作者別: admin (2ページ / 48ページ)

多様性に飛び込め

みなさん、こんにちは。
この秋から、ICCのSSL(学生スタッフリーダ―)の仲間入りをさせていただきました、K.M.です。

気づけば、もう年末、、、と感じている方も多いのではないでしょうか?
私にとっても大学に入学して、気づけばもう一年が経過しようとしていました。そんな時に初めてのICCのブログの執筆ということで、まず今回は異文化交流について、自分が特にこの一年間で経験し感じたことを簡単に書いていこうと思います。(書きたい内容は他にもたくさんありますが笑)

私はアメリカで生まれましたが、物心ついたころには東京に移り、それから今まで小中高と過ごしてきた東京人です。(なので出身を聞かれると、とりあえず東京と答えます笑)

しかしそんな私は現在、早稲田大学の国際学生寮WISHで暮らしているんです!
東京に実家があるのになぜ、わざわざ東京の寮に入るのか疑問に思う人も多いと思います。実際初対面の人には必ずと言っていいほど質問されます笑

理由はいたって簡単かつ明確。
WISHに入寮したきっかけは、出身地や学部関係なく、多様な価値観をもつ仲間と共に切磋琢磨する、そんな環境にチャレンジをしてみたかったからです。

WISH外観

WISHには現在、800人以上が住んでおりその約4割が20カ国・地域の外国人学生で、4人1部屋で共同生活を行います。
ルームメイトには必ず日本国籍以外の寮生が少なくとも1人は入るという設定もなされているのです。
私の場合は、同じフロアの韓国の留学生と仲が良かったため、夏休みには韓国の実家にホームステイに行かせてもらいました。

本場のサムギョプサルは絶品!笑

また、この寮独自で参加必修の「SI (Social Intelligence)プログラム」というグループワークを中心とするアクティビティが行われます。
課題解決や論理的思考能力の向上を目的としたもので、社会人の方をお呼びすることも多く、寮生と共に議論をしあったりする場は非常に刺激的です。

SIプログラムの様子

SIプログラムの様子

さらに、SIプログラムでの評価で寮内での成績優秀者に選ばれると、年に2回海外へ無料でインターンシップに参加させていただける機会もあります。
私はこんな素晴らしいチャンスを見逃すわけにはいかない、という思いで積極的にプログラムに参加しました笑
そして幸運にもアワード寮生に選抜され、現地でチームメイトとフィールドワークとプレゼンを行ってきました。
私が行かせていただいた際は栄光ゼミナールの海外インターン生として『ベトナムにマッチしたSTEM教育を特定せよ』という任務を言い渡され、5日間ベトナムに派遣されるものでした。
現地ではグループに分かれ、最終日の成果発表までに1からグループでフィールドワークのプランをねって調査を行いました。

聞き取り調査を行ったハノイ工科大学

成果発表プレゼンテーション

 

日本語はもちろん、英語も少ししか通じないなか、試行錯誤し仲間とともに困難を乗り越えた経験が特に強く印象に残っています。(もっと具体的に書きたいですが、またの機会に)

私はこの一年間の大学生活で経験してきたことを通じて、、、
決まり切った選択や安定のルートといった“既存の枠組み”が重要なのではなく自分の目的意識と自らチャンスをつかみ取るような積極性がより重要だと強く思うようになりました。
「異文化の中に飛び込む。」
最初は勇気がいることかもしれませんが、自分が思いもしなかったアイディアや世界観にふれることができるのではないでしょうか。
早稲田は特に留学生や日本各地からの学生が多く集う大学です。
知的好奇心を広げ、自由に追求することや、新たな挑戦をしたいという姿勢があれば、ICCの活動を含め、様々な角度からの情報を得るチャンスはあると思います。

集まった多種多様なバックグラウンドを持つ仲間とともに、今ある環境を最大限に活用して互いに成長しあえる場に変えるにはどうすればよいのか。
刺激的で互いに成長し合えるような場を作り上げていくことができるのか関心をもったことが私のICCに飛び込んだ理由でもあります。

今ある環境を土台に、いかに学生同士が意見交換・視野拡大に努め、反応しあえるかが課題だと感じています。現状のまま満足し過ごすのでなく、ICC学生リーダーを中心に学生が主体的に工夫点や改善点にコミットし続けることがより快適で、お互いに高め合うことのできる場を作り上げることに対し重要となってくると思っています。

多様なバックグラウンドもつICCの学生スタッフが,自ら主体的に創り上げるイベントをこれからもお楽しみに!
では。

K. M. (Student Staff Leader)

Exploring Korea without a passport in Tokyo

Meeting familiar signs, music and smells while walking the streets of Shin Okubo, I thought that I am back in the early 2000s of Korea. I have been to Korea Town in Chicago, New York, Los Angeles and Vietnam. However, the one in Tokyo is the most developed one throughout the world featuring the representative culture of Korea.

When Japanese think of Korean culture, the first to come out will be K-pop, delicious food and cosmetics. Today, I would like to explain the most satisfying places I have experienced in Shin Okubo as a Korean perspective.

 

First of all, the 韓国広場(kankoku hiroba), a Grocery store,  has almost everything you are looking for! Also, the price of the products are not that expensive compared to the same product’s price of Seoul. My recommendation from this supermarket is black bean soy milk. This can be a great alternative for breakfast especially if you have a lot of 1st period classes.

Next, the place where I want to introduce is ‘SKINGARDEN’. This shop is specializes in selling cosmetics for skin care products. There is not only one brand but also various brands to compare and choose for the best one for individual skin types. Since there are many reasonable Korean cosmetics, please do try!

More and more people around the world are having an interest in Korean culture due to K-drama and K-pop. Fashion, music, lifestyle reflected on K-contents are getting popular day by day. The ICC is also having a Korean lunch during the semester. If you are eager to learn more about Korean culture and practice Korean, please do come and join! If you are Korean, please share your cultural background and support the students who are having an interest in Korea! Looking forward to meeting you guys in the ICC lounge!

H. H. (Student Staff Leader)

A Message for “Supporters” from the ICC Student Staff (from the“ICC Thank You Party”) / ICC学生スタッフからサポーターの皆さんへのメッセージ(「サポーター慰労会」より)

Many of the ICC’s events are held successfully thanks to the volunteer students called “supporters”.
On December 12th, we held an ICC Thank You Party to express our appreciation to the supporters who helped with our events during this semester. Below are the speech made by one of the ICC student staff at the end of the party.

ICC will call for supporters for various events again in the spring semester.
We hope you come and join us as supporters!

ICCのイベントの多くが「サポーター」と呼ばれるボランティア学生の皆さんに支えられています。
去る12月12日、サポーターの皆さんへの感謝をお伝えする趣旨で「サポーター慰労会」を開催しました。
以下はその際にICCの学生スタッフ1名がサポーターの皆さんに対して行ったスピーチです。

春学期も数多くのイベントでサポーターを募集する予定です。
たくさんのご応募お待ちしています。

***********************************
改めまして、今日は忙しい時期にも関わらず足を運んで下さってありがとうございました。
一年の最後に皆さんの顔を見ることができて、本当に嬉しく思います。

少し個人的な話をさせていただくと、私は2014年にサポーターとしてICCに関わり始め、2015年から学生スタッフとしてICCで働いています。
この3年間で、卒業や留学で早稲田を離れる人がいたり、毎年新入生が入ってきたりと、ICCに足を運んで下さる方の顔ぶれは大きく変わりました。
私自身も、就職活動のために半年間ICCから離れた時期もありました。
そんな中で実感しているのは、忙しい学生生活のなか、ICCにコミットして下さっているサポーターさん一人ひとりの存在の大きさです。
ランチイベントやぺらぺらクラブのような定番イベントであっても、前の学期にサポーターをして下さった方がまた次の学期もサポーターをできるとは限らないですし、カントリーフェスタのように新たに協力して下さる方がいるから成り立つイベントも沢山あります。

ここにいらっしゃる皆さんは、先ほど自己紹介をして下さったように、様々なイベントで、それぞれが違った形でICCに関わって下さっています。
何か新しいことをやってみたい、不安だけど挑戦してみたいという気持ちで勇気を出して応募して下さった方もいれば、勉強や就職活動で忙しいなか、時間を見つけて協力して下さった方もいます。
そんな皆さん一人ひとりの気持ちや行動が、ICCの活動を支えて下さっています。心から感謝申し上げます。

最後にお伝えしたいのは、ICCは皆さん一人ひとりの個性を必要としているということです。
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、今年からICCの日本語名称は「国際コミュニティセンター」から「異文化交流センター」へと変わりました。これは、もはや日本人・外国人の間の国際交流という枠に留まらず、一人ひとりのもつ多様な異文化の交わるセンターを目指していくという意味だと解釈しています。
もしかすると、皆さんの周りには「国際交流って自分には関係ないな」と思っている友人の方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではなくて、すべての早大生が個性を発揮して交流できる場となるよう、サポーターの皆さんと力を合わせて目指していきたいと思っていますので、これからもICCに関わって下さると嬉しいです。
今学期は本当にありがとうございました。

人間のロボット化

小さい頃、よく図鑑を眺めていたことを覚えている。「共働き家庭の一人っ子」という現代日本のスタンダードというべき環境で育った私は、本の虫になっていた。その中でも生物図鑑がお気に入りで、古代恐竜のページや人類の進化について書かれている項目が好きだった。他の生物と比べて非力である人類は生存するために知能を発達させ、そして集団で行動することを覚えた。知能の発達によって人類は食物連鎖の頂点に上り詰めた現在、私たちは知の功罪と直面している。

あなたは、日常生活に違和感を覚えることはないだろうか。たとえば朝の通勤時間である。イヤホンをして音楽を聴いている人は自分の世界に入っているし、SNSを通じた会話はしても、隣の席に座っている人とは一言も口を利かない。学校や会社で自らをすり減らし、郊外にある自宅に戻って疲れが癒え切らないうちに、また出かける。休むといいながらも、仕事のない日こそ家族サービスや私的な用事を済ませるなど、やることは山のようにある。財を生産し、それをサービスや物で消費する現代社会の在り方に疲れてしまう人が後を絶たない。知能の発達は技術革新をもたらし、確かに人類の生活は豊かになったが、利便性と効率性を求める社会形式が人類にとって幸せだろうか。行き過ぎた進化は人類を破滅の道へと追い込んでいく。

 

レイ・カーツワイルが「The Singularity Is Near」の中で予測した技術的特異点は2045年から2030年に早まると提唱する学者が増えてきた。数十年後には、人類の一割だけが働き、残りの人々は国からの基礎給付金と配給によって生活しているだろうと早稲田大学の教授が書かれた論文も目にしたことがある。第一次産業は機械に取って代わられること必至で、人類は機械との戦力競争で勝ち目がない。AIの発展によって、思考を持つ機械にも最低限度の権利を保障するべきだという「ロボット倫理学」なども生まれている。これらの事実が我々に過度な仕事を強制し、自らの存在価値に疑問を抱かせるのだ。しかし、機械に立場を奪われないようにしようとする人間の努力は、基本的な対人コミュニケーションや「こころ」を形骸化させ、皮肉にも彼ら自身をロボットに近づけてきた。機械の台頭が進む中で人類が差別化を図るために、どのようなことができるだろうか。

 

 

ICCで働き出してから、以前にも増して早稲田大学は多様性に富んだ大学だと感じる。これは国際色に限った話ではない。珠算オリンピック出場者やフィンスイミング日本代表のような一芸に秀でた人、サークル活動に全力で取り組んでいる人、国家試験に向けてひたむきに勉強している人など、周りを見渡せば多種多様な才能が世界各地から集まっている。そのような環境に置かれた私は、自分の将来についてこれまで以上に深く考えるようになった。東大卒の半分が失業する時代、機械が人類の生産性を上回る時代に「どう生きていくか」という選択が迫られている。どれだけAIが発達しても人間が持つ「こころ」を完全に再現することはできない。機械は人間のように「生み出す」ことはできない。すなわち私たちはホスピタリティ、そしてクリエイティビティという点で機械に勝ることができるのだ。これを踏まえて、数年先の自分に思いを馳せる――。私は決して消費の道具ではない。私は仕事をこなすようにプログラミングされたロボットではない。あなたは人間ですか、それともロボットですか?

