?

当時、米国防総省の国防高等研究計画局(DARPA)は人工知能のプロジェクトに積極的に取り組んでいました。DECに入って分かったんですが、DECのコンピューターが米国防総省の予算の受け皿で、人工知能の研究に使われていたんですね。これは非常に運が良かった。また日本でも、通産省が第5世代コンピュータープロジェクトという人工知能に関わるプロジェクトを始め、こちらでも人工知能の研究はDECのマシンを使うしかないということでした。外資系企業の良いところで、やりたいといった人は挑戦させてもらえる環境だったので、僕が手を挙げてその担当になったんです。そのプロジェクトがきっかけで、コンピューターもたくさん買ってもらいました。また、人工知能について海外の論文を読み漁りました。そうこうしていたらミスターAI(Artificial Intelligence)と呼ばれるようになってたんですね。また、第5世代プロジェクトでたくさんコンピューターを売った以外にも、他のプロジェクトで人工知能を応用した製品を民間企業に売ったんです。アメリカでも研究目的のものとして扱われていた人工知能を民間企業へのビジネスと成し遂げたため、本社から「アメリカに来い」と言われました。私は終身雇用は信じていないですし、会社はいい意味で踏み台と思っています。日本DECで学ぶものはもうないけど、アメリカで仕事するということは獲得するべきキャリアだと思って、無謀にも本社に行くことにしました。1968年に「2001年宇宙の旅」を観て、人工知能を作りたいと思い、結果的にその目標に沿ったキャリアを歩めたのは本当にツいていますね。私は業界では”ツキの村上”として有名なんですよ(笑)しかも、その人工知能に関する知識を持っていたから最終的に、Googleにも誘われたんです。

村上さんはツキを呼び寄せる力があるのですね。

結局、私はガリ勉なんですよ。ツキというか、私はこの後何が流行るか分かるんです。20代から30代の時は、年間200冊位の本を読んでいました。それで分かるようになったんだろうなと思いますね。というのも自分が他の人と比べて特別何かやったのはそれくらいですからね。また、元々要領がいいんです。第5世代プロジェクトに入ったときは、海外から送ってもらったダンボールいっぱいの人工知能の学術文献を読んだと伝説になっていますが、3分の1を読んだ後はたいてい同じことばかり書いてあるから読んでないとかね(笑) 学校できちんと人工知能を学び、しっかりと学位を取ったという先生からすれば、付け焼刃といわれると思いますが、そのような方法で、素早く自分の知識とすることに長けていました。それで、私は自分を生まれつきのマーケッターだと思うんです。自分で自分が素早く習熟した分野を流行らせてしまう。DECへの転職とか無鉄砲だったというのは、結果的にはいくつかはツイていたと言えますが、全部が単なるツキではないですね。例えば、今自分はどんな話題を振られても、それについて、何か話せますよ。Frame of reference(物事を考えるための枠組)が頭の中に構築されているんです。図書館司書みたいなものです。これも大量の本を読んだからだと思います。そして、なぜそんなに本を読んだかといえば、それは、この宇宙の森羅万象を知り尽くしたいという欲求があるからです。宇宙の真理に触れたいということですね。そのような努力がツキを呼び寄せるんだと思います。

米国エリートは日本人が持たない「絶対的」な価値軸を持つ。それがあるから彼らは強い

DEC米国本社で米国のエリートである人たちと仕事をされて、どのような印象を持ちましたか?

