小さい頃、よく図鑑を眺めていたことを覚えている。「共働き家庭の一人っ子」という現代日本のスタンダードというべき環境で育った私は、本の虫になっていた。その中でも生物図鑑がお気に入りで、古代恐竜のページや人類の進化について書かれている項目が好きだった。他の生物と比べて非力である人類は生存するために知能を発達させ、そして集団で行動することを覚えた。知能の発達によって人類は食物連鎖の頂点に上り詰めた現在、私たちは知の功罪と直面している。

あなたは、日常生活に違和感を覚えることはないだろうか。たとえば朝の通勤時間である。イヤホンをして音楽を聴いている人は自分の世界に入っているし、SNSを通じた会話はしても、隣の席に座っている人とは一言も口を利かない。学校や会社で自らをすり減らし、郊外にある自宅に戻って疲れが癒え切らないうちに、また出かける。休むといいながらも、仕事のない日こそ家族サービスや私的な用事を済ませるなど、やることは山のようにある。財を生産し、それをサービスや物で消費する現代社会の在り方に疲れてしまう人が後を絶たない。知能の発達は技術革新をもたらし、確かに人類の生活は豊かになったが、利便性と効率性を求める社会形式が人類にとって幸せだろうか。行き過ぎた進化は人類を破滅の道へと追い込んでいく。

 

レイ・カーツワイルが「The Singularity Is Near」の中で予測した技術的特異点は2045年から2030年に早まると提唱する学者が増えてきた。数十年後には、人類の一割だけが働き、残りの人々は国からの基礎給付金と配給によって生活しているだろうと早稲田大学の教授が書かれた論文も目にしたことがある。第一次産業は機械に取って代わられること必至で、人類は機械との戦力競争で勝ち目がない。AIの発展によって、思考を持つ機械にも最低限度の権利を保障するべきだという「ロボット倫理学」なども生まれている。これらの事実が我々に過度な仕事を強制し、自らの存在価値に疑問を抱かせるのだ。しかし、機械に立場を奪われないようにしようとする人間の努力は、基本的な対人コミュニケーションや「こころ」を形骸化させ、皮肉にも彼ら自身をロボットに近づけてきた。機械の台頭が進む中で人類が差別化を図るために、どのようなことができるだろうか。

 

 

ICCで働き出してから、以前にも増して早稲田大学は多様性に富んだ大学だと感じる。これは国際色に限った話ではない。珠算オリンピック出場者やフィンスイミング日本代表のような一芸に秀でた人、サークル活動に全力で取り組んでいる人、国家試験に向けてひたむきに勉強している人など、周りを見渡せば多種多様な才能が世界各地から集まっている。そのような環境に置かれた私は、自分の将来についてこれまで以上に深く考えるようになった。東大卒の半分が失業する時代、機械が人類の生産性を上回る時代に「どう生きていくか」という選択が迫られている。どれだけAIが発達しても人間が持つ「こころ」を完全に再現することはできない。機械は人間のように「生み出す」ことはできない。すなわち私たちはホスピタリティ、そしてクリエイティビティという点で機械に勝ることができるのだ。これを踏まえて、数年先の自分に思いを馳せる――。私は決して消費の道具ではない。私は仕事をこなすようにプログラミングされたロボットではない。あなたは人間ですか、それともロボットですか?

 

M. U. (Student Staff Leader)