 

M. U. (Student Staff Leader)

三浦半島

皆さんこんにちは!もうあっという間に年末ですね。皆さんスケジュールはばっちりですか?
ICC も今学期の多くのイベントが終了し、ちょっぴりホリデイ気分ですが、ラウンジはまだまだオープンしていますし、残っているイベントもありますのでお気軽に遊びに来てくださいね!冬季休業中も開室してお待ちしています!!

さあ、今回のブログでは最近私が訪ねた横須賀と三浦について書きたいと思います!皆さん横須賀に行ったことはありますか?どこにあるのかご存知ですか?

横須賀と三浦はここ!神奈川県の下の方にあります!

 

神奈川県というと東京のすぐ下にあって横浜もあって都会!というイメージが強いかと思います。私もそのようなイメージを持っていた1人でした。なので今回横須賀と三浦を訪れてその予想外の自然の豊かさに本当に驚きました!
私は京急川崎駅から京浜急行線の終点、三崎口駅まで乗車したのですが、まず車内から見える街並みの変化も見ていても面白かったですし、さらに終点に近づくと海もちらほら見えてきて、その時から同じ神奈川にも色んな景色があるのだなとなんだか感動し始めていました。そしていざ終点三崎口駅で降りてそこから目的地目指してバスに乗ると、程なくして道の両脇に畑が広がり始めました!

私の祖父母の家は岩手県にあるのですが、この景色はどこか祖父母の家を思い出させるようなものでした。東京からそう遠くない所にこのような自然が感じられる場所があるのは良いものですね。私は今回行けなかったのですが、三浦半島にはフォトジェニックなスポットもたくさんあるようですよ!

また私は今回直売所にもうかがったのですが、地元の新鮮なお野菜や、お魚、お肉が沢山販売されていました。地元の特産の葉山牛を使用したメンチコロッケをいただきましたが、ジューシーで本当においしかったです。三浦半島と言えば、マグロも有名ですのでマグロなどの海鮮系を目当てにこの地域を訪れるのもありですね。江の島あたりはシラスなどの海鮮が有名で遊びに行く人も多いかと思いますが、この地域の海鮮のほうが安くておいしくてお得だ!と直売所の方もおっしゃっていました(笑)

横須賀・三浦と同じように神奈川県の下のほう、三浦半島に近い鎌倉などは皆さん訪れたことがある人も多いかと思いますが、鎌倉と横須賀・三浦はそこまで離れていないので、ちょっとした小旅行をしてみたいと思っている方にこの三浦半島は本当におすすめです!
ぜひ一度訪れてみて下さい。

 

A. S. (Student Staff Leader)

他人と比較せず、対自分で判断し、自分だけの“生きる意味”を見つけてほしい

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2013年7月29日公開)

株式会社 マザーハウス 代表取締役兼チーフデザイナー
山口 絵理子

© Takahiro Igarashi(520)

1981年埼玉県生まれ。小学校時代にいじめに遭い不登校となる。中学時代はその反動で非行に走るが、柔道に出会い更生。埼玉県立大宮工業高等学校「男子」柔道部に唯一の女子部員として所属し、全日本ジュニアオリンピック第7位の成績を残す。2004年慶應義塾大学総合政策学部卒業後、バングラデシュBRAC大学院開発学部修士課程に入学。三井物産株式会社のダッカ事務所でインターンシップを経験。2006年株式会社マザーハウスを設立。

米国でのインターンシップを経て強まった「途上国」への想い
どのような大学生活を過ごされましたか?

とにかく勉強をしていました。授業が難しかったので、ずっと図書館で授業の予習復習をしていて、基本的に一人ぼっちでしたね。それに、高校まで柔道漬けで、工業高校出身だし、「この人たちと対等に話していいのかな」というコンプレックスがありました。今思うと、もっと相談できる友人を作っておけばよかったなと思います。同じように大学で過ごしたゼミのメンバーたちと比べると、私は違和感があるものをなかなか受け入れられないタイプで、「なにか違うんじゃないかな」とか、「本当はこうなんじゃないかな」と思ったことは、実際に調べてみたり、見に行かないと気が済まないタイプでした。

4年生の時にワシントンにある米州開発銀行でインターンシップに参加されますが、そこではどのような経験をされましたか?

途上国に対して直接貢献できる仕事をしたいと思い志願したのですが、現地では最初から苦労の連続でした。決して英語が堪能ではなかったものの、それでも選考を通過し、晴れて行けることにはなったのですが、実際は電話を受けるにしても、会議で発言するにしても、とにかくすごく勇気が要りましたね。何をするにも人の倍くらいの時間がかかってしまっていたと思います。だけど、言葉を発してコミュニケーションをとらないと仕事は進まないし、英語に苦手意識を感じていちいち気にしていても仕方がないので、必要に迫られ、開き直ってやっていました。同じインターン生のアルゼンチン人とルームシェアをしていて、仕事以外の時間も日本語を話す機会がゼロだったので、帰国してから日本語が上手く出てこないほど朝から晩まで英語漬けでしたね。
米州開発銀行は中南米・カリブ海諸国の社会・経済発展の支援を目的にした、世界銀行に次ぐ規模の国際開発金融機関で、私はその中でも予算戦略本部に配属され、銀行全体の予算と、銀行内のプロジェクトへの予算の割り当てを上司と一緒に行いました。ただ、そういった業務を経験した後も「果たして自分たちの支援が現地に届いているのか」が、わからなかったんです。もしかしたら自分にはその実感がないだけで、本当は届いているかもしれないとも思ったけれど、自信がありませんでした。その小さな疑問は、どんどん大きくなり、雇用契約が切れる間際に「自分の将来の進路を決める前に、途上国への援助が役に立っているのか、自分の目で見てみなければいけない」ということだけは確かだろうと思いました。そしてインターン終了後、「アジア 最貧国」で検索して出てきたバングラデシュに、ワシントンから直接向かいました。

現地での援助の効果を知りたいという目的で訪れたバングラデシュで、大学院まで進学されたのはどうしてですか?

はじめは短期滞在のつもりだったのですが、簡単には答えが見つからず、滞在するにつれて「私にはもっと現地を見て、現状を知る時間が必要だな」と思いました。調べてみると、教育ビザを取得すれば現地に2年間滞在できることが分かりました。それで、BRAC大学院というバングラデシュで一番大きいNGOが運営している私立の大学院の開発学部に興味を持って、試験を受け、進学を決めました。
専攻の開発経済学の授業では、NGOや国際機関から派遣された先生たちから、援助とは何かを教わりました。現地で学んでみてわかりましたが、基本的に途上国の教育というのは20年くらい遅れているんですよね。教科書も内容の古いものを使っていて、パソコンは10台くらいしかないし、試験も「テスト範囲は教科書全部だから丸暗記してきなさい」というものでしたから、学んだ内容自体には正直あまり意味を感じられませんでした。最新の情報に基づいた教育という意味では先進国の大学院の質とは比べ物にならないですね。
大学院の授業は18時からだったので、夕方まで三井物産のダッカ事務所でインターンシップをしていましたが、そちらの方がもしかしたらためになったかもしれないです。たとえそれが単純な事務作業であっても、三井物産の方と何か一つの仕事を一緒にやり、色々な工場を見ることができましたし、何よりインターンシップの一環で訪れた現地の展示会で、ジュート(※)という素材に出会えたのが人生の転機になりました。
※麻の一種で、処理する際100%土に還るエコフレンドリーなバングラデシュ特産の繊維素材。主に、じゃがいもやコーヒー豆を入れる袋として使用される。

他人との比較や競争ではなく、自分らしい仕事をやっていこう
大学院を卒業して、現地で起業をするという決断をされるまで、悩みや葛藤はありましたか?

バングラデシュに行ってからジュートに出会うまでの一年半くらいは、米国でのインターン時代に抱いた「途上国への援助が役に立っているのか」という問題意識に対する答えが見つからずに悶々としていた時期で、自分の気持ちが固まらないまま他の学生と同じように就職活動もしていました。けれどジュートに出会ってからは、「この素材で、何か人々のイメージを覆すようなものができるんじゃないか」という想いが強くなり、やがて「今はただの麻袋でしかないこのジュートを、もっと付加価値を付けたファッションバッグにしたい!」という目標ができました。それからはまったく悩むことはありませんでしたね。「これしかない」と思い、もう突っ走るだけだった気がします。両親や教授も含めて、誰かに相談する意味もあまり感じなかった。迷いがあったら相談したかもしれないけど、相談して意志が変わるというレベルではなかったです。

© Takahiro Igarashi(520) 直営工場マトリゴールにて

起業後に「こういうことをやっているんだ」、「こういう夢があるんだ」っていうのは、周囲に伝えていましたが、返ってくる答えは「絶対不可能、無理だよ」、「もっと考えなさい」というネガティブなものばかりだったので、途中からそういう言葉の引力に引きずられないよう、周りに意見を求めるのをやめました。
事業が成功するかどうかや、失敗したらどうするかなども考えませんでした。「このゴワゴワしている麻袋がどうやったら可愛くなるかな」、「そうなったら本当に素敵だな」という想いが私の思考を支配していて、そのための方法を考えるだけでもう精一杯でした。
日本に帰ってきてから自分の起業話をすると、とても大きいことをしているかのように捉えられるんですけど、バングラデシュにいたらもっと大変なことがたくさんあるし、もっと懸命に仕事をしている人ばかりで、私自身そういう認識はありませんでした。本当に底辺の生活の中に二年間もいたので、自分が偉大なことをしているという意識はなかったんです。日本に帰ってきてメディアの人たちと接して、日本ではこれだけ価値のあるストーリーなんだと初めて知ったんです。

現地では文化的に違うこともたくさんあると思いますが、どのような点に苦労されましたか?