米国のエリートは、日本人が持たない価値軸を持っていますね。例えば、日本では、よい大学を出て、日立に入った人は当時英雄だったんですよ。そこで、例えば、日立をリストラ、または、他の会社に行くということになると大事件なんです。法事には行けなくなるし、ひどい時は、かみさんにも言えない。田舎ではヒーローは嫉妬と羨望の的なんですよね。つまり、日本人の中には、仕事や地位などで人を測る価値観が強すぎるほどあるんですよね。一昔前の日本の女性の理想の結婚相手は、三高(高収入、高学歴、高身長)の男であったように、日本人は給料が高いことで人格的に優れていると思い込んでいたり、背が高いとか学歴とかで人格を測ろうとしたりする。逆に米国エリートは人格とは神様が判定するものという価値観を持っている。それがあるから最終的にただの高収入、高学歴、高身長などに満足せず、逆に、低収入、低学歴、低身長にも、めげません。強いんです。成功している人は、それだけでは神様のおぼえが良いという保障はないので、社会貢献しようという気持ちを持つという点が米国のエリートにはあると言えると思いますね。

アメリカのエリートの社会貢献、いわゆるNoblesse oblige(高貴なる者の義務)はどのように作られるのでしょうか?

一神教の人達は本音で言うと、神様はいないかもしれないと思っている。もちろんそんなことは絶対に口に出して言いませんが。でも、逆にもしかしたらいるかもしれないとも思っているんです。その場合は、ちゃんとNoblesse obligeをやっておかなければならない。地上では大丈夫でも最後の審判があるかもしれないから保険をかけておくということです。また、アメリカの教育のプロセスでは、エリートの地位にある人がエリートとしての教育を受けているのは普通の学校の場合もありますが、ボーディングスクールが一般的なんです。全寮制で日本の中高に相当する教育をしていて、広大なキャンパスにほぼ全員が博士号を持った先生達も家族共々住んでいて、24時間常に面倒見てくれる。夜でも教えてもらえる。そういう環境でエリートとしてアメリカ社会からの期待を背負っているというようなことも教えてもらえる。哲学をちゃんと古典ギリシャ、ラテン語で読む。リベラルアーツのベースとして西洋哲学の流れを教えてもらえる。国を率いる人間としては人類史を見ておく必要がある。そのような環境からNoblesse obligeが出てくるんです。もともとはヨーロッパの貴族社会で、特にイギリスにそういう考えが強いですよね。今、イギリスの王子様はアフガニスタンでパイロットをしています。また、将校は本来、貴族階級です。そして、将校の死傷率は、英国が最も高い。こういうのがNoblesse obligeを体現している証拠だと思います。

DEC米国本社から日本へ帰ったときはどのようにお考えだったのですか?

DECの米国本社において、VP(Vice President)への出世は難しいと思っていました。僕は38でアメリカに行って、42で帰ってくるのですが、42歳でMBAは持っていないし、VPでもない。また、英語が相変わらず下手でした。1対1の会話なら良いのですが、会議でみんなが一斉にしゃべって混乱してついていけなくなったら、“ノリオ・タイム”というのをやっていました。「ちょっとここで会議ストップ!賛成の人は誰で、反対の人は誰? オッケー。じゃあ会議再開」みたいな(笑) つまり、本社で今言ったようなエリートの人たちと競うと、最後に退職のはなむけとしてVPになれたかもしれないけど、それが限界だろうと。ツキの村上だけど、天下の形成も見ていたんです。一方で、日本DECに帰れば社長になれるなと思いました。日本DECでは上から数えて5指に入るくらいの英語の上手さでしたしね。

その後、様々な外資系企業のマネジメントを行い、2003年にGoogleに参加されたのですね。

僕が入社したとき、Google日本法人は10人くらいの会社でした。さすがにここまですごい企業になるとは予想できませんでしたね。会社の受付は他のベンチャー企業と共有で、会議室も予約しないと使えない。オフィスのデスクだけが使えるという状態でした。日本法人の社長は弁護士の方が名前を貸していた状態で、僕の上司に当たる人が、米国本社から遠隔操作していました。ただ、私はむしろこういう小さい会社に勤めた方が良いと思っていました。将来の見通しと、サイズは関係ないんです。また、サラリーマンがお金を手に入れる方法は、Stock option(株式をあらかじめ決められた額で買える権利)しかないです。年俸を貯めたところで、老後の余裕ある生活なんかありえない。これからの年金についていえば、統計で絶対にかけ損ですと政府が言ってるんですから。もう頼ることなんかできないんです。だから、小さい会社の日本法人を任せてもらうのはよいキャリアだと思います。私がGoogleに選ばれた理由に人工知能に関わった仕事をしていたことがありますが、その頃には最新の技術にはついていけてなかったです。でも、CEOのエリック・シュミットが僕を雇うときに、「俺も最先端の技術はわからないけど、お前は分かったふりができる」ということを言っていました。当時、Googleでは、特定の分野では世界一というような人材がいました。ただ、たとえそのような優秀な人材に囲まれている中でも、自分がコードを書くわけではないので、洞察力があれば良いんです。僕がエリックに会う前にGoogleの社員10人ぐらいから面接を受けていて、エリックにはその面接官たちからのフィードバックで、こいつは俄か勉強したことを大昔から全部知っていたように話すやつだと判っていたんでしょう。若い優秀な人達は上司が何も知らないとどうしても馬鹿にするんですが、人工知能、コンピューターに関して黎明期から仕事していたということになると、なんとなくできそうと思ってもらえるんです。仕事としては、アメリカ本社のVPと言うポジションもFor Japanという役職だったので、やっぱりブリッジ役ということですね。

人類は英語がしゃべれる人としゃべれない人に分かれる。決して遅いということはないから海外に行け

外資系日本法人と日本企業のマネジメント職では、求められる能力は違いますか? 村上さん自身はご自分をどのような経営者とお考えですか。

求められる能力は変わらないと思います。ただ、アメリカではCEOが下から上がる例はないです。それまでがだめだから経営者を変えるんです。そこで、下から調整役を連れてきてもうまくいく訳ないですよね。自分で自分を経営者として見たとき、そんなに立派なリーダーだとは思いません。もともと、エバれない性格なんです。また、いわゆる人脈作りも嫌いです。人脈作りは相手を手段・道具としてみている。それは失礼極まりないです。人脈作りが役に立たないということではなく、手段としてやるところが嫌なんです。自分のやることは、チームと苦労を共にする、助けを必要としている人には手を差し伸べるということです。ただ、気をつけている点として、嘘は言わないです。会社に入ると、最初に、「終身雇用はないです。みなさんが終身雇用される力をつけてください。会社は、その手伝いは、できるだけします」と言っています。世界の情勢、会社のミスなど色々な要因がありますから、どんなに優秀な人に対してでも、終身雇用なんか保証できませんよね。

日本・世界の学歴主義・大学教育についてどのようにお考えですか?

最近、田村耕太郎さんや僕がこの問題を正面から取り上げ始めて、日本でも海外の大学教育に注目が集まっています。田村さんはインドの大学も良いと言っていて、私はそこでどのようなことが学べるか把握していませんが、でもインド人の英語の方が我々よりも通じるじゃないかというのは事実です。もはや、日本語で高等教育を受けても無駄だと思います。また、世界では学歴は非常に重要で、実際Googleはあるレベル以下の大学からは採用しません。皆さんは、早稲田を出た後、更なる高等教育を受けるかどうか迷うところだと思います。確かにアメリカのエリート学生は、飛び級制度で20歳位で学士号を取得したりするので、彼らと同じスピードで競争するのは難しいです。でも日本人の皆さんは彼らに比べて、10歳は若く見られます。また、グローバリゼーションというのはアメリカナイゼーションなんですよ。つまり、これからは会社の採用のときに年齢を聞けないんです。アメリカの判例でAge discrimination(年齢による差別)は禁止されているから、面接で年齢を聞かれて落とされたら、裁判で1億円もらえますよ。年齢が全く関係ないのは日本人にとって有利です。なるべく早いうちに海外に行った方がもちろん良いです。ただ、いったん社会に出てからでも遅すぎるということはありません。皆さんは35歳の時に25歳に見られる。つまり、自分の気持ち次第なんですよ。また、留学に行くとしたらどこがよいかといえば、学部では高いGPA(Grade Point Average)を稼いで、修士でなるべくいいところに行く。最初は二流校でもよいから、移っていく。最後にどこでMaster degree(修士号)を取るかが重要です。この話はもうかなり日本にも広まっていて、日本の富裕層に送られてくる雑誌があるんですが、そこにボーディングスクールの広告が多く出るようになりました。日本でも富裕層の人は、自分の子供をアメリカにひっそりと送り込んでいるんですよ。