始めは、洪水やテロなど不自由な中でもきちんと生活していくという、現地の人にとっては当たり前のことが自分にとってはハードルが高く、大変でした。現在も日本の本社と現地工場を往復する生活をしていますが、現地で生活する中で苦労がない時はなく、常に色々なことが起こります。むしろ日本は特別だと思うようになりましたね。あらゆる面でこんなにも恵まれ、リラックスして街を歩ける方が特殊で、日常生活に危険がつきまとっている国や地域の方が普通だと思います。
起業してからは特に大変なことだらけでした。汚職率世界1位のバングラデシュでは、一市民でも日常のあらゆることに賄賂を要求されます。また、バングラデシュで一から土地を捜し歩きやっと立ち上げた工場で、作業中にパスポートを盗まれたり、ある日工場に行ってみたら、人もおらずモノも全てなくなっていたり…。大変な生活だったけれど、そのような、裏切られたり騙されたりしなければいけない生活を強いられているんだなと少しずつ理解するようになりました。もしその都度感情的になっていたら、途中で挫折していたかもしれないです。

© Takahiro Igarashi(520)

現地の工場を運営するのも、最初はもう失敗だらけで・・・たとえばバングラデシュは「相手のプライドを傷付けたら何も動かない国」だと思います。一方的に怒ったり、指示をしたり、或いは相手の権利に乗っかって何かを動かそうとすると、全然動きませんでしたね。生産を始めた当初、みんなの作業が遅くて、とにかく毎日怒ってばかりでした。しかし、そういう進め方をすると、さらに納期が遅れて、何も進まなくなったんです。そこで、うまくできた時には相手を褒めちぎるようにしたところ、みるみる内に作業がはかどるようになりました。彼らはすごく自尊心やプライドが高いので、むしろそこと調和するような形で指示を出していかないと難しい。何度も何度もそういった失敗をして、だんだんわかってきました。

バングラデシュに渡る前と後で、ご自身にどのような変化がありましたか?

大学四年生時の自分は、周りのみんなが就職活動をしてすごく良い会社に決まっていく中、私は本当にバングラデシュにいていいのかなとか、色々なことを誰かと比べて考えていたし、ジュートで鞄作りを始めた頃なんて、「この世界で2位になったらだめだ、1位でなければだめなんだ」という想いで、365日過ごしていました。でも、バングラデシュで生活していく中で、「自分が死ぬ時、誰かと比べて勝っていたら幸せに死ねるかって言ったらそれは絶対に違う。自分のやり遂げたいことをやり切ったから幸せに死ねるんだ。それって対自分でしかないじゃん」と思うようになりました。バングラデシュで洪水が起きると、何千人もの人が犠牲になります。実際に目の前で死んでいく人達を何度も見ました。そして、彼らを見て思ったんです。「彼らは隣の家より貧しかったと悔しがりながら死んでいるか」と。そういう本質のところをずっと問い続けてきて、自分との対話の先にあったのが、「もし何十年か後に、このマザーハウスが何十万円しか売り上げのない、ちっちゃなちっちゃなネットショップになってしまったとしても私はやっていこう」、「これこそ自分らしい仕事だ、誰にバカにされようともやっていこう」という強い思いでした。以来、「誰かと比較してどうのこうのっていうところで生きるのは嫌だな」と感じています。

米国でのインターンシップを経て強まった「途上国」への想い
自分の進むべき道を見つけるために、学生時代に学んでおくべきことは何でしょうか?

それぞれの価値観で考えて、自分にとって幸せだと思えることが見つかれば、それでいいと思います。それはもう、百人に百通りの選択肢があるので、何が正しいのかというのは自分で見つければいいと思います。
私の場合は、バングラデシュに行って、自分の「生きる意味」を見つけることができたので、それをやり続けるのが私なりの幸せの価値基準であり、大変だからって簡単にやめられるものではないんです。

© Takahiro Igarashi(520)  マトリゴールのスタッフたち

また、経営などの知識ももちろん必要だと思いますが、一番必要なのはビジョンですよね。それに、やりながら身に付く力やスピードの方が圧倒的なものがあると思います。私自身バッグを作ったことも経営を学んだこともなかったのですが、実際に作ってみると、「こういうふうにして、いろんな経費がかかるんだ。だから月の売り上げがいくら必要なんだな。そしたら最低これくらいは売らなければならないんだ…」と学んでいくわけです。こうやって体で覚えてやってきたので、今でも本はほとんど読まないですね。たまにあらためて工場運営の本を読んだりして、「あ、これやったことあるな」って振り返ることはありますが、それくらいです。新聞も読まないですよ、経営者なのに(笑)
マザーハウスは、大企業と戦って何とかやっていこうという方針ではなくて、むしろ会議では「それってマザーハウスしかできないことなの?」、「それってうちがやらなきゃいけないのかな」って6年間ずっとずっと言っています。それはつまりは、他の人がやっていないことをやることになるので、本には絶対書いてない。だから自分たちの頭を使わなければならない。すべてオリジナルなことをやりたいのであれば、もしかしたら答えは本じゃなく、自分の頭の中の創意工夫とかクリエイティビティから出てくるのだと思います。

最後に、学生にメッセージをお願いします。

マザーハウスが受け入れているインターンシップ生や新入社員の面接をしていて思うのは、「“答え”というものはそんなに早く出ない、結論を急ぎすぎていていないかな」ということです。急いで出した答えでは、それに向かって頑張ったとしても、ずっと続けてはいけないかもしれないし、一つのことも極められないと思いますね。私はこの7年間、デザイナーをやって、経営者をやって、それでもまだまだ何も見えてきていません。10年続けて何か見えたらいいなって、それくらいに思ってるんです。それなのに今の子たちって、店舗に1年立ったらお店のことが分かるって思っているんですよね。
「自分が本当にやりたいことを見つける」という作業は、本来はものすごく時間がかかるはずなんですよ。大学にいる4年間に見つけられたら本当にラッキーだし、それ以降もきっと見つめ続け、探し続けていくものだと思うんですね。その作業ってすごく面倒だけれど、あきらめずに続けて欲しいなと思います。日本は誘惑がすごくたくさんあるけれども、日記を書いて自分と向き合ったり、本当にこれやりたかった?と自分自身に問いかける作業は、面倒がらずにやって欲しいなと思います。

編集後記

「生きる意味」を見つけ、それに人生を賭けて取り組んでおられる山口さんの表情や言葉には全く迷いがなく、決意の強さをうかがい知りました。また、「比較対象は自分」という山口さん独自の価値観には、勝ち負けという尺度に囚われがちな思考から自由になれるように感じました。
「何のために学び、何のために生きるのか」という問いかけは、何歳になっても、人生に行き詰った時、進むべき道を照らし出す明かりになることと思います。自分で切り開いた道を前へ前へと進む山口さんの背中が、今はとても遠くに見えますが、私も、問いに対する「答え」にいつかたどり着けるよう、そこへ続く道を一歩一歩前に進んでいきたいです。

R. T.(商学部4年)

多様性を受容しつつ、自社の価値観を伝達・浸透できる人、それが企業におけるグローバル・リーダー

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2014年1月30日公開)

アスパイア・インテリジェンス社 代表取締役
リップシャッツ 信元 夏代

早稲田大学商学部卒業。ニューヨーク大学スターン・スクール・オブ・ビジネスにて経営学修士(MBA)取得。早稲田大学在学中にはミズーリ州セントルイス市のワシントン大学へフルスカラシップ奨学生として1年間交換留学。1995年に渡米後、伊藤忠インターナショナル・インク、マッキンゼー・アンド・カンパニー、Eisner LLP を経て、2004年にアスパイア・インテリジェンス社を設立。「戦略コンサルティング」や「組織開発コンサルティング」のサービスを提供し、ブランドとビジネスの戦略設計   と実現に寄与。

留学経験のある友達を見て、かっこいいと思った
留学したいと考えたのは、いつ頃でしたか?

多分、高校生の時だったと思います。中高一貫の女子校に通っていたのですが、高校時代に留学をする友達が周りにいたんです。それで1年経って帰国すると、彼女たちがちょっとした時に、“Ouch!”とか言うんですよ。それを見て、かっこいいなと思って(笑)。また、もしかしたら、潜在的に父の影響で海外に興味を持っていたのかもしれません。父は自動車部品メーカーの創業者で海外を飛び回っていましたし、よく外国のおみやげを持って帰ってくれました。「海外は遠いものじゃない」という意識があったのかもしれません。でも高校生の時は、英語はあまりできないし、一人で生活する自信もなかったので、自分の中で留学にチャレンジできるという“納得感”が持てるようになってから行きたいと考えていました。そこで、大学生になってからトライアルという感じで、オーストラリアへ1ヶ月の短期留学をしました。

オーストラリアへの短期留学を経て、次の長期留学はどのように決意されたのですか?

そうですね。実は、オーストラリアで彼氏を作って帰ってきちゃったんです(笑)。内緒ですよ(笑)。そうしたら、両親が「お前はもう外にやらない!」と激怒してしまって。でも私は反対されると火がついてしまう性格というか(笑)。ならばやってやろうじゃないか!とハングリー精神に燃えた私は、交換留学のテストに向けて猛勉強しました。選考で選ばれ、さらに全額奨学金が出る交換留学プログラムで早稲田大学の代表として行くのなら、こんな名誉なことには父も反対できないだろうと思って、ワシントン大学セントルイス校の交換留学プログラムを目指しました。勉強の甲斐あり、ワシントン大学に行けることになったのですが、本当は選考の時点ではTOEFLの点数が少し足りなかったんです。それで選考の面接のときに、「留学するときまでには、スコアをクリアします!」と宣言したら、選考に通ってしまいました(笑)。「合格させていただいたのだから、約束した点数は取らなければ!」ということで、合格後も意地で必死に勉強し、最終的にはスコアを基準値以上に上げることができました。

経験こそが次につながる
ワシントン大学での留学について詳しく聞かせてください。

初めは大変でした。2日に1回は泣いていましたね。ディスカッションをしながら進行するクラスがあったんですが、全然ついていけなくて。しゃべれないから、しゃべらない。しゃべらないから、しゃべれるようにならない。という悪循環に陥っていました。そんなある時、寮のパーティーで、あるアメリカ人学生から酔った勢いで「何で夏代はしゃべらないんだ?」と言われたんです。本人は冗談半分で言ったのですが、それは私がその時最も気にしていることだったので、私は皆の前で号泣してしまったんですね。そこから周りの目が変わりました。英語では”Ice break”と言いますが、まさに氷が解けたようになって、彼らとの溝が少し縮んだんです。しゃべりたくても、しゃべれない。そんな私の気持ちを理解してくれたのでしょう。彼らから話しかけてくれるようにもなったし、私の方も「話してみようかな」と積極的に話すようになりました。

また、冬休みに一人でアメリカ国内旅行をしたんですが、雪で飛行機が飛ばなくなってしまうことがしばしばありました。そうすると自分一人で対応しなければいけませんから、否応なしに英語を使わざるを得ない状況になって。一度は翌朝まで飛ばない、ということがあり、冬休みで閉まっているキャンパスに一人で運転して戻り、セキュリティーの人に説明して寮のドアを開けてもらい、誰もいない寮でたった一人で一夜を過ごしたこともありました。そんな冬休みが終わったら、「あれっ?私、自然と英語が出てくるかも...!」というレベルに届いていました。つらい経験こそが次につながるんだなと強く感じましたね。

またどうやってその苦労を乗り越えましたか?MBAの取得を目指されたのは、いつ頃でしたか?