最後に学生にアドバイスをお願いします。

まず、英語がしゃべれなければ、20年後にまともな仕事はないと思う。人類は英語がしゃべれる人としゃべれない人に分かれるんです。当たり前ですが、会社で言葉の喋れないサルは雇わない。「猿の惑星:創世記」に出てくるシーザーの無念な立場を思い出すべきです。日本人が英語をしゃべれなかったらそれと同じことなんです。そういう時代が来ているんです。日本企業も問答無用でグローバル採用になると思います。例えば、学業成績が同じなら、英語がしゃべれない日本人より英語ができるベトナム人を雇いますよ。就職活動で日本人同士だけで競い合う時代は終わります。明治維新の後で帝国大学として始めた教育は、外国人教師を連れてきて外国語で始めましたが、最終的には母国語で勉強できるようになった。世界最先端の学問まで母国語でできる。それが今は足かせになってきたんです。本当に危機的だと思います。僕自身の英語の勉強についても、田舎の秀才で上昇志向が強かったから30過ぎてからでもあんなに無理な勉強ができたんだと思います。年をとってからそれだけの苦労をするぐらいなら若いうちにアメリカに留学することをお勧めします。英語を勉強するのではなく、英語で勉強する。私はいまだに聴き取れないんです。でも、皆さんの年齢なら何とかなる。私は筋肉と言っているけど、聴力の周波数音域を広げるんです。要は筋トレと同じなんです。英語は日本語と同等までにはならないかもしれないけど、なるべく近づけるためにはすぐに海外に行ったほうがよいです。私は自分だったらどうするということしか言わないんです。もし、自分が今学生であればこのような選択をしますね。

 

編集後記

自ら上昇志向があるという村上さんの情熱と、常にユーモアを伴って話す人柄を存分に感じた。インタビューが終わって最初の印象は「村上さんは、何か 特別な秘訣があるわけでなく、とてつもない努力によってグローバルな活躍を成し遂げている」ということだった。世界で起こっていることを鋭く洞察するため の読書。31歳から英語を始め、ビジネスレベルまでに持っていった努力。グローバルに活躍するためには、もちろん運や偶然の人とも出会いも必要かも知れな いが、それすらも努力が呼び寄せるものだと感じた。また、自分の目標が見つかった際に、それに向かって努力を始めることに遅すぎるということはない。自分 の気持ち次第で、自分が成し遂げたいことが、成せるかどうか変わってくるということを教えて頂いた。

大芝 竜敬(会計研究科2年)

 

恵まれた状況にある者こそが果敢にリスクをとり、社会に還元していくべき。自分たちが社会を変えるという気概を持ってほし

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2012年8月8日公開)

ライフネット生命保険株式会社
代表取締役副社長
岩瀬 大輔

1976年埼玉県に生まれ、幼少期をイギリスで過ごす。1998年、東京大学法学部を卒業後、ボストン・コンサルティング・グループ、リップルウッド・ジャパンを経て、ハーバード経営大学院に留学。同校を上位5%の成績で卒業(ベイカー・スカラー)。2006年、ライフネット生命保険の設立に参画。2009年2月より現職。世界経済フォーラム(ダボス会議)「ヤング・グローバル・リーダーズ2010」選出。

人に疑問を持たれても、自分らしいと思える道を選んだ。自分自身を知ることは、より良く生きるためにとても重要

どのような学生生活を送っていましたか。また、学生時代からグローバルに活躍することを意識されていましたか?

法学部で、1年生の時から司法試験の勉強をしていました。それと、塾講師のアルバイト、サークル(ジャズ研)でピアノを弾いていたというこの3つが、大学時代に主にやっていたことです。僕は帰国子女で、小学生の時はイギリスに住んでいました。中学2年の時には、住んでいた千葉の佐倉市が主催したスピーチコンテストで優勝して、オランダに1週間連れて行ってもらいました。高校生の時、親がニューヨークに転勤になり、僕は日本に残って高田馬場の寮で3年間住んだのですが、夏休みなどにはよくニューヨークに行きました。大学生の時、海外には旅行で行くぐらいでしたが、大学4年になる前の春休みに、日本弁護士連合会でアメリカの司法制度視察があって、同級生(ヒューマン・ライツウォッチ東京代表の土井香苗氏)と共にアメリカに連れて行ってもらい、ハーバード・ロースクールの学生と交流したりしました。そのような経験から、海外の影響は受けていたし、意識もしていましたね。

大学卒業後、ボストン・コンサルティング・グループ(以下、BCG)に就職することになった経緯を教えてください。

大学3年次に司法試験の3つの試験のうち、2つが終わりました。3つ目の口述試験は合格率90%ぐらいなので、その時点で試験はほとんど終わっていたと言えます。そのためほとんど就活はしなかったのですが、無数に届く会社案内の中で、BCGから来た封書だけが手書きだったので、たまたま開けてみました。その内容がおもしろそうだったので、とりあえずインターンだけ受けてみることにしたんですね。それでも就職する気持ちはなかったのですが、インターンで経験させてもらった仕事が新鮮でとても楽しかったし、BCGの人たちはおもしろくてスマート。こういう人たちと一緒に仕事がしたいという気持ちが出てきました。逆に弁護士事務所の人に会った時は、あまり魅力を感じませんでした。
また、司法試験合格者は当時一年間に750人もいて、そのなかの1人となって埋もれたくないと思ったことも大きいです。当時BCGは就職先として全然人気がない会社で、例えば、東大法学部の人はおそらく半分ぐらいは知らない。さらに同期入社はたったの3人ということで、周りからはせっかく司法試験に合格したのに、どうしてそんな会社に行くのかとよく聞かれました。でも僕は、司法試験合格者750人のうちの1人でいるより、BCG新卒入社3人のうちの1人でいるほうが自分らしいと思ったんですね。

人と違っていても、自分らしいことがやりたいと思うきっかけはありましたか?

子供の頃は、みんなと同じじゃないといやだったことを覚えています。例えば、母親がうっかりしていて小学校で使う画板が人と違うものになった時、それがいやで泣いたこともあったし、イギリス在住時、遠足のお弁当におにぎりを持っていったら、サンドイッチを食べていた周りから馬鹿にされ、今度からサンドイッチにしてほしいと母親に頼んだ記憶があります。ただ、イギリスで暮らしていると、外国人である僕はどうしたってみんなとまったく同じではいられない。そのうちにみんなと違っていることが普通になっていき、今ではむしろ人と違っていたいと思っています。子供の頃の体験や感じたことというのは、自分の価値観、世界観に大きな影響を与えるものですね。
そういった価値観や原体験を含め、自分自身を知ることは実はとても重要です。例えば、ハーバード・ビジネススクール(以下、HBS)のリーダーシップのクラスも、自分の半生を振り返ることから入ります。僕らは本を読んだりして自分の外のことについてはよく知っているかもしれませんが、案外自分自身のことを知らないものです。当時は意識していませんでしたが、留学中に書いていたブログは、ある種の自分探しみたいなものだったのではないかと今では思っています。子供の頃の話を思い出して書いたりして、すごく内省的な時間が多かったですね。そういう時間をとって自分自身をよく知ることは、リーダーシップのトレーニングとしても、仕事以外のことも含めてよりよく生きるためにも、すごく重要なことだと思います。