ワシントン大学留学中にビジネス専攻の友人ができ、その友人からMBAというものを聞いて興味を持ちました。そしてまず、ある有名校のアドミッションオフィスに電話してみたんです。「あなたの学校に興味があるのですがどうやったらMBAを取得できますか?」と。今考えたら無謀なことをしましたよね(笑)。そしたら、「勤務経験を4~5年積んでから来て下さい」と言われました。ならばアメリカで勤務経験を積んだら近道なのではないか、と考え、幸いにもニューヨークでの採用が決まったので、卒業後すぐにニューヨークに渡りました。働きながら勉強していましたが、GMAT対策が大変でした。根気良く7回くらい受け続け、満足のいく点数まで上げていきました。また、ビジネス・スクールに入るためには、プレゼンをして自分を売りこむことも大切なんです。採用官のオフィスの外で待っていて、彼女が出てきたら「偶然ですね」という感じで話しかけ(笑)、練習してきた1分間スピーチで自分をアピールしました。そんな甲斐もあってか、その翌日、ニューヨーク大学スターン・スクール・オブ・ビジネスから合格の電話がかかってきたんです。

リスクはチャンスだと考える
MBAを取得された後、マッキンゼーなどを経て起業されたわけですが、信元さんの背中を押したものはなんですか?

早稲田の先輩ですね。もともとビジネス・スクールに在籍していたころから、漠然と起業したいと思ってはいたんです。副専攻で起業について勉強しましたし、ビジネス・コンテストに参加したりしました。でも、具体的に何をやるかは考えていませんでした。起業を見据えて、いくつかビジネス・プランを書き留めていて、ある時に稲門会にいらっしゃった先輩に「こんなことをしたい」と相談しました。そしたら、「じゃあオフィススペースが必要でしょう。一緒にオフィスシェアしようか?」と提案してくださったんです。彼なりの「起業してみたら?」というメッセージだったと思っています。そんな先輩のメッセージに背中を押されて、起業の第一歩を踏み出しました。

そして見事、起業されたわけですが、業務においての失敗談はありますか?

 

もちろん沢山ありますよ(笑)。例えばこんなことがありました。コンサルタントとして雇って頂いた後に、クライアントがやろうと思っている方向性と、分析結果から私が提案した方向性が少しずれていたんですね。彼は「僕はこの業界の経験がある」という自負があり、譲りませんでした。そこで彼に理解してもらおうと、分析結果を元にして詳細をさらに論理的に説明したんです。そしたら彼は「君にそんなことを言われる筋合いはない」と激怒し、感情的になって私を解雇しました。これは“コンテクスト”(意志疎通の共通知識)の違いに私のコミュニケーション方法を適応しきれなかったことが失敗の原因だったと思っています。つまり彼は、いわゆる“お役所”出身のエリートで、雇う側と雇われる側、目上と目下、などの間の権力格差は当然で、相手が自分に従うという環境に慣れてきた方でしたし、“ハイコンテクスト(お互いに相手の意図を察しあうことで、なんとなく通じてしまう)”文化の中でずっと仕事をされていました。その彼が、「雇われた側」の「目下」の私に分析結果を直接的な表現で説得されたのですから、もしかして私の意見が正しいと思っていても、名誉が棄損されたと受け取ったのでしょう。異文化によるコミュニケーションスタイルの違いがどれほどビジネスに影響するのか、を実感した経験でした。

ニューヨークで起業された信元さんは世界でご活躍されていますが、信元さんの考える“グローバル人材”について教えてください。

あえて定義するのなら、グローバル人材とは「地球規模の最適化を常に考え、国や文化を超えた人々を束ねて変革や革新を実現する人」だと思っています。「地球規模の最適化を考える」とは、地球全体をリソースとして考えて人材を世界中から集めたりなどと、地球全体で考えた時にどういうことが最適化につながるのかを考えることです。さらに、企業におけるグローバル・リーダーは「多様性を受容しつつ、自社の価値観を伝達そして浸透できる人」です。「文化」と一括りに言っても、儀式のように目に見える部分と価値観のように目に見えない部分がありますし、「文化」には、国家や地域、職業や個人などで様々なレベルがあります。そしてその「文化」によって人々の行動は変化するので、文化間におけるギャップが生まれ、誤解も発生してしまいます。そのギャップを埋める為に、相手の発言を自分の言葉に変換したり、ジェスチャーやアイコンタクトをしながら聞いたりとアクティブ・リスニング(積極的傾聴)をすることが大切です。このアクティブ・リスニングとファシリテーションのスキルによって、コンフリクト(対立・衝突)をコンセンサス(合意)に変えるのが、グローバル・リーダーに必要な能力だと思っています。

最後に、グローバルに活躍したいと考えている早大生へのメッセージをいただけますか?

海外で働くのは、リスクがあるかもしれません。でも、リスクを取らなければチャンスもやってきません。私は「リスクはチャンス」だと考えています。海外に出て、失敗やつらい経験をすることもあります。でも、何でもうまくいくよりは、つらい経験こそが自分の実になると思います。また世界に出ると、日本は特殊な文化を持っていると感じます。つまり、日本の常識は必ずしも世界で通用するわけではないということです。皆さんには、旅行やホームステイなど短期間でも良いので、なるべく複数の国に行って異文化体験をしてほしいです。そして、視野を広げて、将来はグローバルに活躍してほしいなと思っています。

編集後記

 信元さんはニューヨーク在住で、お忙しいなか、帰国された折にトーク・セッションとインタビューに応じてくださいました。起業家だけでなく、競技ダンス選手という一面もお持ちの信元さん、「これからも競技ダンスはずっと続けたい」と笑顔でおっしゃっていたのが印象的で、趣味の時間も大切にして、充実された生活を送られているのだなと思いました。リスクはチャンス。リスクを回避しがちな私にとっては、とても身に染みるお言葉でした。時間がたくさんある学生の間に、海外に行ったり留学生と交流したりして、できるだけたくさんの異文化体験をしたいと思っています。

町田 花菜子(商学部2年)

もしも自分がこの理不尽な世界をほんの少しでも変える力になれるなら

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2013年12月4日公開)

元青年海外協力隊村落開発普及員 徳星 達仁

2008年3月に早稲田大学法学部を卒業後、株式会社JTB関東旅行会社に就職し法人営業を担当。2010年2月退職。同年6月、青年海外協力隊にてベナンに派遣。主に小学校の衛生環境改善活動に携わる。2012年6月に帰国後、日本紛争予防センターにて瀬谷ルミ子事務局長補佐インターンを務めた後、国連UNHCR協会でファンドレイジングを担当。国際公務員を目指し、2013年9月よりイギリスの大学院に留学中。

内向き学生、“熱いバカ”に触発される
学生時代に特にやっておいてよかったことはありますか? また、やっておけばよかったことはありますか?

僕の学生時代は1年生の時と2年生以降で大きく変化します。1年のときも中学高校と続けていた吹奏楽のサークルに入ったり、法学部の法律サークルでテスト対策に勤しんだりと、それなりに充実していたのですが、なんというか・・・、内向きでした。国際交流だとか、国際協力って言葉は心のどこかには引っかかっていたかもしれないけれど、意識は全くしていませんでした。勉強は真面目にやる学生でしたが、人と関わることにそこまで魅力を感じていませんでした。
変わったのは2年の時です。ふとしたきっかけで「僕は全然外の世界のことを知らないな、自分の世界を広げたいな」って思ったんです。きっかけは多分本当に大したものではなくて、今となっては思い出せないくらい。インタビューで話すことでもないかもしれませんが、失恋したっていうのも一つのタイミングだったかもしれません(笑)。「俺、このままでいいのか」って思ったんです。
そのとき偶然、Waseda International Festival(WIF)という国際交流イベントサークルがスタッフ募集をしているのを見つけて、思い切って飛び込みました。早稲田には“熱いバカ”がたくさんいて、元々僕もそんな早大生には憧れを持っていたのですが、ちょっと自分には遠い存在だと思っていました。しかしそのサークルで、積極的に物事に熱中して取組む人達と一緒に活動するうちに、自分ももっとアクティブになっていいんだ! いろんな人に出会うのってめちゃくちゃ面白い!! と実感して。その後の学生生活はとにかくいろんなことに首をつっこみました。実は、ICCでもミュージカル企画※に参加したりしていたんですよ。
ですから、自分が学生時代にやっておいてよかったと思うのは、たくさんの人と関わり、たくさんの仲間と出逢えたということです。早稲田は特に、熱い心を持った面白い人たちが本当にたくさんいて、いくらでも自分の視野を広げることができます。
もう一つ頑張ったことといえば、英語の勉強でしょうか。後々国際協力分野を目指すならば、英語は絶対必要です。僕はサークルなどで国際交流に関わるうちに、英語は絶対この先自分に必要であると感じました。留学の経験もないどころか、英語は割と苦手な方だったのですが、チュートリアル・イングリッシュや、オープン教育センターで意識的に英語の授業をとって、英語の得意な人達に追いつけるよう努力しました。英語学習にお金をかけたわけではありませんが、大学内の機会を活用して勉強するだけでも、英語力はかなり伸びたと感じています。
一方で、やっておけばよかったなと思うことは、スタディツアーやボランティアなどで実際に途上国に行ってみることです。当時の僕には、忙しかったりお金がなかったりと、途上国に行かない「理由」を自ら作っていました。しかし、本気で途上国への想いがあったとしたら、必死でお金を貯め、時間を作って行けていたはずだと思います。実は、新卒のときも国際協力分野への就職も視野に入れていて、JICAの新卒採用も、最終選考までは残れたんです。しかし、最後の面接で突き詰めた質問をされたときに、自分の国際協力への意志とそれに伴う実行力がまだまだ弱いことを痛感させられたのです。だから、現時点でこういった進路を考えている学生の方はぜひ途上国に出かけてみてほしいです。僕の場合はそれがあって、その後の青年海外協力隊での派遣につながっています。

2007年度ICCミュージカル・プロジェクト『FAME』

国際協力に関心を持たれたきっかけはなんですか?

今思うとクリティカルなきっかけは、WAVOC主催のウガンダの子供兵士に関する写真展と講演会です。それまでもなんとなくアフリカには恵まれない子供たちがいる、という認識は持っていましたが、実際に聞いたウガンダの子ども兵士の話は想像以上に衝撃的で、残酷でした。一方で、ウガンダの子ども達の日常の写真はとても目が輝いていて、本当にキラキラとした笑顔だったんです。こんなに素敵な笑顔が一瞬で奪われてしまう世界があるということに非常にショックを受けました。同時に、生まれる場所は選べないにもかかわらず、なんて理不尽な世の中なんだろう、こんな不公平が許されるのか、なんとかできないかとも強く思いました。
もっともその当時は、自分が国際協力に将来携われるとは考えてはおらず、自分には無理だろう、きっとどこかのバリバリすごい人たちが変えていく世界なんだろうなぁと半ば諦めつつ考えていました。とはいえ、もし自分がこの理不尽な世界を、ほんの少しでも良い方向に導ける仕事ができるならば、それは僕にとってすごく幸せなことだしやりがいがあるだろうなとも思い始めました。頭の片隅にはずっと引っかかっている感じでした。だからこそ、学生時代の国際交流活動や英語の勉強もより熱心に取り組んでいたのだと思います。

今やっている仕事は一生をかけてやるものなのか? と自問した
ご卒業後は民間企業に就職されたそうですが、国際協力の世界に携わろうとは思わなかったのですか?

僕は法学部の学生だったのですが、就活で自分の進路を考えたときに弁護士など法曹の道はちょっと違うかな、と思っていました。ダブルスクールをして、必死に何年も勉強して・・・というほど本気で目指したいとも思っておらず、とりあえず社会に出たいと思いました。それでいざ何をやるかって考えた時にやっぱり国際協力をやりたいと思いました。でも一方で正直なところ当時は将来の安定も求めていて、国際協力の世界はNGOなども含めて不安定な要素が多い点が心配でした。収入の安定性がありつつ国際協力、つまり自分のやりたいことができるところと考えたときにJICAを見つけたので、第一志望で受けました。一方で旅行業界にも興味があり、結果的にJICAはその時はご縁がなく、第二志望のJTB関東に就職することになりました。ただ、依然として国際協力への想いもありましたので、一生JTBに骨をうずめるつもりかといえば、そうではなかったと思います。それでもやってみないとわからないですし、6~7割くらいはここでずっと仕事をしていくかもしれないとも考えていましたね。

ベナンでは村落開発普及員として小学校の衛生環境改善活動をされたそうですが、どんなことで苦労されましたか? またどうやってその苦労を乗り越えましたか?

                                              ベナンの小学校での衛生啓発活動

まず生活に慣れるのに苦労しました。言葉も通じず、気候も文化も違う。しかもベナンはアフリカ最貧国。覚悟して行きましたが、それでもストレスフルな場面は多くありました。

なかでもやはり言葉の壁は苦労しましたね。派遣前に勉強したもののそれは最低限生きていくためのレベルでしたし、あとベナンの人たちが使うのはアフリカン・フレンチなので、習っていたフランス語とは発音や単語が違ったりして、初めは意思の疎通がスムーズに行かなかったんですよね。伝えたいことが伝えられないのはもどかしかったです。でも、そこで頑張るしかないので、わかる言葉でジェスチャーを交えつつ頑張って話していました。そうすると相手も僕の話を理解しようと努めるようになってきて、また自分の語学力も上がっていくので、半年くらいすると随分と自然にコミュニケーションが取れるようになっていました。
もう一つの苦労は任務の内容に関わることですが、僕は村落開発普及員としてベナンに赴任し、衛生啓発活動などに取り組んでいました。具体的には近所の小学校をいくつか訪問して、手洗いの大切さや、適切なゴミ捨てについて紙芝居や歌を用いて普及していく活動です。まず手が不衛生な状態だと病気の原因になるというメカニズムを知ってもらうところから始めるんですが、習慣付けるのってとても難しい。いきなりよく分からない外国人が小学校にやって来て、「皆さん、今日から食事の前には手を洗いましょうね」とか言っても説得力がないですし、行動に移されないんですよね。
初めはそれがすごくフラストレーションでした。自分はベナンの衛生環境を少しでも良くしようと努力しているのに、なぜみんな協力してくれないんだろう、受け入れてもらえないんだろうと。自分の存在意義が分からなかったときもありました。
そんななかで気付いたのは、自分が「何かしてあげよう」と考えていたのは、少し上から目線だったということ。そこから行動がかなり変わりましたね。何かしてあげよう、ではなく、現地に溶け込むことが重要だと思うようになりました。僕は「トク」って呼ばれていたのですが、トクって仲間が村にはいて、そういえばあいつ、手を洗えって言っていたなぁくらいに誰かが思い出してくれればそれでいいと考えることにしたんです。

                                   幼稚園では日本語の歌を教えたりもしていた

それから、民族衣装を着て現地のお祭りに参加したり、一緒に食事をしたり・・・、そうすると状況が好転し、最初は「外国人」のトクとして扱われていたのが、コミュニティの一員として、「仲間」のトクだと思ってもらえるようになりました。
ベナンの人ってそうなってくるとあんまり壁がなくて、本当に家族みたいに親しくしてくれます。あの人が親しいなら、トクって良い奴なんじゃって広まってきたりもして。学校の先生もプライベートで仲良くなってから、活動に協力してくれるようになっていました。もちろん仲良くしつつも、やることはきちんとやらなければならないのですが、一緒に生活する中で得られたものは大きかったですね。途上国も初めてで、肌の黒い人と接するのも初めてだったのが、彼らとけんかできるようになりましたから。人間は国籍や人種が違っても、みんな同じ人間だなと実感しました。同じひとりの人間として、構えずに接することができるようになりましたね。

 

まずは一歩踏み出してみよう
9月からイギリスの大学院に進学されていますが、協力隊後の進路についてはいつ頃からどのように考えていらっしゃいましたか?

     帰国後、日本紛争予防センターでのインターン修了日の様子

国際協力の世界で仕事をする場合、一般的には修士号以上の学位、英語ともう一言語の語学力、2年以上の実務経験が求められることが多いです。協力隊員を経て語学力と実務経験は多少なりとも得られたので、次は修士号が必要だと考えました。そこで、ベナンから帰国後は大学院に留学しようと決めました。といっても経済的に余裕は全くなかったのですが、ベナンは幸いなことにインターネットが使えたので調べてみると、国際協力を目指す人向けの奨学金がたくさんあることが分かったんです。

ちょうど僕の出身地でもロータリー財団が奨学生を募集しており、このタイミングを逃すわけにはいかないと、休暇を利用して自費で日本に一時帰国して試験を受けました。これも一歩踏み出したことです。受かるか落ちるかは分からないけれど、やってみなければ分からない、受けなかったらずっと後悔するな、と。不安で一歩踏み出すのを躊躇してしまうとき、自分と対話するんです。いろんな不安要素はあるけれど、やってみたいんだろ? 結局お前にやらないって選択肢はないんだろ?って(笑)。実際に合格を頂けたので、現在平和構築の分野を修士課程で学んでいます。その後は国連職員を目指すつもりです。国連は組織が大きすぎてお役所的など、ネガティブな側面の話も聞きますが、それを含めてまずは挑戦し、自ら経験してみたいと考えています。

国際協力に憧れを抱きつつ、どうやってその道に進めばいいかわからない、あるいは分かっていても、その後のリスク対応に不安があったり、なかなか一歩を踏み出せないという学生もいるかもしれません。徳星さんの場合その道を選ぶことによって発生するリスクをどうお考えになって決断されたかも含め、そういった学生に何かメッセージをお願いいたします。

将来を不安に思うのは当然だと思います。リスクを考えるのも堅実だし必要なことです。ただ、ときにはその不安は実は考えすぎかもしれなくて必要以上に大きくなってしまっている場合もあると思うんですよ。先ほどから話していることですが、一歩踏み出してみてください。そうすれば実際にはなんとかなることが殆どなんですよね。むしろ、追い込まれると人間は何とかするように努力するものですし、自分で決めた道は自分で自然と正当化できるようになると考えています。だからそんなに怖がらなくて大丈夫です。もちろん、無鉄砲とは違うので対策できるリスクは事前に対応するべきなんですが。
そうは言ってもその一歩を踏み出すのが怖いしとてもエネルギーがいるんですよね。だから僕の場合は、国際協力のイベントやシンポジウムに参加したりして自分を奮い立たせたり、自分の夢を周りに話して思考を整理してみたり、不安を紛らわしてみたりしています。あと、小さな成功体験を積み上げていくのも大事です。勇気を出して一歩踏み出してみた経験を重ねていくとそれが自信になって次の一歩を後押ししてくれます。
もし何かを始めたい、でもいろいろな不安要素があると悩んでいるならぜひ、一歩踏み出してみてください。港を出る船と同じで、動き出すまでが一番エネルギーが要りますが、あとはスーっと進むだけです。悩んでいる時間はもったいないです。ビビッときたものを大事にしてください。

編集後記

にこにこと穏やかに、でも熱く想いを伝えて下さる徳星さんは本当に素敵な方で、インタビューしながらすっかりファンになってしまいました。
「国際協力なんて自分には無理だろうな、きっとどこかバリバリなすごい人たちが変えていく世界なんだろうなぁと」・・・まさか、青年海外協力隊を経て海外の大学院に行こうとしている先輩から伺うとは意外でした。どちらかと言えば、どちらかと言わなくても“すごい人たち”がご協力くださっているグローバル人材のインタビュー。そんな中にかつて内向きで国際協力を遠目に眺める学生だった方がいらっしゃることは、ごくごく普通の学生の私でも一歩踏み出したら何かできるかも・・・と思わせてくれる勇気が出る機会でした。

清水 瞳(商学部4年)

海外での仕事は常に異文化との接触と新たな発見の連続。好奇心を持って飛び込んでいってほしい

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(2013年9月12日ブログ公開)

共同通信外信部 副部長 及川仁

1961年、岩手県水沢市(現奥州市水沢区)生まれ。水沢高校、早稲田大学第一文学部ロシア文学専修(現文学部ロシア語ロシア文学コース)卒業後、85年共同通信社入社。ベオグラード、モスクワ、バグダッド、カイロ各支局を拠点に旧ユーゴスラビアやコソボ、チェチェンなど旧ソ連、東欧、中東での紛争、戦争を取材。米中枢同時テロ発生直後のアフガンからの一連の報道で2001年度「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞。現在、外信部副部長。

 

社会の矛盾を自分の目と耳で確かめて、理解したかった。

どのような学生生活を送っていらっしゃいましたか?