たまたま恵まれたのだから果敢にリスクをとるべき

岩瀬さんは社会人2年目でBCGを辞めてベンチャー企業へ行くことになるのですが、その時の経緯を教えて下さい。

僕がBCGを辞めた2000年はベンチャーブームの時でした。また、ベンチャー企業に移った会社の先輩がいて、その選択をみんな最初はいぶかっていたのですが、結果的にその先輩が成功されたんですね。そういう例を身近に見て、ベンチャーはおもしろいと思い始めました。それから、アメリカ生まれのベンチャー企業の日本法人で先輩の手伝いをすることになったのがきっかけです。

後にHBSを修了したときに、起業という道を選ばれたわけですが、その時の心境を教えていただけますか?

HBSの2年間の教育で、アントレプレナーシップ(起業家精神・起業家活動)にも、全くのゼロから小さなビジネスを起こすことから、大企業のリソースを使って新しいものを作るといったものまで色々な形があると知り、幅広い意味で何かベンチャー的なものをやりたいと思うようになりました。早大生でベンチャーをやろうとしている人はあまりいないと思うし、おそらくハーバード大学の学部生でもそんなに多くはいませんが、HBSではそう思わされる雰囲気があります。アメリカではHBSなどトップ層の学生にはエリート意識があるんです。それは、彼らが積極的にリスクをとって道を切り拓き、そこで得られた成果を社会に還元するということを意味しています。ノブレス・オブリージュということです。日本ではエリートであると意識すること自体がまず避けられますよね。でも、たまたま恵まれたのだから果敢にリスクをとるべきだと僕は思いましたし、早稲田の人にもそう思ってほしい。ここにいるみなさんは早稲田大学卒業というブランドですごく守られると思います。そんなみなさんがリスクをとっていくべきですよ。でなければ誰が挑戦するんですか? 日本ではエリート層のチャレンジ精神が少ないと思います。

                                                      HBS卒業式の様子

岩瀬さんは今までにいわゆるエリートと言われる経験を積み重ねて、その結果として成功されたように感じますが、まだ具体的に何をやりたいかわからないけれど、将来リスクをとって、ベンチャーをやりたいという人はどうすればよいと思いますか?

ベンチャーをやりたいと思うなら、実際にベンチャーに入るか、少なくとも小さい規模の会社に行くべきです。当たり前ですが、ベンチャーに近い環境で経験を積むべきだと思います。僕自身についてもすごい経歴だと言われだしたのはつい最近のことで、起業という道がうまくいきだして、初めて周りから認められたんです。以前はむしろ、「司法試験に受かったのにコンサルティングファームに行った変わった人」でした。しかも、そこもすぐに辞めてベンチャーに行って、そこでも最初はうまくいかなかった。その次はさらに職種を変えてファンドに行った。当時、ファンドは全然知られていませんでした。BCGの先輩からも、岩瀬はなかなかできる奴なのにコロコロ仕事を変えてもったいないと言われていました。それが最近になって、コンサルティングファーム、ベンチャー企業、ファンドが流行ってきただけのことです。
当時、僕自身もすごい経歴をたどっているとは思わず、ただみんなが行かない道を選んでいました。例えば今も、何で生命保険なんかやっているの? もっと大きいこと、もっと楽しいことをやればいいのに、などと言われます。でも、僕はこういう風にみんなが言うからこそ、生保がおもしろいと思っているし、金融の中のプラットフォームとしての重要性、人々の生活に与える影響の大きさ、競争が少ない点など多くの点ですごく良い業界だと思います。このように、人と違う風に感じることが重要だと思います。みんながあこがれる道とは全然違う、むしろなぜ? と思われながらも、自分らしいことをやってきた。その結果として今があるんです。華やかなエリートの道をたどってきた積み重ねで、ここまできたわけではないんですよ。

リスクをとって常に挑戦されてきた岩瀬さんですが、将来のビジョン・目標を持って、キャリアを選択されていますか?