体育会のボクシング部での活動がメインでした。毎朝1時間以上のロードワークと夕方のジムワークで、汗と鼻血を流しながらボクシングに明け暮れていましたね(笑) 毎日の激しいトレーニング、つらい減量、試合前の緊張感などを通して培った粘り強さ、忍耐、逆境に耐える「なにくそ」という精神は、ものすごいプレッシャーの中に置かれた特派員生活に生かされたと思います。学部は第一文学部ロシア文学専修(通称・露文)だったのですが、もっと勉強の方にも時間を割いていればよかったとも思います(笑)

ジャーナリストを志望したきっかけは何でしょうか?

10歳の時に父親を亡くし、普通の主婦だった母親がそれまで父親が経営していた小さな会社を引き継ぐことになりました。その直後にオイル・ショックで日本経済全体が大打撃を受けるなど、激動の社会情勢の中で死にものぐるいで働く母親の姿を目にして、その中で子どもながらにいろいろ社会の矛盾というか不条理のようなものも感じ、ぼんやりですが、そういう社会のゆがみとかそういうものがなぜ起きるのか?ということに迫れるのがジャーナリストという仕事なのかなと考えるようになりました。 別の動機もあります。私が社会人になる前の当時は米国とソ連が激しく対立する東西冷戦時代でした。あのころ日本で見聞きする情報がとても少ない、“謎の国”だったソ連に関心があったことも大きな理由の一つです。ロシア文学専修ではありましたが、文学志向というよりは「ロシア人、ロシアの社会はどんなものなのか」を勉強したいという思いが強かったです。それとドストエフスキーやチャイコフスキーのような世界に冠たる作家や音楽家を多数輩出するなど優れた芸術性を持ち、科学技術の分野ではガガーリンが人類で初めての宇宙飛行に成功するなどアメリカに先行すらしていた才能を持つ人間としてのロシア人と、1968年のプラハの春を戦車で蹂躙したり、1979年のアフガニスタン侵攻や83年の大韓航空機撃墜事件などを通して、冷酷で非人間的と見られていた国家としてのソビエト連邦とのギャップに興味があったんです。ジャーナリストという職業ならそのギャップを自分の目と耳で確かめることができるのではないかと考えていました。

海外特派員志望であっても、地方勤務からのスタートになると思いますが、その際も海外勤務を意識されていましたか?

記者生活振り出しの佐賀支局で4年、その後、川崎支局で2年、千葉支局で1年半勤務し、その間、警察を担当して殺人や汚職などの事件ものを取材したり、県庁、市役所担当として行政を担当したりしましたが、そのそれぞれは、一見、海外取材、国際報道とは縁のないドメスティックなものでした。しかし、特派員として海外で取材をするようになって気付いたのは、取材の基本は国内だろうが海外だろうが同じなんだなということです。「いまニュースになっているのはどんなことで、いま自分は何を取材し、書くべきなのか」を自分で判断して行動する“取材力”を地方勤務時代に身につけていなければ、海外で記者としての仕事はできません。

海特派員としての海外駐在の前にロシアへ留学されていたということですが、当時のことについて教えてください。

入社8年目に社の留学制度への申請が認められ、ロシアのサンクトペテルブルク大学に留学しました。1992年から93年の1年間です。1985年にゴルバチョフが書記長に就任してペレストロイカが始まり、91年末にソ連が崩壊、あのころはソ連絡みのニュースの見出しが連日のように新聞の一面をにぎわし、誰もがその動向に目を凝らしていました。旧ソ連圏での取材強化のためロシア語での取材要員に対する需要が高まりつつある時期だったこともあり、運がよかったのだと思います。留学してとにかくロシア語の勉強に集中しました。休みの日も日本人の留学生仲間ではなく、ロシア人もしくはアゼルバイジャン人、キルギス人、カザフ人など、ロシア語のネイティブスピーカーである旧ソ連圏出身の学生たちと過ごすよう努めていましたね。そのため留学して2、3か月経ったころには、コミュニケーションが苦でなくなり、1年を経て留学を終えて帰国するころには、何とかかんとか取材をこなせるまでのロシア語の習熟度には達していたのではないかと思います。週末は学生寮で彼らの宴会に潜り込んでウオツカの飲み方の作法も学びました(笑) それもさておき、せっかくロシアに来ていたのでコンサートやバレエを観に行くなど、ロシアの一流の文化に触れる時間も作るようにしていました。

“人間としてのロシア人と国家としてのソ連とのギャップ”に関心があったとおっしゃっていましたが、実際にロシアに留学されて、どのようなことを感じられましたか?

ロシア人も私たちと変わらない、当たり前の人間だということでした。決して当時、多くの日本人が抱いていたような「感情もなく、イデオロギーで生きているような人たち」ではありませんでした。情にもろくて、ユーモアにあふれ、時に粗野な部分もあり、誇り高い、ごく普通の人間でした。西欧的な合理主義とは一線を画していて、義理人情を重んじ、ある意味「浪花節」的なものを持っていて、私たち日本人とキャラは全く違うのだけど、どこか通じる部分がある。私はそんなロシア人が大好きです。

及川さんが駐在された国々について、日本人が誤解していると感じることはありますか?

バグダッド、カイロに駐在しましたが、こうしたイスラム圏、中東の国々に対してステレオタイプな印象を持っている人が多いですね。ある意味仕方がない部分もありますが、もっと理解があってもいいかなとも思いますね。例えば同僚の女性記者がイランの首都テヘランに駐在することになった時、親御さんから「そんな危ないところには行くな!」

バグダッドのザウラ公園

と言われたそうです。イランは米国と激しく対立し、現在も核開発問題で国際社会から孤立していますが、テヘランの治安自体は悪くありません。
「アラブの春」後のいま現在は分かりませんが、私が駐在していたころのカイロも夜10時に子供が一人で友達の家から歩いて帰ってくるなんてことを当たり前にしていたくらい安全でした。中東、イスラム圏のニュースというとイスラム過激派のテロなどがニュースで大きく取り上げられるので、こうした地域全体をひとくくりに〝危険〟と思い込んでしまいがちなのだと思いますし。こうした誤解を解くのもわれわれジャーナリスト、メディアの責務だとも思います。

海外であっても取材の基本は同じ。地道に対話を積み重ねて、信頼関係を築くことが重要。
日本と海外で取材する際に最も異なる部分は何でしょうか?

日本での常識、特にセキュリティーに関しての常識は通用しないということでしょうか。バグダッド(イラク)に駐在していた時、現地で何人もの日本人が武装勢力によって殺されました。その多くの人が取材などを通じ個人的にもよく知っている人たちでした。最初のころは駐留米軍が武装勢力、イスラム過激派の主な標的だったのですが、次第に外国人に協力するイラク人、イスラム教徒以外の外国人へと標的が拡大し、日本人も狙われるようになってきました。当時は車で移動する際には必ず後部座席で半身になり、常に前後に注意を払うようにしていました。3回角を曲がっても同じ車両がついてくるようなら、尾行されていると判断して急いでまいてしまうとか、同僚、あるいは大使館など関係先に連絡するよう申し合わせていました。またこうしたテロだけでなく、海外では総じて日本時間と比べて交通マナー自体が荒っぽいので、交通事故も要注意です。あらゆる意味で日本にいる時と同じ感覚でいると非常に危険、十二分に注意を払う必要があります。

ジャーナリストとして外国で取材する上で特に心掛けていることはありますか?

これまで話したように、取材の基本は日本でも海外でも変わりません。取材相手と信頼関係を築き、取材を積み重ねることによって得た経験と勘から、取材相手が信頼に値するかどうか、その発言の信憑性が判断できるようになってきます。日本と海外の違いを強いて挙げるとすれば、相手の文化に敬意を払う必要があるということでしょうか。例えば、ロシア人は誕生日などに性別に関係なく花を贈ることがあるので、取材する相手が誕生日であれば花を持っていったり、一緒にウオツカを飲んだりもしますよ(笑) 中東などイスラム圏の国であれば宗教的な習慣に留意します。イスラム教徒が日中食事のできないラマダン(断食月)中は、日没まで彼らの見えるところで食事したり水を飲んだりしないよう気を遣ったりします。

図らずも紛争地取材を多くすることになったということですが、そのことに対して抵抗はありませんでしたか?

 

アフガン北部同盟のゲリラたち

ありませんでした。重要なニュースが起きている時、その現場に取材に行くというのが記者でしょう。仮にそれが紛争、戦争の現場であったとして、私たちジャーナリストが現場に行かなければ、平和な東京の街頭に伝えなければならない現実は伝わりません。紛争地を取材する意義は、戦争という巨大な暴力によって苦しんでいる、それなのに声を上げられない人々の声、現実をすくい上げて伝えることにあると思います。「正義」「大義」を掲げた戦争の陰で、「独裁者」「悪の政権」と全く関係のない人々が殺されたり、愛する人々を失っている。そうした矛盾、あるいは「正義」を掲げる人々にとって不都合な現実を伝えることがジャーナリストの使命のひとつであると考えます。

現場で、より真相に近づこうとすればするほど自らの命の安全が危うくなるということもあると思いますが、その点についてどうお考えですか?

真相に近付くために踏み込まなければならない場所が危険を伴う場所であることもあるでしょう。ジャーナリストにとって重要なのは自分が見てきた真実、伝えなければならないことを伝えることで、そのためには生きて帰ってこなければなりません。それが大前提です。100%の安全は戦争取材にはありえないかもしれませんが、いちかばちかの取材はすべきでないと思います。ただこの部分の判断は非常に難しい。「こうすれば絶対安全だ」という方程式はありませんし、戦争取材を長く経験しているジャーナリストたちですら間違いを犯すこともありますから。

ジャーナリズムの原点は好奇心。それは紛争地取材であっても変わらない。
何が及川さんを動かす原動力になっているのでしょうか?

アフガニスタンやイラク戦争アフガンのピンホールカメラ

「人より先にものを見たい」、「自分が見てきたものを知らせたい」という、ある意味プリミティブな好奇心ですね。それは紛争地取材であっても変わりませんし、個人的にはその方がジャーナリズムとしては健全かもと思っています。
紛争地の取材をするなかで、暴力に対する激しい怒りを感じることもあります。ただ正義感とか使命感に燃えてというのは逆にちょっと危ない気がしますね。

ジャーナリストをやっていてよかったと思う瞬間はありますか?