「将来のことは本当に分からない」と思っています。例えば、10年前に今のようになるとは夢にも思っていませんでした。これから10年後のことも全然分からないし、また予想が当たったらすごくつまらないことだと思います。10年前のちっぽけな世界観では思いつけない、想像もできないようなことをやりたいと思いますね。でも、最近ひとつ目標ができて、「60歳になったときに元気な若者を捕まえて、荒唐無稽なベンチャーをやれたらおもしろいな」と思っています。
社会人生活については、終わりよければ全て良しだと思っています。自分の父親が会社を退職する前の最後の仕事をすごく楽しんでいて、それを見ていて、僕もうれしかったんですよね。父親とライフネット生命社長の出口(58歳にしてライフネット生命保険の前身であるネットライフ企画株式会社を創業)を見て、今(若いうち)よりも、どうやって後ろ(キャリア後半)を上げていくかが重要と思うようになりました。だから、今は力をためる時だと思います。ただ、あっという間に36歳になってしまったので、毎日必死に生きていくということは意識していますね。

日本で通用することなら海外でも通用する

留学当初、HBS修了後はアメリカで働くつもりで、またHBSで優秀な成績を残したのに、なぜ日本に戻ってこられたのですか?

ビジネスに関していえば、アメリカも日本もヨーロッパもあまり変わらないと分かったからです。例えば、日本のトップ5%とアメリカのトップ5%の企業のビジネス・レベルはほとんど変わらないと思います。日本で通用することなら海外でも通用します。例えば、グローバルな会議でも難しいことやすごいことを言う必要はないんです。学生の皆さんも著名な経済系のブログ等を読んでいると思いますが、内容的にはそこで議論されていることをちゃんと自分で咀嚼して話すことができれば大丈夫です。
また、HBSの仲間に、今とても熱いマーケットであるアジアに帰らないのは、ローカルな強みがあるのにもったいないと言われたことや、日本で成功できないならアメリカでも成功することは無理だろうという考えもありましたね。アメリカと比べると日本は競争が少ない点も良いと思います。例えば、ベイカースカラー(HBSをトップ5%以内の成績で修了した人に与えられる称号)は毎年45人排出されます。30年経つと1,000人以上のベイカースカラーが誕生するわけです。実際、アメリカの一部の投資銀行などでは社員がベイカースカラーばかりということもあり、それほど存在価値が際立たないんです。また、大人になってからの海外生活は初めてで、常に自己主張し続けないといけないカルチャーには少し疲れました。日本の方が食べ物もおいしいし、自分にとって居心地がよかったですね。

日本のトップ企業もアメリカのトップ企業も同じであるとしても、日本経済の状況は悪くなっているように思うのですが、どのようにお考えですか?

平均では確かに落ちています。例えば、GDPの成長率や世界の企業の株式時価総額の上位に日本企業はあまり名を連ねていないという点、新聞等で盛んに日本経済に関して悲観的なことが報じられている点は事実です。しかし、平均で見ることにあまり意味はなく、むしろ過ちを起こしやすいと思います。マクロじゃなくてミクロで見るべきともいえます。例えば、最近の学生のことをとってみても、内向きだとか言われていますが、僕が学生の頃は、学生で名刺を持っている人はいなかったし、社会起業家やベンチャーをやっている人なんかいませんでした。この「グローバル人材プロジェクト」のように社会人を呼んで勉強をするなどという機会もなかったです。
ただし、学生のなかで、意識の高い人とそうでない人の二極化が進んでいることは事実だと思います。それと同じで、日本企業にもだめな企業とすぐれた企業があります。ある企業は大きな損失を出していますが、利益を出している企業もたくさんある。みなさんは伸びている会社に行けばよく、マクロの心配をする必要はないんです。そこで自分たちの周りをよくしていくことが重要です。また、新聞などでは書き手の意見・主観が如実に表れ、事実が実際と異なるニュアンスで伝えられてしまうこともあります。自分の手足で情報を調べ、自分の頭で考えることが非常に重要で、メディアの情報に踊らされて安易に日本がだめだと思ってしまってはだめですよ。

皆さんこそが社会を変えるんだという気概をもってほしい。今は世界を意識しないわけにはいかない

岩瀬さんのご経験から、グローバルに活躍するために特に学生時代にやっておけば良いと思われることはありますか?

まず、英語を勉強することは重要です。社会人になってからでももちろんいろんなことにチャレンジはできますが、まとまった時間をとるのが難しいので、学生時代は特に多くの時間を必要とすることをやるべきだと思います。その最たるものが語学です。ただ、流暢、いわゆるペラペラにならなくても大丈夫です。例えば、会議に行って、中国人、韓国人、インドネシア人、タイ人、ドイツ人、ブラジル人と、下手な英語でも良いから、言いたいことを言えるか。アメリカ人と同等でなければいけないと思うとハードルが高いと感じるかもしれないけれど、下手な英語でよいと思えば、そんなにつらくはないはずです。また、実際仕事をするようになればいつも同じようなことを話すので、使う語彙や言い回しなども絞られてきます。他にも、国際的なコミュニケーションの”お作法”を知っているということも大事です。例えば、男性だったら、へなっとした弱々しい握手はだめで、目を見てぎゅっと力を込めて握手する。まずはそこから始まります。これを学ぶには場数を踏むしかないです。コミュニケーションに関するお作法、メールの書き方や会議で別れる時の挨拶などをちゃんと習得すれば、世界は遠くないと今は感じています。
そのような作法を前提として、何より重要なのがコンテンツとメッセージです。コンテンツはボキャブラリーを圧倒します。要は、自分が伝えたいことがあるかということです。僕ら日本人は学校などであまり意見を求められてこなかったと思いますが、欧米の人はいちいち反論してきます。世界で起こっていることを理解し、自分なりの意見をきちんと伝えられるようになることです。自分の意見を持っておくことは、グローバルに活躍するためには必須です。

世界を舞台に活躍したい学生に向けて最後にメッセージをお願いします。

皆さんこそ、自分たちが社会を変えるんだという気概をもってほしい。今は世界を意識しないわけにはいかない時代です。学生時代に留学したり、海外の人たちと積極的に会うのもよいと思いますし、一生懸命勉強するということも大事です。活躍している人は、みんなとても勉強しています。例えば、今世界で起きていることについて、社会人の僕のほうが学生の皆さんよりたくさん勉強していると思います。でも学生の皆さんこそしっかり勉強するべきですよね。実は、社会人も大学生も勉強しないで乗り切れるんですよ。反射神経、常識、ノリなどがあれば(笑)。ですが、僕は常にエコノミスト、フィナンシャルタイムズ等をチェックし、それ以外にも色んな本を読むようにしています。また、同世代のビジネスマンの中では、一番勉強しているくらいの自負を持っています。そのような積み重ねで少しずつ差がつきますよ。皆さんにも世界で起こっていることも常に意識して、これからも勉強してほしいなと思います。

                                        シンガポールのITカンファレンスにて

 

編集後記

グローバルに活躍することに憧れているけれど、その途方もない大きな目標に、具体的に何をしていいのか分からない人も多いと思う。そのような人の1 人である僕にとって、実際にグローバルに活躍されている岩瀬さんから、直接、世界のビジネス・レベル等について伺えたことは、知識・情報が得られたという こと以上に重要な意味を持つことになった。さまざまな現場を知っているからこその説得力。努力することで、グローバルに活躍することも夢じゃないと感じ た。日本の現在の状況を憂う人はとても多いが、自分の置かれている状況について、自分で考え、行動する必要がある。現在グローバルに活躍している人達が、 リスクをとって果敢に挑戦していた年齢に、僕もあっという間に到達してしまうことを意識し、毎日必死に努力していきたいと思う。

大芝 竜敬(会計研究科2年)

 

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