まず学生時代から志していた仕事をいまも続けていられることは幸せだと思います。そして、これも学生時代から勉強してきたロシア、卒論で扱った旧ユーゴスラビアに特派員として駐在することができました。記者になれたとしても自由に勤務地を選ぶことができるわけではないので、この2つとも叶えられたことは、とてもラッキーでした。アフガニスタンやイラク戦争の現場を自分の目で見、戦争の建前と現実の違いを検証することができたことも記者、ジャーナリストとして貴重な経験でした。

学生時代にやっておいた方がいいと思うことは何かありますか?

勉強ですかね(笑)とにかく学生時代を有意義に使ってほしいです。早稲田にはたくさんのチャンスがあります。いろんな人に会えるし、いろんなことにチャレンジできる環境が整っていると思うので、4年間という限られた時間を存分に使い切って欲しいと思います。海外で仕事をしようと思うなら英語は不可欠のツールだし、もう一つ別の言語をやっておくともっとチャンスが広がると思います。そして語学だけでなく、音楽や芸術など幅広い教養を身につけたり、生涯の友人も見つけられるよういろんなことにチャレンジしてほしいですね。

最後にグローバル人材を目指す学生にメッセージをお願いします。

外国で仕事をするということは、常に異文化との接触であり、毎日新たな発見があります。それは非常に楽しいことだと思いますし、皆さんのような若い人たちにはどんどんそういった国際的な舞台を目指していってほしいと思います。

編集後記

ジャーナリストとして「新しいものを見てみたい」というピュアな好奇心が大事なモチベーションであると話してくれた及川さん。紛争地取材をご経験されたとお聞きし、短絡的に”正義”といった文脈で理解しようとしていた私が想像していたものとは違う答えが返ってきたことが非常に新鮮でした。また「国内外問わず、取材の基本は同じ」という言葉に、どこであっても、現場でひたむきに「人」と向き合おうとする及川さんの姿勢が感じられ、それこそがいい取材、いい記事につながるのではないかと感じました。

 

由利 啓祐(文学部4年)

OB座談会企画 「“日本人としての誇り”と“異文化理解”。 二つをバランスよく兼ね備えることが重要な鍵となる」

※過去にICCで実施した”グローバル人材・インタビュー”の記事を採録します。名称や肩書等は当時のものです。(元記事は2013年5月30日公開)

(右)荒木 岳志(あらき たけし) 2005年大学院理工学研究科卒。丸紅株式会社入社。2008年にビジネストレーニーとして台北に派遣後、2009年~1年間上海赴任。現在は化学品総括部 企画課。
(中)鈴木 威一(すずき いいち) 2002年政治経済学部卒。富士通株式会社入社。2009年~3年間英国Fujitsu Servicesに出向。現在は金融・社会基盤営業グループ 金融ローバルビジネス統括部に所属。
(左)山岸 健太郎(やまぎし けんたろう) 1999年法学部卒。住友信託銀行株式会社(現三井住友信託銀行)入社。社内トレーニー制度で1年間シンガポール駐在。その後東京での勤務を経てニューヨークに赴任。現在は本店営業第二部(法人営業/総合商社担当)。

旅先で危険に遭遇した時に、英語ができないとまずいと思った
どのような学生時代を過ごされましたか?また、その頃から海外志向がありましたか?

山岸 一言で言ってしまえば怠惰な学生生活でした。海外に対する意識は昔からありましたが、英語力が伴わなかったため、留学を経験することはできませんでした。海外に関することといえば、僕は法学部で国際法のゼミを履修していたので、その授業の中で多少は海外を意識して勉強することができたと思います。

鈴木 僕も、いかに効率的に単位を取っていくかということばかり考えていました。所属していた国際交流サークル(国際交流虹の会)では、留学生が銀行口座を開くのを手伝ったり、合宿などのイベントを開いたりしていました。また当時流行っていた紀行小説『深夜特急(沢木耕太郎著)』の影響を受けて、友達と夏休み中に1ヶ月くらいかけてアジア各国を旅行したりしていました。白木先生(政治経済学術院教授)のゼミでは、3年の夏にタイ合宿があり、それにかこつけて友達と香港からタイまで陸路で行きました。それが僕の最初の海外経験だったと思います。

荒木 学生時代はバイトに精を出していましたね。また、学部が理工系で、華やかな本キャン(早稲田キャンパス)とは少し雰囲気が違っていたので、いかに学生時代を楽しく過ごしていくかということを考えていました。英語に真剣に向き合うようになったのは、大学院に進学してからですね。当時所属していた研究室が海外の研究室と提携していたこともあり、英語で研究成果を発表しなければならないこともありました。その当時はきつかったですが、海外の研究者や教授と交流することで、この人たちは何を考えているのだろう、何か面白そうなこと考えているな、というように少しずつ海外の人の考えていることに興味を持つようになりました。就職先も商社に絞っていたわけではなかったですが、海外を見てみるのも良いかなと思い、今の会社にお世話になることにしました。

山岸さんと鈴木さんは当時英語の勉強はされていましたか?

山岸 やはり学生時代から海外に対する意識は強かったですけど、英語ができないというジレンマがずっとありましたね。大学4年生でニューヨークに旅行した時、英語が話せない自分をとても恥ずかしく思いました。英語をやらなきゃいけないと本気で思い始めたのはその頃からです。その旅行で、自分の未熟さを痛感し、今後世界の中で一人前に戦っていくには、やはり英語の勉強が必要なのだと感じました。

鈴木 僕も旅行先で自分の英語のできなさを痛感しました。インドに行った時に現地の人の言うことを理解できないと命に関わるという場面に遭遇した時は、やっぱり英語ができないとまずいなと思いました。本格的に英語を勉強し始めたのは、社会人になってからですね。最初に配属されたのは関西だったのですが、いつかはグローバルに働きたいと考えていました。

タフなだけではやっていけない。強さと優しさの両方が必要

 実際に海外に赴任されるまで、どのようなプロセスを経たのでしょうか?
荒木 僕の場合は商社だったので海外志向が強い人も多いかと思いましたが、当時は僕の周りでは意外にも少なく、そんな中僕は「どこに行くかは分からないけど、それでもいいなら」という条件付の部門内海外研修プログラムに応募しました。結果、台湾に赴任することになりました。
 赴任先が台湾と聞いた時はどんな気持ちでしたか?
荒木 ほっとしましたね。所属している部門は化学品を扱っていて、当時は中国の内陸に進出するという話だったので、「もしかしてウルムチかな」とも思っていましたから。
鈴木 僕は、始めは関西、大阪でしたが、公募で東京に移り、外資系金融機関を相手にシステム営業を担当していました。その頃社内で、ローテーションで若手を海外に派遣しようという計画があったので、その一環として僕もロンドンに赴任しました。
 海外に行きたいと、自ら志願されたのですか?

鈴木氏 ロンドン赴任時

鈴木 そうですね。前々から海外には興味があったので、英語の勉強も学生時代に比べれば頑張ってやっていました。そんな折、上司から「海外に行きたいのか」と尋ねられることがあったので、その時は「機会があれば行きたいです」と答えていました。それが、意外に早く話が進んで、ロンドンに赴任することになったという形ですね。

山岸 僕も鈴木さんと同じで、最初の配属先は関西・神戸でした。勤務開始当初は、仕事に加え、新しい土地での生活に慣れるので精一杯でした。ただ、当時の先輩の中に海外勤務を経験された方がいて、その方から海外での経験を伺ううちに、自分もいつかは国外で働いてみたいと改めて思うようになりました。

 海外勤務に向けての具体的なきっかけはどんなものだったのでしょうか?

山岸 その海外勤務をされていた先輩から、シンガポールのトレーニー(研修生)公募があるので、それに応募するのはどうかというお話を頂きました。ただその時は、すぐには返事をしなかったですね。というのも、その頃長年希望していた自分のやりたい仕事ができる部署にやっと異動させてもらったばかりで、すぐに海外希望を出してしまっては、ある意味上司を裏切ることになるのではと少し悩んだんです。ただ、このチャンスを逃したら次はいつ来るか分からないと思い、思い切って応募しました。

日本での仕事に未練はなかったですか?

山岸 特にはありませんでしたね。うちの会社自体がドメスティックな企業なので、いずれ日本に帰ってくることは分かっていたし、むしろシンガポールでの経験が自分の強みの一つにできるなと思っていました。だから、シンガポール行きが決まった後は、後ろを振り返らず、後任の人への引き継ぎをしっかりして、前だけを向いていましたね。

海外赴任が決まるまでに、試験などがあったと思いますが、なぜ自分が選ばれたと思いますか?

山岸氏 旅行先、ブラジル/リオ・デ・ジャネイロにて
現地で知り合った人々とサッカーをし、名物シュラスコを一緒に。

山岸 強いて言うなら勢いですかね。当時英語は全く勉強しておらず、面接の際に英語の勉強について尋ねられた時も「毎晩、映画を一生懸命観ています!」とだけ答えました。英語はツールであり、結局コミュニケーションをするのはハートだから、自分の言いたいことは絶対伝えられると思っていたし、面接でも「いずれ慣れます。僕の言いたいことは絶対伝わります!」と言い切りました。そういう勢いがあったからこそ自分が選ばれたのだと思います。

鈴木 僕も山岸さんのように、「勢い選抜」かもしれません。選ばれた理由が英語力ではなかったのは確かですね。やはりやる気が一番評価されたのだと思います。真面目に仕事をやれるかどうかや、環境が変わっても耐えられるかどうかです。英語力に関しても、その後の伸びしろを期待された面が大きかったですね。

荒木 僕の場合も同じで、やる気が買われたのだと思います。台湾への赴任が決まったのが出発の半年前、時間的にもまだ余裕があったので、中国語を勉強しようと思ったのですが、日本で勉強すると発音がおかしくなるからするな、と言われ結局中国語を勉強せずに台湾へ行きました。ただ台湾には日本語を話せる方が多くて何とかなりましたね。

日本人とは違ったコミュニケーションの仕方に気づくことが重要

 
赴任先での仕事内容はどのようなものだったのでしょうか?

山岸 僕は、シンガポールでもニューヨークでも、海外に進出している日系企業への融資を行っていました。だから、見る書類は英語でも実際に話をする時は日本語で、というケースが多かったですね。書類に関しては辞書さえあれば読めるし、英語でのメールも時間をかければ書けるので、なんとかなりました。ただ、リーマンショックを境に周りの環境が変わりましたね。どの企業にとっても、日本人を現地に派遣するのはコストのかかることだったので、英語を使って現地の人々を相手に仕事をする機会がとたんに多くなりました。その頃から、英語で電話をしたり、英語を使って会議に参加したりしなければならなかったので「ビジネス・サバイバル・イングリッシュ」の習得に努めました。

英語でのミーティングに慣れるのには苦労されましたか?
山岸 多少苦労しましたね。ただ、そういう会議では得てして専門用語が多く使われるので、それらをしっかり理解できれば何とかついていけました。また、アメリカ独自のコミュニケーションの作法を認識できたことで、会議での理解も進みました。例えば、アメリカ人は自分の言いたいことを、手を替え品を替え、何度も繰り返す傾向があります。だから会議で一度聞き逃しても、それほど慌てる必要はないんですよね。そのような日本人とは違ったコミュニケーションの仕方に気づくのも重要だと思います。

鈴木氏 出張先のスウェーデンにて

鈴木 僕も山岸さんと同じように、日系企業を相手に仕事をする機会も多くありました。ただ赴任先がイギリスの会社を買収してできた会社で、社員はイギリス人が大多数。日本人は少数派だったため、イギリス人に何かをしてもらおうとする時や、会議に出席する時は必ず英語が必要でした。だから家に帰ったら常にBBCを見ていたり、朝はラジオを聴いたりして英語力を鍛えていました。スペイン人やドイツ人は日本人と同じくネイティブではないので、彼らとの仕事は多少やりやすかったのですが、イギリス人との会話はスピードが速く表現も難しい。とにかくイギリスにいる間は英語が必要不可欠でした。

英語での会議に慣れるまでにはどのくらいかかりましたか?
鈴木 僕は丸3年かかりましたね。3年かけてようやく、重要な部分でイギリス人の会話を止めて意見を言えるようになりました。

荒木 僕は研修生の立場だったので、台北に赴任した頃は、半分会社、半分学校という形で過ごしていました。その頃は英語ではないですが現地の中国語の新聞を日本語に訳し、社内の関係者にメールで流すという作業をしていました。また現地の方を相手に化学品の新規開拓の商売をしていました。化学品は一物一価で価格の差別化ができないので、こんな機能がありますとか、ピンポイントに物を運びますとか、品物そのものの特徴よりも商社機能をアピールしていました。また相手に顔を売ることも大切だったので、飲み会に参加し、交流を図るようにも努めていましたね。

台湾と上海での現地の人の対応に違いなどはありましたか?

荒木 台湾よりも中国の方のほうが、何というか、良くも悪くも表現が直接的でしたね。営業に行った際も、「これ意味あんの?安いの?高いじゃん。じゃあいらない。もう来なくていい」みたいな感じでした。だからいかにそこに切り込んでいくか、というのが自分の中で大きなテーマでしたね。現地の方と一緒に営業に行った際も、「こういう表現は結構使えるな」とか「こういう返事にはこう切り返せばいいんだな」というようなことを一つひとつ勉強していきました。

日本人としての誇り、そして異文化に対する理解の重要性を痛感した

海外赴任の中で、最も苦労したことは何ですか? また、海外に滞在する中で、最も大切なことは何ですか?

山岸 苦労とは少し意味合いが違うのですが、海外赴任したことで、日本人としてどうあるべきかについて考えさせられましたね。海外の人たちと接するなかで、日本人はもっと自分の国を知るべきだし、自信を持つべきだと思いました。アメリカでたくさん知り合いができたのですが、向こう(アメリカ)の人たちは「自分たちの国、故郷が一番だ」というように、故郷についての話をたくさんします。彼らは自分たちのルーツ、生まれ育った場所を本当に誇りに思っていましたし、それぞれの文化、歴史に対してしっかりした知識を持っていました。かたや、自分を含め日本人は、海外の人から日本の歴史や文化について質問された時に、しっかりした返答ができるかと問われれば、僕は「できない」と思います。やはり留学や海外赴任をする際に、自国について正しい知識を持っているかどうかは、実際海外に行った時に大きな差になると思いますね。海外に行く日本人は、母国についてしっかりとした知識を蓄え、それを誇りに思うべきです。変に卑屈になってしまうと、物事はなかなかうまくいかないですから。営業でも自分の会社について尋ねられた時に「全然大した会社じゃありませんよ」なんて言ったらだめですからね。自分の会社に誇りを持つのと同様に、日本に対して誇りを持つべきです。

日本人は謙虚すぎるのでしょうか?

山岸 そういう面は多少なりともあると思います。日本人の中には、アメリカと聞くと「ナンバーワン」という印象を持つ人も多いとは思いますが、実際に一対一で仕事をさせると、日本人の方が仕事の処理能力は高いと思います。ただ、もっと日本人は打たれ強くなる必要があります。アメリカ=ナンバーワンと思うのは、ある意味、日本に誇りを持てていない証拠だと思います。自分の国についての知識を蓄え、海外の人に自慢できるくらい誇りに思うことで、もっと打たれ強くなれるのではないでしょうか。

鈴木 一番大事なことは、相手の国の文化を知ることですね。日本人はアメリカとヨーロッパを「欧米」として一括りに語ることが多いですが、例えばヨーロッパの人は、自分たちはアメリカ人と全く違うと思っていますし、イギリス人は、「ヨーロッパ」とは大陸ヨーロッパのことで、自分たちがヨーロッパに属しているとも思っていません。このようなそれぞれの文化的事情や感覚をしっかり認識する必要がありますね。

異文化に対する理解が一番重要だということですね。

鈴木 そうですね。特にヨーロッパのように複数の文化が共存する地域に赴任する場合はなおさらです。その国の歴史、文化、気質などをしっかり理解しておかないとその地域の人々と仕事をするのは難しいです。例えば、イギリスとスペインは基本的にあまり仲が良くないのですが、そこにはアルマダ(無敵艦隊)の海戦やジブラルタルの領有問題など、歴史的・政治的な背景があるということを知っているか否かでは、会話の理解が全然違います。あとは、ドイツ人は真面目で仕事が正確、南欧の人は良くも悪くも非常におおらか、などの国民性を把握すること。そのような赴任先の文化的、歴史的背景や社会構造を理解しておくことが、仕事をするうえで重要ですね。

荒木 やはり僕も、異文化理解の重要性はすごく感じましたね。特に台湾は中国との間でかなり複雑な歴史を経てきているので、営業の際のちょっとした会話にも気を遣わなければなりませんでした。その辺りが日本とは異なる点ですね。やはり日本は民族紛争などの種々の対立からある程度守られてきた国なのだなと思いました。

 上海に勤務された時はいかがでしたか?

荒木 上海に行ってからは、台湾時代とはまた異なる目線や現地の人の考えに気づかされましたね。中国というと反日デモなどの暴動が頻発しているイメージがありますが、現地の人の中には「あれはただのガス抜きなんです」「政府によって仕向けられているだけです」と言う人もいます。特に僕のお客さんなんかは結構冷めた目で見ていました。そして、中国はとても大きな国なので、一口に中国と言っても、南と北では方言も違えば考え方も異なります。現地では「北と南の人は方言が違いすぎて会話ができない」と言われているくらいです。そんな巨大な国の中で、自分は日本人として何ができるのだろうと常に自問していました。自社の商品にいかに付加価値をつけて売るかということが、苦労というよりは一番面白みを感じましたね。

荒木氏:旅行先の中国のハワイ「海南島」にて

やはり異文化の理解は大切なことなんですね。
山岸 そうですね。僕が一番印象に残っているのは戦争について認識の違いですね。僕たち日本人は、唯一の被爆国として、原爆に対する教育をある程度に受けて育ってきたので、考え方の違いはあるにせよ原爆に対してはそれなりの思い、考えがあると思います。ただアメリカ人は原爆に対して日本人ほど深い考えは持っていないんですよね。彼らからしてみれば、原爆のおかげで戦争が終わったから良いじゃないかという感覚なんです。むしろアメリカでは、12月8日の日本による真珠湾攻撃の特集などが未だに放送されていたりします。原爆にしても真珠湾攻撃にしても、やられた側の方がやった側よりも、そのことにまつわる記憶は深く刻まれるんですよね。歴史の事実は1つだけれども、その捉え方は国によって異なります。だからそのようなことを知らずに海外へ飛び込むと、痛い目に遭うと思いますね。
最後に早大生へのメッセージをお願いします

山岸 最近若い社員が会社に入ってくるのを見て感じるのは、英語を話せるのはもう特別ではないということです。英語を話せることはある種のスタートラインのように感じます。だから、英語に加えてもう1つ2つ、自分の強みを持てるといいですね。また、若いうちに海外の文化に触れておくことは本当に大切だと思います。日本は島国なので、多様性という点では他の国に劣ります。ですので、積極的に海外に出て様々な文化を吸収すべきです。そしてその際に、日本の歴史や政治に関する知識や自分なりの考えをちゃんと持っていく必要があります。先入観を持て、というわけではありませんが、ある程度思想的に武装していった方が、海外の人とも渡り合えますし、得る物も大きいと思います。世界を意識しつつ、日本人としての誇りをしっかり持って、頑張ってほしいですね。

鈴木 積極的に海外に出るべきというのは、荒木さんと一緒ですね。お金と時間に余裕があるのなら、留学や海外旅行は積極的にすべきです。やはり海外に出ることによって自分を客観視できると同時に、日本も客観視できると思います。今現在いろいろな国際問題がありますが、やはり「自分の国が一番」という思想だけではダメですね。「自国と比べて海外はどうだろう」、という視点を欠いてはいけません。そのような視点を育むためには、やはり海外で暮らしてみることが一番早いと思います。また海外で直面した日本との違いを否定するのではなく、なぜそこに違いがあるのだろう、と考えていくことが非常に大切です。

荒木 学生時代にしかできないことをしてほしいですね。個人的にはできるだけ長く海外に滞在することをお勧めします。短期の観光目的の滞在でも楽しめますが、その国の表面的な部分しか見ることができません。しかし、1ヶ月も滞在するとその国の文化のディープな部分をある程度知ることができます。そしてその先には、先にお二人が述べたような、「日本を客観視する」ことができていくと思います。早大生には学生のうちにしかできないことに積極的に取り組んでほしいと思います。

編集後記

終始和やかな雰囲気で質問に答えて下さった荒木さん、鈴木さん、そして山岸さん。ご自身の学生生活や海外赴任の経験をもとにしたお話はどれもユーモアに富んでいて、楽しみながらインタビューを行うことができました。その中で、お三方は「日本人としての誇り」と「異文化理解」の大切さについて、何度も言及されており、特に海外で働く際には、この2つの要素が非常に大切であるというお話にははっとさせられました。普段日本で生活している限りにおいては、自分が日本人であることを強く意識することはあまりありません。しかし一旦海外に出ると、「自分が日本人である」ことは、とても重要な意味を持つのです。だからこそ、海外の人に対し、自分が日本についてどう考えているか、自らの言葉でしっかりと語れるようになることが重要なのだと認識をあらたにしました。

 

森 雄志(政治経済学部2年)

2 / 48ページ

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén